44 旅に出る前に①
ロアンナが王妃や前オーデン子爵と騎士団長デュアンに会った日から、ジークの嫌がらせはピタリと止まった。最近では王太子宮内でジークと顔を合わせることすらなくなっている。
(平和だわ。私が辺境伯領に行っている間も、このまま大人しくしていてくれたらいいのだけど)
そんなことを思いながらロアンナは、自室で一人、王太子宮に勤めている使用人達の一覧と向き合っていた。
ノックのあとで弟のレイが部屋に入ってくる。
「姉さん。とりあえず、クラウチ侯爵領に行くまでの準備は終わったよ。領地までは、街や村が点在しているから荷馬車に最低限の食料と水、衣類を積んでおいた」
「ありがとう。レイ」
幽霊になってしまったライズの体を取り戻すために、ノアマン辺境伯領に向かう準備は着々と進んでいる。
(あとは、私が不在の間、王太子宮を誰に任せるか、ね……)
手元の使用人一覧を眺めながら、ロアンナはため息をついた。
(私としては、優秀なエリーに王太子宮の管理をお願いしたかったけど、話を持ちかけたら「お、お姉様も私を捨てるんですか!?」と号泣しちゃったのよね)
ロアンナが「違うわ。あなたが優秀で信頼できるから、王太子宮を任せたいと思ったの」と説明しても、エリーは「嫌です! 私もお姉様と一緒に行きます!」と言いながら泣きじゃくった。
(困ったわね)
エリーの頭をヨシヨシしている様子を見たライズも『エリーさんは、いろいろあったからロアンナ様がいないと不安になっちゃうんですかね……』と同情的だ。
そういうことがあったので使用人一覧を取り寄せて、他に頼めそうな人を探しているが、今のところエリー以上の適任者が見つからない。
(他の元お飾りメイドの子達は、皆、実家の爵位が低いのよね)
伯爵出のエリーとは違い、他の子達は男爵だったり、準男爵だったりする。
王太子宮内では、下位貴族の令嬢や嫡男以外の子息も使用人として働いているので、それなりの身分でないと、彼らは従う気になれないだろう。
(王太子宮の騎士達は、デュアン卿の指揮下に入ることになったから心配ないけど、メイド達を取りまとめる人を決めてからじゃないと、安心して出発できないわ)
頼りになるはずのライズはというと、数日前に『もっとお役に立てるように、情報収集してきます!』とはりきって出て行ってから、まだ戻ってきていない。
ため息をついたロアンナは、同じ黒髪の弟をジッと見つめた。
「いっそのこと、レイに女装してもらって私のふりをしてもらう、とか?」
「どう考えても無理でしょ! あと、さりげなく僕を置いていこうとしないでよ。これでも姉さんの護衛騎士なんだからね!?」
自分より背の高いレイを見上げながら、ロアンナは「冗談よ」と微笑む。
そのとき、部屋の扉がノックされた。入ってきたエリーの表情には戸惑いが浮かんでいる。
「お姉様に来客が……。その」
エリーの背後から現れたのは、冤罪をかけられて投獄されていた侍女長だった。よほど精神的負担が大きかったのか、侍女長の頬はこけていて以前より顔色も悪い。
一気に年をとってしまったような侍女長は、「王妃様よりロアンナ様が不在の間、王太子宮の管理をするように命じられました」と感情が読めない声で話した。
(あんな扱いを受けても、まだ王族に仕えるのね。すごい忠誠心だわ)
感心しているロアンナに向かって、侍女長は深々と頭を下げる。
「ロアンナ様。助けてくださり、ありがとうございました」
「私があなたを助けたわけではないわ。王妃様と取引させてもらった結果だから気にしないで。それにしても、大変な目に遭ったわね。体は大丈夫なの?」
侍女長は、驚いたようにわずかに目を見開く。
「はい、ありがとうございます。ロアンナ様は、助けたわけではないとおっしゃりますが、私は……ロアンナ様に恩を感じております。このご恩はいつか必ずお返しします」
「王妃様からも恩を受けているの?」
何気なくした質問だったが、侍女長は少しだけ口元を緩めた。
「はい……。嫁ぎ先で居場所のなかった私を侍女として雇ってくださり、殿下の乳母役まで与えてくださり感謝しております」
「そう。なら、王妃様と私が同じ目的の間は、あなたも私の味方と思っていいのかしら?」
静かに言葉の続きを待っている侍女長に、ロアンナは語りかけた。
「私はこれから一年の間、ジーク殿下と婚約を続けたいと思っているわ。王妃様も同じ考えよ。でも、これ以上、ジーク殿下が好き勝手することも、お飾りメイドを王太子宮内に入れることにも反対なのよ」
「王妃様からは、王太子宮を管理するようにとしか命じられておりません」
「そうなのね。では、あなたはどう思っているの?」
ロアンナがまっすぐ見つめると、侍女長の目が泳いだ。
「私は……。私のような者がジーク殿下に指図するわけには……」
言葉が続かない侍女長に、ロアンナは穏やかに尋ねる。
「お飾りメイドについてはどう思っているの?」
侍女長は、エリーをチラッと見てから「ジーク殿下がロアンナ様と婚約するまではなかった制度です。これからも、ないほうがいい制度だとは思っています」と答えてうつむいた。
「あなたの考えは分かったわ。とにかく、この婚約を一年間、維持するためにも、ジーク殿下がまたお飾りメイドを勝手に作ろうとしたときは王妃様に報告してね。それだけでいいわ」
「かしこまりました」
顔を上げた侍女長は「これからは、できる限りロアンナ様の意志に沿うように王太子宮を管理させていただきます」と告げる。
「頼んだわよ」
再び深く頭を下げてから、侍女長は退出した。それを見届けたエリーが、ロアンナの耳元で囁く。
「侍女長の行動は、元お飾りメイドの子達に監視するように伝えておきます」
「ありがとう」
すべてが完璧とは言えないが、これでようやく出発する準備が整った。
ロアンナの視界の端で、壁をすり抜ける幽霊ライズが見えた。ロアンナの視線に気がついたライズが、嬉しそうにピョンと跳ねている。
「エリー、お茶にするわ。いつものようにバルコニーに運んで」
「はい!」
スーッとロアンナに近づいてきたライズはご機嫌だ。
『ただいま戻りました!』
『ライズさん。おかえりなさい』
無言でバルコニーに向かうロアンナのあとを、ライズがフワフワとついてくる。
『情報収集がうまくいったようね?』
『はい!』
『でも、どうして急に情報収集をしようと思ったの?』
『あっ、それは……』
窓を開けると、心地好い風がロアンナの黒髪を揺らした。テーブルについてからロアンナは、改めてライズを見つめる。なぜかぼんやりしているので「続きは?」とロアンナが催促すると、ライズは慌てて説明を始めた。
『先日、ロアンナ様と王妃様のやりとりを聞いたときに思ったんです。ロアンナ様は、王妃様の事情をよくご存じだな、と』
『そうね』
美しい王妃は、令嬢時代から常に社交界の中心にいたらしい。とにかく目立つので話題に上りやすいし、母から王妃について教えられていたことも多い。
『情報は、とても重要なことだとソンシ(孫子)にも書かれているのに、俺はジーク殿下のことをまったく知らなくて……』
『ソンシって?』
『異世界で有名な兵法書です。彼を知り己を知れば百戦殆からず、って聞いたことありませんか?』
『ないわね』
『全文はこうです』
――彼を知り己を知れば、百戦殆うからず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆うし。
『これは、敵の実情や戦力を知り、味方の実情や戦力をきちんと把握していれば、百戦しても危険がない。しかし、敵のことを知らず、味方のことだけを知っていると勝ったり負けたりする。さらに、敵のことも味方のことも知らなければ、戦う度に危険が伴うっていう意味なんです』
ロアンナはライズの話に耳を傾けながら、エリーが運んできたお茶に口をつける。
『それを一言にまとめると?』
『ようするに、情報収集って大切だよねってことかと』
『なるほどね』
『そういうわけで、しっかりと情報収集したことにより、今まで見えてこなかったことが見えてきましたよ!』