第2話 生き残り、旅立つ
皇雅国という国の端に位置する、小さな名も無き村があった。
厳しい自然に囲まれたそんな山間の村にとって、『皇都』は無関係な遠い場所でしかない。
たとえ国の中枢で何かが起こったとて、こんな田舎には何の影響もない……と誰もが思っていた、これまでは。
「ああ、またやられた」
「くそ、結界縄はまだ届かんのか!」
「役人も来る途中でやられてるんだろうさ」
「逃げてるやつらもいるだろ。こんな小さな村、見捨てられるに決まってる」
村の男たちが、毎日のように騒いでいるのには、訳があった。
皇帝が不在になると、国宝である『護り刀』の力がなくなり、国中に『あやかし』が放たれてしまう。
運悪く出会ってしまったなら……普通の人間はなす術なく食われるしかない。その証拠に、『皇帝が身罷られた』という報せが届いてからの毎日、夜が明けるたびに血の臭いが漂っていた。
ある朝、村の中の小さな家の前に、一人でぼうっと立っている若い女がいる。
今年で十七を数える彼女は、長い黒髪を後頭部でひとつに括り、地味な小袖と褶に腰布を着けている。
(皇帝を神様のように崇め奉り、どれだけ生活が苦しくても納税だけは怠らなかったのは、青剣のためだったのか)
女――沙夜は、朝の冷たい空気の中、微動だにせず立っている。その華奢な肩を、通り過ぎる大人たちがぽん、ぽん、と陰鬱な表情で叩いていく。慰めか諦めか、またはその両方だろう。
昨日まで、元気な赤子の泣き声がしていたはずのこの家は、朝になるとしんと静まり返っていた。
村の男たちは、暗黙の了解とばかりに無言で集まったかと思うと、粗末な木戸を乱暴にこじ開け無断でドカドカと中へと押し入る。
口々に「ひでぇ」「むごい」などと漏らしながらも、凄惨な遺体を見せないようにして運び出し、弔う。
恐怖と悲しみ。不安と焦燥は、人々の精神を徐々に苛んでいく。
ついには畑仕事も家事も放り投げ、木を組んだだけのあばら家に引きこもってしまう。そんな者が、増え続けている。
雨が降るわけでもないのに、じめりとした空気が肌にまとわりつく。
「ねえ、ばあば。あたしらも食われちゃうのかな」
いつも通りの水汲みや洗濯、簡単な畑仕事や子供たちの世話を終え、夜に備えて自分の家に戻った沙夜が尋ねても、ばあばと呼ばれた老婆は問いには答えず、ただ彼女の左手首を指さした。白と黒で複雑に編まれた組紐が巻かれているが、何度聞いても由来は教えてくれない。
「……沙夜。そのお守りをけっして、離したらいかんよ」
「っ、分かってる」
沙夜の両親は、いない。
物心ついた時からこれまで、ばあばと二人暮らしをしてきた。女ふたりでは何かと物騒な世の中だが、『玖狼』という大きな犬が、常に寄り添ってくれている。
「わんっ!」
真っ黒な毛に真っ黒な目で、立つと胴の高さが沙夜の腰近くまでくる大きさ。男性が近づいてくると、吼えて威嚇してくれる、頼りになる存在だ。
近所の畑を手伝って、食料を恵んでもらう。
子供の世話や食事の用意、洗濯などをして、お駄賃をもらう。
そんな貧乏暮らしでも、一日の終わりにばあばから縫い物を教わりながら、玖狼とともに囲炉裏でくつろぐ時間は、沙夜にとってかけがえのないものだ。その証拠に、このような状況にあっても、一緒にいるだけで安心できる。
パチパチと炭の中の空気が弾けて、火の粉が飛ぶ。
ばあばが、今度はおもむろに囲炉裏の中の灰を指さす。ふるふると細かく震える彼女の指先を、沙夜は黙って目で追った――手の甲のしわには、自分を養ってくれた年月と苦労が刻まれているようで、温かくも胸が苦しくなる。
「もしあたしに何かあったら、その中に」
「え?」
ガタン!
「ああ、来てしまわれた」
「ばあば?」
「沙夜。目を閉じておいで」
「え、なに」
「ええから、ばあばの胸におり。目を開けたらいかん」
「おん、おん」
たちまち沙夜は、老婆とは思えない強い力で二の腕を掴まれ、引かれ、腕の中に閉じ込められる。その両眼は、袖で塞がれる。自分の方が強いはずなのに、振りほどけない。驚きとともに、離せと抵抗する。が――
「しっ。動いたら食われる」
その言葉によって、沙夜の動きは封じられた。おまけに、体の上にのしかかる玖狼はどっしりと重い。
「よいこは、ねんねこ。ねんころり。まよいあやかし、はよかえり。めいのもんは、とじかけり。るりのまもりにゃかなわんて」
いつも聞かせてくれる子守歌で耳も塞がれ、毎日の習慣のせいか、沙夜はあっという間に眠りに落ちた。
◇
――翌朝。目が覚めた沙夜の手の中には、破れた着物の一部だけが残されていた。
「……?」
窓枠からうっすらと漏れる、日の光に照らされた室内の粗末な木の床には、どす黒い血だまりがある。
音の全くないしんとした朝は、非現実的だった。
「っ……」
あまりの静寂に、沙夜の背筋にぞわりと冷たいものが走る。
何かに駆り立てられるかのように、飛び起きて家の木戸をガタガタと開け、裸足のまま外へ走り出た。足裏に小石が刺さるが、麻痺しているのか気にならない。
「っぐ」
すぐに腕を持ち上げて、袖で鼻を塞ぐ沙夜の眼前に広がるのは、惨劇のあとに間違いない。
鉄臭い。何かが焦げる匂い。灰色の煙が燻って立ちのぼる家が、目の前だけでも何軒かある。囲炉裏の炭から飛び火したか――
カア、カア。
一羽の烏が、視界の端に見える家の、屋根の上で鳴いている。
沙夜はひとり、呆然と立っている。
カア、カア。
カア、カア。
「あぁ……」
村が、丸ごと食われている。
もうここには、自分の他には烏しかいない。
「ああぁ……」
どうしようもない絶望感の中、ばあばの声が脳内に響いた。
『もしあたしに何かあったら、その中に』
「っ!」
ダダダと家の中にとって返し、囲炉裏の灰の中に無我夢中で手を突っ込む。白い灰が舞い上がり、視界を塞がれたので、手の感覚だけで中を掘り探った。
「あっつ!」
まだ熱を持っていた炭に触れたか、思わず手を引っ込めたところに、黒犬が戸口から走り込んで来た。
「おん、おん!」
「玖狼っ!? 生きてた! 良かったーっ!!」
やけどをしたかもしれないが、愛犬が生きていたことが嬉しくて、痛みを忘れた。
「喜んでる場合じゃないっ! あのね、ここ! ばあばが指さしてたでしょ? ゴホッゴホッ、うえっ」
舞い上がる灰にむせつつも手を突っ込んでかき回すと、指先に何か固いモノが当たった。まさぐり、夢中で掴み、持ち上げる。
「ゴホッゴホッ、んんん……箱?」
ごん、と固い箱を床に置く。両手でようやく持ち上げられるぐらいの重さがある。大きさは、手のひら二つ分ぐらいだ。
手と袖で周りの灰を雑に払ってから、恐る恐る蓋を押し上げると、中には金貨が数枚と折り畳まれた紙が入っていた。
「紙?」
そっと広げると、二枚重なっている。最後まで中身に目を走らせると、沙夜は唇を真一文字に引き絞り、キッと顔を上げた。
「……皇都へ行け、って」
小さな田舎の山村に住む娘が、文字を読める。
その異常性に沙夜はまだ、気づいていなかった。
唯一の肉親が遺した道しるべに、従うしかできなかったから。