8.この感情の名は
裏切られ、捨てられた存在はリョウだけではなかった。
シルヴィアは己の母親とその侍女の奸計で連れ出され、売りに出された。彼女は何とか逃げ出すことができたけれど、知らない地、知らない動物、知らない魔物。様々な要因から彼女もまた傷付いていた。ボロボロの身体を引きずって、ようやく辿り着いたのがこの森だ。
湖の妖精が気まぐれにシルヴィアを引き寄せなければ、今頃冷たくなっていただろう。
(それに、リョウに出会えなかった)
シルヴィアの紅玉の瞳はうっとりとリョウを見つめる。
黒い髪、黒い瞳。温かな声、優しい笑顔。全てが自分のために向けられると胸の鼓動が治らない。
湖の妖精が気まぐれで呼び込んだ哀れな二人は、まるで運命であるかのように惹かれあった。それはもはや、運命などというロマンチックなものではなく、理性を全て薙ぎ払うほどの本能である。互いが居なくなればどうなるかわからないほどの衝動的な何か。
頭をリョウの頰に擦り付けると、「くすぐったいよ」という声が真横で紡がれる。
好きだ、という感情のみが脳を焼くような熱で刻み付けられた。
——それが、彼も同じだと信じている。
実際に、同じような衝動はリョウも抱えていた。けれど、その強い感情をコントロールする術を現在の彼は知らなかった。それがどのような関係から生じているかもわかっていない。そのため、困惑の気持ちも大きい。
シルヴィアの顎の下を撫でながら、休むために見つけた宿へと入った。
人の良さそうな店主に、宿泊プランについて聞かれて、要望を伝えると部屋の鍵を受け取った。食事を取って内側から鍵を閉めると、中にあった棚を移動して扉の前に置いた。
『そこまでしないといけないの?』
「嫌な感じはしないけど、落ち着かないんだ。怖いんだ……」
リョウの震える手を見て、彼の心についた傷が深いものであると感じ取る。
リョウを守らなければ、できることをしなければとシルヴィアも決意する。ベッドの端に腰を落としたリョウの隣へと座った。
リョウが眠ると、あの湖の時と同じように結界を張る。愛する男のためならば、このくらい大したことではないと思えたし、実際にリョウと出会ってからシルヴィアの身にはとても強い魔力が宿った。持て余すほどの力であるのだから、大切な人のために使えるというのであればこんなにも幸福なことはない。シルヴィアにはそう思えた。
愛する男の腕の中で、丸くなった彼女を窓から差し込んだ月光が照らす。
『明日にあなたが、今日よりもっと幸福でありますように』
ぎゅあぎゅあ、と愛らしく鳴くようにしか聞こえなかったとしても、この美しい竜は確かにリョウの幸せを願って、その祈りを口にした。
だから、眠りが浅く、偶然目を覚ましたリョウは優しい祈りを聞いて、嬉しくなった。思わず泣いてしまいそうなくらい。
(ああ、どうしよう。好きだ)
同じ種族でないものに抱く感情ではないかもしれない。けれど、シルヴィアの優しさを愛しく思う。
ある種の衝動、本能のようなものと重なって、彼は自らの感情に“恋”と名をつけた。
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