第8話 また、出会ったのは
「ねえすず。ここから離宮って遠いのかな?」
「あら。行かれたいのですか? 近いですよ」
「! 愚闇、行っても良い?」
「良いんじゃないですかね。主殿には近づかないよう言われてますけど」
「やった」
「ふふ。いってらっしゃいませ」
すずに見送られた沙夜が、愚闇と歩く渡殿(壁のない屋根だけの廊下)には、人が見当たらない。
『果ての宮』と揶揄されているぐらいのこの場所は、女官たちがいる皇城すぐ裏の主殿から、かなり遠いところに位置しているからだ。
皇城には外堀や天守閣があり、通常の執務や接見は城の中で行われている。
皇帝と皇太子の居住区(寝所)である後宮には、特別な行事を除いては一握りの限られた高官と女しか入れない。
後宮には主殿と呼ばれる、皇帝や皇太子が主に過ごす場所の他、皇妃や女官の数だけ色々な建物がある。それらはいわゆる寝殿造のように、屋根があって外壁のない、板張りの廊下で繋がっており、大きな中庭をぐるりと囲うことから『回廊』と呼ばれている。広すぎて迷う。
沙夜のいる『夜宮』は北側の端に位置し、離宮にもほど近い。
「みんな部屋に籠っていて平気なのかな? 暇じゃない?」
「ははは。確かに」
「わん」
後宮の女たちは、基本それぞれの部屋で過ごす。日がなおしゃべりをしたり、手紙を書いたり歌を詠んだり、楽器を弾いたりしているのが常なのだそうだ。
村で忙しく働いていた沙夜にとっては、あまりに退屈で耐えられない。
そのため愚闇と玖狼と共に散歩するのが日課となり、また自然と、魅侶玖と出会った離宮の庭が心安らげる場所になった。
そんな、ある日のこと。
日課となった散歩をしていた沙夜は、離宮にある池の前にしゃがみこんでいる、小さな背中を見つけた。
ねずみ色の水干姿で、灰色の髪は肩につくぐらいの長さだ。
(いつも誰もいないのに?)
「誰だ」
すかさず愚闇が鋭い声を発する。
驚いたのか、小さな肩がびくりと跳ねた後で尻もちを突いたので、慌てて駆け寄った。
「だいじょうぶ!?」
「沙夜っ、じゃなかった、夜宮さま! 迂闊に近づいては」
焦る愚闇は沙夜を止めるが、遅かった。
「だって、転ばせちゃったもの」
灰色の少年は、そっと背中に手を添える沙夜を見上げてふふっと笑う。
「びっくりしたあ! さよ?」
「はい」
返事をした瞬間、びたりと動きを止めた沙夜は、それからごくりと息を呑んだ。
少年は眉尻を下げて苦笑する。
「そうかんたんに、へんじしたらだめだよ。これは、そのけいこく」
「しまっ」
愚闇が絶句するのを背後で感じながらも、沙夜はすぐに動き出し、そのまま少年の手を持って立たせてやる。
「そうなのね。知らなかったわ」
「ふふふ」
ぱんぱん、と片手でお尻を叩いて砂を払う彼の目は――白く濁っていた。
「目、見えないの?」
「みえるよ」
「ああ、良かった!」
「やさしいなあ、さよ。きにいったよ。ぼくは、ハクだよ」
「ハク?」
「うん」
手を繋いだまま、ハクは愚闇を振り返った。
「そこのからす。そう、けいかいするな。ぼくだよ」
「!」
「おろかなひなが、おおきくなったね」
「あなたさまは……」
ハッと我に返った様子の愚闇が、即座に地面へ片膝を突いて深く頭を垂れる。
「こら。さよがこわがるだろう。たって」
「は」
「ハク? 愚闇がひな? ってどういう」
「からすてんぐだからね」
「へ?」
言われた沙夜もバッと振り返ると、愚闇の背中からは黒い大きな翼が生えていた。
「ですね」
「烏天狗ぅ!?」
「しらなかったの? それはわるいことしたかな」
「いいえ。寝ずの番を心配されるので、いつ言おうかと思っていたところです。というわけで、オイラは寝なくて平気ですからね」
「えええええ!!」
沙夜の目は、限界まで見開いたままだ。だんだん目の表面が乾いてきても、衝撃のあまり瞼を閉じられない。
その間もふたりは、淡々とやり取りを続けている。
「ギーは、げんき?」
「お元気でいらっしゃいます」
「よかった。そとにでたのひさしぶりだから。いろいろきかせて」
「は!」
「さよ? そこ、すわろ?」
離宮の濡れ縁へと促されても、一歩も動けない。
「てことは、ま、さか、ギー様も」
沙夜の脳裏には、銀髪赤目で紫の狩衣姿が麗しい、紫電二位の姿がありありと浮かんでいる。
「なまえとみためで、わかるだろう?」
「いやいや、いやいや! ええ!? ええええええ」
「あはは! さよ、おもしろい!」
無邪気に引っ張られて、ようやくすとんと木の板の上に尻もちを突いた。
「ぐーあーんー!?」
目を剥く沙夜へ、烏天狗はやれやれと言うかのように肩を竦めてから――翼をばさりと一度はためかせて見せた。ふわりと足先が地面から離れて、またすぐに着く。
「はいはい。この通り、オイラたちは人間と共に暮らすもののけなのですよ」
「ってことは、他にもいるの!?」
「まあ。多くはないですけどね」
ハクがにこにこしながら、沙夜の横で白湯でも飲もうと言うと、目の前に湯気の立つ椀が現れる。
「ええっ!?」
「さあ、どうぞ。へんなものは、はいっていないよ。ね、ぐあん」
「はい。ハク様の『おさゆ』は縁起物にございます」
ふたりの圧に押されて、とりあえず椀を傾けた沙夜は――
「! おいし」
飲んだ瞬間思わず放った言葉で、ますますハクを上機嫌にさせたのだった。
◇
「けがれのにおいがしたから、しんぱいしてたんだけど」
濡れ縁の上から足をぷらぷらさせるハクが、無邪気に言う。
「けしてくれてありがとう、さよ」
「え!? いいえ、その、夢中で」
「うん。からだへいき?」
「はい」
白く濁った目で、じっと目を覗きこまれた沙夜は、無駄にドキドキしている。
少年の顔であっても、非常に整った顔立ちで鼻筋が通っていて、唇は赤い――圧倒されるような、何かがある。
「うーん。むりしたらだめだよ。おきたばっかりだから」
「えっ何が!?」
「あれ。しらないの?」
沙夜は早口で、村があやかしに食われたため、祖母の遺言に従い皇都に来て愚闇に助けられ、魅侶玖にいきなり更衣に召し抱えられたことを話した。
「わー。たいへんだねー」
ハクはにこにこと棒読みで、白湯をすする。
「ハクも、もののけ?」
「まあね。きになるだろうけど、ぼくがなにかは、いえないんだ。ごめんね」
「そう……わたしの中の、なにが起きたの? わたしがあやかしを消したのよね?」
「うーん。いえない。けど、さよが、けした」
沙夜は、ふーっと大きく息を吐いて椀を持った手を膝に乗せた。
愚闇が玖狼と並んで、庭から心配そうに見ている。
「ばあばがここに導いたからには、何かあるとは思っていたの」
「うん」
「いつかは、分かる日が来る?」
「うん」
「そっか」
ハクはにわかに真剣な顔をして、沙夜の左手首の組紐をそろりと触る。
「それまでこのおまもりは、けっしてはずしてはいけないよ」
すると、身体が温まってきた。
「ばあばにも、同じことを言われた……」
ポカポカと元気づけられるような気持ちになることが、不思議でならない。
「そっか」
「ねえハク。またここに来てもいい?」
「もちろんいいよ。あえるかは、わからないけど。あとぼくのことはだれにもいってはだめだよ」
それでも、ハクといる時間が心地よかった沙夜は、素直に頷いた。