12 幽霊じゃないのなら……
その後レイは、ロアンナを王太子宮まで送り届けてくれた。レイと別れ宮の中に入ったとたん、緩んでいた気持ちが張りつめていくのが分かる。
出迎えた数人のメイド達は、無言でロアンナに頭を下げた。彼女達の前を冷たい表情のままロアンナは通り過ぎていく。
ロアンナは、決して使用人達に侮られたり虐められたりしているわけではない。王太子宮の使用人達は、ロアンナに対して親しい態度は見せないものの、王太子の婚約者として最低限の礼儀は払っている。
それをしないのは、ジーク王子とその取り巻きであるお飾りメイドの五人だけだ。
それ以外の使用人達は、ロアンナが本当に王太子妃になり自分達の主に収まるのか、それとも出ていくのか見定めようとしている。だからこそ、ロアンナは王太子宮内で気を抜くことができない。
いつもどおり無言の給仕を受け、広い食堂で一人きりの夕食をすませたロアンナが、自室に戻るとすでに入浴の準備が整えられていた。控えていたメイド達が、ロアンナの服を丁寧に脱がせていく。
メイドの一人がロアンナの左手首に巻かれたリボンに触れようとしたとき、ロアンナは思わず止めてしまった。
不思議そうな顔をするメイドに、ロアンナは「これは自分で外すわ」とリボンの端を指で引っ張る。スルスルと解けたリボンは、宝石箱に入れておくようにメイドに伝えた。
お湯に浸かると、レイの言葉が蘇ってくる。
――あのライズさんって人……本当に幽霊?
ライズの見た目は、どこにでもいる幽霊そのものだ。しかし、言われてみれば他の幽霊達と異なるところが多々あった。
(もしかして、お空に行く前に、生前の姿じゃなかったり、光の粒にならなかったりしたのは、ライズさんが幽霊じゃなかったからなのかしら?)
浴槽から出ると、濡れた体をメイド達が拭いていく。雫が垂れない程度にロアンナの長い黒髪を乾かしたあと、メイド達はうやうやしく頭を下げ部屋から出ていった。
ナイトドレスに着替えたロアンナは、気がつけばピンク色のリボンを手に取り見つめていた。
(幽霊じゃなかったら、もしかして……。ライズさんは、亡くなっていない可能性も……)
誰もいないはずの、背後から『あのー』と声をかけられ、ロアンナは小さく悲鳴を上げた。慌てて振り返ると、白く丸い幽霊がいた。身につけているピンクリボンでライズだと分かる。
「ライズさん!? どうして、ここに?」
ライズのつぶらな瞳が、ウルウルと涙で滲んだ。
『そ、それが、お空への行き方が分からなくて! ロアンナ様、どうしたらお空に行けるんでしょうか!?』
「ええっ!? 今までの幽霊は未練や後悔がなくなったら、勝手にお空に行っていたから行き方なんて分からないわ」
「それってもしかして……。俺はもう悪霊になっているってことですか!?」
サァと血の気が引くように、ライズの全身が青くなっていく。
「自我が残っているから、まだ悪霊にはなっていないはずよ」
『でも、このままだといつかは悪霊になってしまうんですよね⁉ い、嫌だ!』
ライズの目からは、とうとう涙が溢れ出した。
「落ち着いて。実はレイが、あなたは幽霊ではないんじゃないか、と言っていたの」
驚いたのか、ライズの涙が止まる。
『え? じゃあ、俺はなんなんでしょうか?』
「それは……」
ロアンナは言いかけた言葉を呑み込んだ。
(何かの拍子に魂だけ出てきてしまった、生霊……とか?)
それなら、レイの言う通りライズは幽霊ではない。そして、ライズの魂が抜けてまだそれほど時間が経っていないのなら、体に戻れれば生き帰る可能性もある。しかし、これらはあくまでロアンナの想像。もし、そうでなかった場合、ライズに期待を持たせたあとで、悲しませてしまうことになる。
「……私では分からないから、明日レイに聞いてみるわね」
『ロアンナ様、ありがとうございます!』
小さな手を祈るように合わせるライズを、ロアンナはわざと怖い顔を作り睨みつけた。
「で? あなたはいつまでここにいるつもりなの?」
『え?』
戸惑うライズに分かりやすく説明してあげる。
「ここは私の部屋で、入浴をすませた私は人前に出るような恰好ではないのだけれど?」
生地の薄いナイトドレスからは、ロアンナのスラッとした白い手足が出ている。ライズは、『あっ』と小さく呟いたあと、ボッと全身を赤くした。
『す、すみません!』と叫び、慌てて部屋の壁をすり抜けてどこかへ飛んでいく。
ライズの姿が完全に見えなくなってから、ロアンナは机に座り羽ペンをとった。そして、弟レイへの手紙を書く。
(ライズさんが……。いえ、ライズ・ノアマン辺境伯が亡くなったという話は、まだ王都まで回ってきていないわ。でも、情報屋はすでに掴んでいる可能性がある)
情報屋に調べてもらいたい旨を書いて、次に兄マックスへの手紙に取りかかる。マックスは、クラウチ侯爵家当主となり、王都を離れ今は領地に戻っていた。
(クラウチ侯爵領は、王都よりノアマン辺境伯領に近いから、お兄様にライズさんの体が今どうなっているのか調べてもらいましょう)
二つの手紙を封蝋してから、ロアンナはため息をついた。
クラウチ侯爵家の紋章が蝋に押された手紙を勝手に開ける者はいない。ロアンナに無礼な態度を取り続けるジーク王子でも、この手紙は開けられない。この手紙を勝手に開けること、それはすなわちクラウチ侯爵家全体を敵に回すということ。
(これで何か分かって、ライズさんに報告ができたらいいのだけれど……)