第14話 よみがえる記憶
ある山の中を、少女が慣れた様子でてくてくと歩いている。鬱蒼とした山道であるが、わずかにけもの道ができている。
その先にある小さなお社に、自分のおにぎりを分けて捧げるのが、毎日の習慣だった。祭られているのは、ここの山神。自身が住む小さな村をどうか守って欲しい、ともみじのような小さな手のひらで、毎日祈っていた。
そんなささやかな日課の帰り道。
少女の足が、突然止まった。
「落ちちゃったの?」
見上げる大きな木の枝には、烏の巣が見える。足元では、小さな黒い雛が、枯葉の上で弱弱しく動いている。
「そっか……」
キョロキョロと辺りを見回すと、親烏と思われる姿を枝の上に見つけた。が、見ているだけで手助けしそうな気配はない。
「もしかして、巣立ちの練習してるの? ……巣に戻してあげた方が良いかな……でも私の匂い、ついちゃうしな」
うーん、うーんと真剣に悩んでいるその少女を困らせたくない。
その一心で、雛は翼に力を入れたかに見えた。
「わ! 飛べそうだね!? すごいすごい!」
はじける笑顔に応えたくて、より一層羽ばたいてみた――が、飛べない。
じたばたしている雛を見守っていると、何かの鳴き声がした。
「おん!」
「え!?」
がさごそと草花をかき分ける音が近づいてくる。匂いを嗅ぎつけられたか、と少女は身構える。
彼らにとって、雛はごちそうだ。
「ああ、どうしよう。ひなちゃん、食われちゃう。でもな……」
迂闊に手を出してはならない、と彼女は悩む。
弱肉強食は、自然の摂理だからだ。雛を助けたいが、食わずに飢えるものがあってもいけない。
そうしているうちに、やがて少女は、黒い大きな狼と対峙することになった。
ぐるるるる、と明らかに腹を空かせた様子の口吻からは、ダラダラと涎が垂れている。見るだけで恐ろしい、自分よりはるかに強い存在に、少女は肚を決めた。
「この子食べちゃうなら……私からどうぞ」
黒狼はぎゅっと目を瞑る小さな少女へ、たしたしと近づいたかと思うと、頬をぺろりと舐め上げた。まるで味見だ。
ひと噛みで頭ごと食べられそうなぐらいの大きさの獣を前に、涙を浮かべた少女は、それでも背中に雛を庇ったまま震えながらじっとしている。
「その幼さで捨身とは。見事なり」
狼がそう言ったので、少女はぱっと目を開け不思議そうに眺めた。
彼はそれを見るや、ふっと笑う。
「われは山神。雛は食わぬよ。様子を見に来ただけだ。さすが涼月と夕星の娘であるな」
「りょうげ……?」
「知らぬなら、良い。どれ、その雛はわれが預かろう」
「!」
「そなたの眷属として育てるさ。きっと必要な時が来る」
「かみ……さま?」
「改めてそう呼ばれると、照れるよな」
ぱあ、と明るい笑顔になった少女に、黒狼は体をすり寄せた。
少女は、遠慮なく撫でる。長い毛がふわふわとして気持ちが良く、あちこち触った。
「ふはは。くすぐったいなあ。さて、神といっても新参者ゆえ大した力はなくてなあ。そなたの信心でようやっと命を繋げているようなものだ」
「しんじん?」
「ああ。毎日お供えをありがとう、だな」
「! はい!」
「できれば、名付けてくれるか? そうしたら、力が強まる」
「んじゃえっとね、黒いから、くろう!」
「はっはっは! 覚えやすいなぁ。玖狼。良い名だ」
◇
「くろ……玖狼……」
「うん。ずっと側にいたぞ」
沙夜の目の端から溢れ出る涙をぺろりと舐めてから、優しい顔で見下ろす黒い耳黒い毛、そして黒い目の大きな狼は――
「やまがみさま!」
がばりと体を起こすと、そこは見知らぬ部屋だった。
「おん! ってな。どうだ、うまく化けておっただろ?」
「ああああ……」
ニヒヒと笑う彼の首に、沙夜は抱き着いた。少し獣の匂いのする、ふわふわの毛が暖かくて心地よい。
掛け布団が飛んだのを、いそいそと畳むのは愚闇だ。
「愚闇ってもしかして! あの時の、ひなちゃん!?」
「はい。ひなちゃんです。どうも」
隠密が初めて覆面を取って、照れた顔で笑う。
その下は精悍な男の顔なのだが、どこか懐かしい。あの日助けた、勝気な雛の顔に、確かに似ていた。
「ああああもう!」
今朝目撃した凄惨な光景を吹き飛ばす事実に、沙夜は大いに動揺した。
皇都にやって来てすぐに愚闇が助けてくれたのも、玖狼と居たからかと思い至り、たまらず叫ぶ。
「なんで忘れてたの!? なにが起こったの!? ……魅侶玖殿下は!?」
黒狼と隠密が、顔を見合わせる。
「わほん」
「ええ!? 玖狼様、面倒だからってオイラに丸投げ……いやいいですけどね。あー、ごほんっ」
ぼりぼりと後ろ頭をかきつつ、愚闇が言うことには――
夜宮に忍び込んだ尚侍が、あろうことか沙夜の首を絞め殺そうとした。
当然気づいた愚闇が飛び込み、阻止する。
拘束しようとしたが、尋常でない力で抵抗され、斬らざるをえなかった。その殺生については、魅侶玖も隣にいたことから、お咎めなし(第一皇子暗殺の嫌疑=死罪相当で処理済)。
ところが、動揺した沙夜を抱えていた魅侶玖に、なぜか障りが出た。
愚闇の機転で玖狼の力を使って祓えはしたものの――夜宮は穢れたため、白光部隊による正式な禊の式が必要となった。
「てなわけで、しばらくお部屋使えないっす」
「えぇ……? いいけど、言い方軽くない……?」
「もう素でいっかなって」
「ひなちゃんだもんね」
「うぐ。それだけはやめて」
はあ、と沙夜は大きな溜息を吐いた。
「魅侶玖殿下は大丈夫?」
「まあ、なんとか……」
愚闇が玖狼を見やると、ぷいっとしてから敷布団の上に丸まった。
元の大きな体になったので、足も尻尾も、だいぶはみ出ている。
玖狼は山里に降りるため神の力を封じたのだと言う。それに伴って沙夜の記憶も封じられていたのだが、愚闇が封印を解いたことによって同時に解かれた、ということだった。
「その顔じゃ、あんまり大丈夫じゃなさそうね?」
「一時しのぎなんで。油断はできないっす。根本を排除せにゃ」
「根本?」
沙夜が玖狼を見ても、微動だにしない。答える気はなさそうだ。
「殿下……」
正義感のあふれる横顔を思い出して、沙夜の胸はざわついた。
お読み頂き、ありがとうございます!
愚闇と玖狼がなぜか前々から親しそうなのは、色々伏線を張っておりました。お気づきでしたでしょうか。