第5話 離宮での出会いと、出遭い
「あーあ、疲れた……誰だ?」
掃除をする沙夜の前に、小汚い格好の男が紛れ込んできた。
「は? あなたこそ! ここは、後宮です! 男性は、入れませんよ!」
「あー……黙って見逃してくれ」
「ええ!? 嫌です! 怒られるのは、わたしですよ!」
「わんっ」
「言わなきゃ怒られない」
沙夜は竹箒を立てて持ったまま、彼を上から下まで観察する。
年齢は恐らく沙夜より少し上だろう。黒髪でがっしりとした体格で、瞳は日の光に当たると金色に見える、はしばみ色。
薄汚れた灰色の直垂と小袴にはあちこちに泥や砂が付いていて、草履の足先は汚い。
どこか狭くて汚い場所でも掃除したのか、鼻の頭まで汚れている。
「でもっ」
「とにかく。俺は疲れている。ここで寝たいだけだ。黙ってろ」
「……なるほど。泥だらけなところを見ると、懸命に働いた後のようね」
沙夜がずいっと近寄ると、彼はたじろいだ。
眉間にしわを寄せた厳つい表情だが、乱暴な雰囲気でないことに安堵する。足元の玖狼も黙って尻尾を振っているので、警戒しなくて良い人種だろうと判断した。
「はたら……まあ、な」
「休憩場所を奪っちゃうのは、わたしもイヤかな」
(あくまで、ただのお掃除番だしね……ここの管理を任されているわけじゃない。そんな身分じゃないし。)
「なら、放っとけ」
「ただし! 条件がある!」
沙夜は、びし! と人差し指を彼に突き付ける。
上体を軽くのけぞらせて片眉をひそめる姿に、思わず笑いそうになるのを堪えた。
(絶対貴方の方が強いと思うけど。素直な人だなあ。)
「なんだ?」
「わたしは、ここのお掃除番です。汚すのだけは絶対許さない」
彼はきょとりとしてから、自分の着衣を見下ろした。
「言われてみれば、汚いな。わかった、綺麗にしてから寝る」
「よし! じゃあ、そのままでちょっと待っててね」
「おん!」
沙夜は竹箒を地面に置くと、勢いよく振り返って走り出した。
「!? っおい……」
青年の戸惑いを背中に置き去りにして、ささっと裏の井戸で木桶に水を汲んでから戻ってくると、彼は直垂の袖口に手を差し入れて腕を組み、庭を眺めていた。
背が高く背筋もピンと伸びているその後ろ姿は、伸ばした黒髪を頭頂で結っていて、雰囲気だけなら武人のようだ。
そんな彼に一瞬でも見惚れて立ち止まった自分に戸惑い、それを打ち消すようにあえて明るく声を掛ける。
「おまたせ!」
沙夜は、胸元にいつも常備している自分の手ぬぐいを取り出して、木桶の中の水に浸してぎゅっと絞った。
「え、なにをする」
「そこ座って。拭いてあげるから」
笑いながら手を伸ばして、鼻の頭を手ぬぐいでこすると、彼は耳まで真っ赤になった。
怒るかな? と思った沙夜の予想を裏切って、素直に縁側に腰かけたので、足元に跪いて脛を拭いてやる。よく見ると傷だらけだったが、それにはあえて触れない。
「子供扱いするな」
「子供でもこんなに汚さないよ。ほら、草履脱いで」
「……母親は大変だな」
「失礼な! わたしはまだ十六だ!」
「その年でも子を産む女はいるだろう?」
「ぐぬぬ。今すぐ追い出してやろうか」
「ふは!」
彼が、おかしそうに笑う。
「俺を、追い出す! 面白い!」
「できないと思う? ふん!」
「おん!」
わざと乱暴に木桶に手ぬぐいを投げ入れて、地面に寝かせていた箒に手を伸ばすと、玖狼もぐるるると喉を鳴らす。
「悪かった。とにかく眠いんだ。頼むから寝させてくれ」
男は苦笑しながら、そのまま縁側にごろりと横になった。
どうやら、汚れた服で部屋に入るのは遠慮してくれたらしい。
縁側なら、多少土や砂で汚れても、水拭きすればそれで済む。
「ならばよし」
自分の腕を枕にしてゴロリと横になったかと思うと、
「……あ……り……」
よほど疲れていたのだろう、すぐに寝息を立て始めた。
――それからというもの、その男は、一日おきにやってきては昼寝をした。
いつの間にか沙夜は、名前も知らない彼と会うのを心待ちにしていた。
(だってやっぱり、ひとりは寂しいよ……)
◇
「今日は、来ないのかなぁ」
「おん、おん」
「寂しいね」
「きゅーん」
黒い雲が、空を覆っている。
天気が崩れそうというよりも、ひたすら重い、真綿の蓋のような空だ。
「なんか、すごく……嫌な予感がする……」
そして、べたべたとまとわりつくようなじめりとした空気に、覚えがあった。
「玖狼……もしかして……あやかしが、来る……?」
「ぐるるる」
――ねちょり
「っ」
「ぐるる、うー」
――ぺたり、ねちょり
バッと振り返るが、その音の主は分からない。
ただ漠然と、禍々しいものの気配を肌で感じる。
「玖狼、変だよ。皇城は結界で守られてるから安全だって、愚闇さんが言ってたのに」
一人ではこの空気に耐えられず、不安を押し出すかのように独り言を放つと、威嚇するように鋭い犬歯を見せる玖狼が、強く唸った。
「うーぐるるるる」
――うぞうぞうぞ……ねちょり、ぺたりん
「ワンワンワンワンッ!」
突如として派手に吠えた玖狼の目線の先。
「あ……」
いつの間にか、真っ黒いどろどろの闇が、黙って浮かんでいた。
粘りのある黒い液体が、大きな体から絶え間なく地面に滴り落ちている。何かを探すように差し出された両手は、行き場なく宙を彷徨うように、ユラユラ揺れている。
目も足も判然としない。宙に浮かぶネバネバの大きな存在が腕だけ出している――それがついに、沙夜に気づいて、嬉しそうに鳴いた。
「ろーろろろろ」
「ひゅ」
こんな、の。
どうしたら良いの。
足がすくんで、動けない。
あまりの恐怖で、目をそらせない。
(ばあば、ごめん。私、何も分からないまま……)
「おいッ!」
そこへ、ダダダダと走り込んで来たのは、いつもの青年だ。
「なにしてんだ! 逃げろ!」
頭では分かっていても、恐怖で足がすくんで動けないのは、仕方のないことだろう。
「ちっ」
彼は袂から小さな笛を取り出して「ぴ」とひと吹きしたかと思うと、沙夜の二の腕を掴んで強く引き、走りだした。
「ガウッ! ワンワンワン! ワンワンワン!」
「玖狼ッ!」
沙夜が離れた分、そのあやかしは玖狼に覆いかぶさろうとしている。果敢に吼え続けているが、それを意に介すことなく、ねろねろした腕が今にも体へ触れようとしていた。
ずっと心を支えてくれていた相棒を見捨て、しかも目の前で亡くす――
「いやっ!」
沙夜は、理性ではダメだと分かっていても、捕まれた腕を振りほどき玖狼へ駆け寄る。
「あ! こら!」
やめて!
もう、連れて行かないで!!
脳裏に、ばあばの笑顔が浮かんだ。
「――まよいあやかし、はよかえり。めいのもんは、とじかけり。るりのまもりにゃかなわんて」
早口で子守歌を唱えたのは、なぜか。
沙夜には、分からない。分からないが。
「ろーろろ……」
あやかしは即座にぴたりと動きを止め、徐々に存在を薄くし――やがて、消えた。
「き……えた……だと……」
愕然とする男の声を聞いて安心した沙夜は、そのまま気を失った。