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無名従騎士に伯爵令嬢の相手は荷が重い

作者: 雪村サヤ

 ブリジット・プティ。それが彼の心にいる令嬢の名前だ。輝く銀の髪、大きな青い目、長い睫毛、赤くふっくらした唇に小さな顎。他にも素敵なところはたくさんあるが、とにかく、普通の人は一つか二つ持っていればよい方だろう魅力的なところを、全て持ち合わせているのがブリジットだった。

 対するジャン・ベルナール。平均をやや上回る身長と、短い茶髪、茶色い瞳、特筆するところのない顔。同世代に比べればしっかりと鍛えられた体くらいしか、目立った特徴はない。


 二人が出会ったとき、ジャンは十四歳でブリジットはまだ十二歳だった。

 ブリジットは父であるプティ伯爵の領地視察に同行するため、伯爵夫人と共に拠点となる街へ向かっていた。領内の慣れた道だからと最低限の人数で移動していた馬車が、なりふり構わない荒くれ者に襲われているところに、ジャンの父とジャンがたまたま通りがかったのだ。

 荒くれ者たちにとって運の悪いことに、ジャンの父は脚を悪くして退任するまで騎士として仕えていたし、ジャンはその父から日頃剣を教わっていた。さらに言えば、ジャンの父は馬に乗っていれば、現役の頃とそれほど遜色なく動くことができた。

 二人は騎馬の優位性を活かしてすばやく荒くれ者たちを制圧し、伯爵夫人とブリジットを助けることができた。


 ジャンは車輪が外れて傾いた馬車からブリジットを引っ張り上げ、自分の馬に乗せて街まで連れて行った。伯爵夫人は馬車を引いていた馬の一頭に乗り、軽傷だった護衛がもう一頭に乗った。ジャンの父は怪我をした御者の手当や警備隊の対応のために、その場に残った。

 馬車から助け出された後も恐怖に身を強張らせ、震えていたブリジットに、ジャンは馬を走らせながら取り留めもない話をした。

 初めて馬の出産に立ち会った話や、兄とのけんかで家の一番大きな窓を割り、母と家政婦をかんかんに怒らせた話や、冬は犬と一緒に暖炉の前でうたたねをするのが一番幸せに感じる話なんかを。

 街が見えてくる頃には、ブリジットの震えは収まり、真っ白だった頬にはほんの少し血の気が戻ってきていた。


 街では、プティ伯爵が夫人と娘の到着が遅いことに不審を覚え、捜索の手配を始めていた。

 ジャンたちは、まさに捜索のための警備隊が出発しようとしているところに駆け込んだ。

伯爵はやっと現れた愛娘が、どこの馬の骨とも知れない少年と相乗りしているのを見て怒髪天をつきそうになったが、夫人が冷静に説明する内容を聞き、すぐに態度を改めた。

 ジャンは伯爵に殴られずに済んでほっとしたが、伯爵の娘──ブリジットのことが気にかかっていた。ブリジットは街についてすぐに宿の中へ入ったため、ろくに顔を見ることもできなかったのだ。今日の出来事が彼女にとって深刻な傷になっていないかが心配だった。

 警備隊は捜索ではなく現場確認と救護のために出発し、ほどなくして父が戻ってきた。

 伯爵に出迎えられた父は家名を名乗りはしたが、報奨は固辞した。ジャンも同じ気持ちだった。自分は守るべきものを守っただけなのだ。たとえ襲われていたのがプティ家の馬車でなくとも同じことをした。


 二人の縁は、そこで終わったかのように思えた。

 けれどプティ伯爵の気は済まなかった。彼は夫人と娘を救った親子への恩を忘れず、視察が終わった頃にベルナール家に丁寧な礼状を寄こしただけでなく、父を“ささやかなお茶会”に招待した。「若き騎士ジャン殿にもぜひお越しいただきたい」という一文を添えて。




 初めて訪れたプティ家は、この国の貴族を全員招いてお茶会を開くつもりなのかと思うほど広く、そして美しく飾り立てられていた。

 白と青を基調とした壁に、薄い青や紫の花が飾られ、華美なのに上品な屋敷だった。


 ブリジットは、そんな美しい屋敷の中でひときわ輝いて見えた。

 まず大きな青い目が見えた。それから桃色の頬。緊張しているのか、やや強張った細い顎。彼女が小さく膝を折り、赤く色づいた唇が開くと、真珠のように小さく白い歯がのぞいた。


「ようこそ、ジャン・ベルナール様」


 この時のジャンは、父曰く「脳みそまで溶けたみたいな阿呆面」をしていたらしい。これは仕方のないことだと思う。見たこともないくらいに綺麗な女の子──そう、彼女はまだ子どもだったのに──が目の前に現れて、ジャンは完全に参ってしまったのだ。

 ブリジットは、固まってろくに返事もしないジャンに少し不安そうな表情を浮かべた。


「息子はこういった場が初めてでして」


 見かねた父が助け船を出した。


「ご令嬢の美しさに肝を抜かれたらしい。失礼なやつで申し訳ないが、このまま案内していただけますか?」


 伯爵家の中にあっては乱暴な部類に入りそうな父の言葉に、ブリジットは少し頬を赤らめた。


「そうなのですね。では、こちらへどうぞ」


 ブリジットと、その後ろに控えていた使用人らしき女性が歩きだす。ジャンは父の杖に小突かれ、慌てて前を歩く彼女の後ろ姿を追った。

 その日のブリジットは、右のこめかみ辺りの髪をねじって白い花と銀のリボンで留めていた。それ以外の髪の毛は、緩く波打つままにおろされ彼女の細い肩と背中を覆っていた。

なんて綺麗なんだろう。つやつやと揺れる銀の髪は、日差しを反射する水面のようだった。きっとブリジットの髪は、彼女の髪であることを誇りに思っているに違いない……。

 その後のこと──伯爵夫妻との対面──は、緊張しすぎていてほとんど覚えていない。気づけばジャンは、ブリジットと二人で、プティ邸の見事な庭にある、東屋の中に腰かけていた。


「ジャン様」

「俺のことは、どうぞジャンと。そんな身分ではありませんから」


 ジャンはかろうじて残っていた脳みそで、彼女からの敬称を断った。


「そう。では……ジャン」

「はい、ブリジット様」

「わたくしのことも、ブリジットと呼んでくださる?」

「でも……」

「いいから。お父様は怒らないから平気よ」

「では、ブリジット」

「それがいいわ。また、あなたの家の犬の話を聞かせてくれないかしら。犬は飼ったことがないけれど、興味があるの」

「もちろん」


 ジャンはそれから犬のことだけを話した。自分が幼い時にいた老いぼれ犬のピエールから、ジャンと一緒に育ったぼさぼさ巻き毛のカトリーヌと、昨年彼女が生んだばかりの可愛い赤ちゃん犬たちのことまで、全部。

 ブリジットはその全てを、興味深そうに聞いていた。

 カトリーヌの生んだ赤ちゃん犬に、ジャンが三回連続でおしっこをひっかけられた話をしたときなどは、声をあげて笑いさえした。

 ジャンはその笑顔を、無意識のうちに心に刻んだ。ブリジットの笑顔は清らかで、とても可愛かった。


 プティ邸を後にするとき、ブリジットは最後に「ありがとう」と囁いた。

 ジャンは一瞬おいて、その言葉が二人が出会ったときのことを指しているのだと理解した。

 あの日は話せないくらいの緊張状態にあったブリジットが、今日は笑顔で自分とおしゃべりしてくれた──それだけで、ジャンはあの日の自分を大いに誇りに思うことが出来たし、褒めてやりたい気持ちでいっぱいになった。

 ジャンは高揚する気分のままに応えた。


「こちらこそありがとう。きみの笑顔が見られてよかった。そのままでもとても綺麗だけど、笑っているきみが一番かわいいから」


「おや」

「まああ」

「大胆だな」


 ブリジットだけに伝えたつもりだった言葉は、近くにいた伯爵夫妻と父に聞かれていた。ジャンは少し恥ずかしくなったが、素直な気持ちだったので胸を張って黙っていた。

 ブリジットは、見たこともないくらい赤面して、うるんだ目でジャンを見つめていた。


(今日のことは、きっと一生大事にしておきたい思い出になるな)


 帰路、伯爵が用意してくれた馬車の中で、ジャンはのんきにそんなことを考えていたのだった。



 ◇ ◇ ◇



 今度こそ終わるかと思ったプティ家との縁は、その後も茶会や遠乗り、船遊びへの招待によって続いた。

 ジャンが十六歳で士官学校に入り、プティ家へ行くことができなくなると、今度は手紙が届くようになった。


 ブリジット・P。差出人にそう書かれた手紙は、ジャンのつらく厳しい士官学校生活を何度も救った。

 士官学校は、爵位や財産を持たない家の子供にとって最悪の場所だった。

 財力やコネによって生活水準が大きく異なるのが士官学校の寮であり、退任した無名騎士の息子であるジャンの生活は最低水準と言ってよかった。


 けれど、ほとんど眠れないまま朝早く起き、上級生や裕福な同級生のために働かなくてはいけないときも、くだらない嫌がらせでぐちゃぐちゃになった持ち物を見つけたときも、ブリジットのことを思えば大抵のことは乗り越えられた。彼女を守れるようになるために、ジャンは士官学校に入ったのだから。

 ブリジットからの手紙はいつも、彼女なりのユーモアと、温かさと思いやりに満ちていた。

 ジャンが士官学校に入ってから飼い始めた犬のこと、様々な季節の行事、家族のこと、弟のこと──ブリジットには大変生意気な弟がいるのだ──ジャン抜きでもときどき会うらしいジャンの両親や兄のこと。最後には必ずジャンの体を気遣い、彼の士官学校生活がうまくいくように心から願う言葉が綴られていた。


 時間のある時は、手紙を読み返しながらブリジットのことを思い出した。

 初めてプティ家へ行った時の、薄い青のワンピースが驚くほど似合っていた彼女。ジャンの話を聞いて、自分も犬を飼いたいと言っていたこと。庭を歩きながら、様々な花の名前を教えてくれたこと。

 遠乗りに誘ってくれたのに、一人で馬に乗れないと弱音を吐き、結局ジャンと相乗りをした彼女。

 初めての船遊びで船酔いしたジャンに、心配そうに付き添ってくれた彼女。ジャンが精いっぱい考えてプレゼントしたすみれのジャムや小さな花束や武骨な字の綴られたカードを、いつもとても喜んでくれたこと。




 士官学校は同じ年ごろの男が集まる場所なだけあって、下世話な話題には事欠かなかった。

 ジャンはそういった話題に、積極的には混ざらなかった。たまに水を向けられたときには、経験はないしそういった相手もいないと答えていた。事実、そうだったのだから。

 大抵はそう答えれば、ジャンの話は聞く価値がないと判断され、あとは無視された。


 しかし、ジャンが士官学校で唯一親しくなった友人は違った。彼はジャンには心に決めた相手がいるのではないかとしつこく探り、ついにはブリジット・Pの存在を探し当てた。

彼はジャンが少しの間出しっぱなしにしていた手紙を見て、ブリジットの使う上質な便箋や美しい筆跡から、相手は貴族令嬢かそれに近い財産を持つ名家の令嬢に違いないとまで言ってのけたのだった。


「いいな、玉の輿じゃんかお前」

「そんなのじゃない」

「そんなにたっくさん手紙のやり取りしといて、何言ってんの? 向こうは絶対お前に気があるよ」


 ジャンは友人の無神経な言葉に少々苛ついた。


「たまたま縁があって、家族ぐるみで付き合いが続いているんだ。彼女に失礼だからもうやめろ」

「”家族ぐるみのお付き合い”だけで、会えない男に何通も手紙書くと思うか? いや~いいな。年齢は? そんなに離れてないんだろ?」

「……二歳、年下」

「めっちゃいいぐらいじゃん! どんな娘? 美人?」


 ジャンはブリジットの笑顔を思い出し、答えた。


「美人だし、綺麗で、かわいい。今まで会ったどの女性よりも」


 友人は驚いた顔をしていた。


「……何だ?」

「いや……お前もそんな冗談言うんだと思って」

「別に冗談は言ってない」

「いやーそうだよなー……はは……」


 友人はそれっきり、ブリジットのことを茶化しはしなかったが、時折「お前、P嬢にちゃんと手紙書いてるか?」と確認をしてくるようになった。ジャンは毎回、余計なお世話だと返した。確認されなくともブリジットへの手紙は、ジャンの中の最優先事項の一つだったからだ。



 ◇ ◇ ◇



 士官学校の最高学年になり、ようやく最悪の寮生活から抜け出した頃、ブリジットから手紙が届いた。


──卒業式典には、家族が参列できると伺いました。あなたのご両親にお願いして、あなたの卒業式典にはわたくしも参列します──


 式典に参列。ブリジットはその意味を知っているのだろうか。士官学校の卒業及び叙任式典は通常、卒業する従騎士の家族かそれに準ずる者──婚約者が参加するものだ。


──士官学校は騎士を目指す人間の集う場ですが、同時に若い男が集まる場です。あなたの耳に入れたくないような乱暴な言葉が飛び交うこともあります。不快な思いをされることもありましょう。どうか御身の安全を大切に、伯爵夫妻にも相談の上慎重にお考えください。──


 遠回しに、式典には参加しない方がと良いのでないかと書いたジャンの手紙は、遠回し過ぎてうまく伝わらなかったらしい。「わたくしの身の安全を心配するならあなたが守ってくださいませ」という殺し文句が返ってきただけだった。

ジャンはため息をついた。

 もちろん、守れるものなら守りたい。けれど、式典に出席する他の従騎士やその家族の視線から、どうやって彼女を守れるというのだろう?

 婚約者でもないただの無名従騎士の自分が、どうやって?




 式典当日は、順序を間違えずに移動し、整列し、跪くことで精いっぱいだったので、ブリジットのことは考えずに済んだ。一瞬でも彼女が来ていることを思い出したら、きっとどこかでしくじっていただろう。

 卒業及び叙任の式典とは言え、卒業と同時に叙任されるのは元々爵位のある家出身の者だけだ。ジャンのような無名の従騎士は、卒業後に何かしらの功績を立てなければ正式に騎士にはなれない。

 つまり、ここからジャンの本当の始まりだった。


 直立不動のまま叙任式典をやり過ごし、ようやく全ての行程が終わった。

 ジャンが参列者向けに開放されたホールへ向かうと、そこは既に、晴れ姿を見に来た家族と役目を終えて安心した表情の従騎士でごった返していた。

 貴族には別のホールが解放されているので、より砕けた雰囲気だ。中には、誰かの妹か姉らしい若い娘に声をかけている者もいた。さっさと見つけないと、これは本当に彼女が危険な目にあってしまうかもしれない。


 ジャンは人をかき分けながら、家族とブリジットを探した。会場を半分ほど進み、バルコニーのある側まで行くと、ある一点に視線が引き寄せられた。

 後ろ姿で分かった。

 彼女だ。

 ブリジットだ。

 彼女は光沢のある青い地に、銀の糸で花が刺繍されたケープを付け、その下には細い体が際立つ、青いドレスを着ていた。ジャンの両親と、何やら談笑している。


「ブリジット……」


 ふるまい酒のグラスを手にした彼女が振り返る。

 大きな青い目が、ジャンを捉えて微笑みの形に細められた。


「ジャン」


 久しぶりに顔を合わせたブリジットは、ジャンの記憶と予想をはるかに超えて美しかった。

 銀の髪は淑女らしく結い上げられ、真珠と百合の花を象った銀の飾りを付けている。ジャンは女性の髪形に詳しいわけではないが、女神がこの世に降り立つときもきっと同じ髪型をするに違いないと思った。

 大勢の人でにぎわう会場で、ブリジットだけが、ほんのり輝いて見えた。実際、本来ならば貴族向けのホールにいるべき彼女の姿は周囲から浮いていた。ジャンを含めた他の人々が泥のついた芋や人参なら、彼女は高貴な一輪の花だった。


 またもや彼女を前に惚けているジャンに、ブリジットは大きな目を瞬かせ、微笑んだ。


「ジャン?」

「ブリジット……」

「ああジャン、立派になって!」


 ブリジットを前にふわふわと漂いかけていた意識は、母の力強い抱擁によって現実に引き戻された。

 ぎゅっと抱きしめてすぐに離れた母は、記憶よりも小さく見える。ジャンが無事に卒業を迎えられたことを、心底誇りに思っている顔だった。

 横から現れた父が、「よくやったな」と杖をついていない方の手で肩を叩いた。父の顔まで見ると、ジャンにもようやく実感がわいてきた。ようやく、最悪の士官学校生活──最終学年はそれほどでもなかったが──が終わったのだと。


「父さん、母さん今日は来てくれてありがとう。その……ブリジット嬢も」


 微笑んでベルナール家の面々を見守っていたブリジットが、片眉を上げた。


「久しぶりに会えたのに、距離のある呼び方ね。どうぞ、昔のように呼んで」

「では……ブリジット」

「ええ、ジャン。とても立派だわ。騎士の制服がこんなに似合うなんて、思ってもみなかった」

「そうかな? 俺に似合うくらいだから、きみにはもっと似合いそうだ」


 言いながら、ジャンは騎士の──正確には従騎士の式典用制服を着たブリジットを想像してみた。

 濃紺の上着と揃いのトラウザーズ、ひざ下までの黒い編み上げブーツ。上着の上から締めた黒いベルトが彼女の腰の細さを際立てる。従騎士のペリースは短く、制服と同じ紺色だが、彼女なら思い切って白でも似合うだろう。銀糸で彼女の家に飾られていたような花々を縫い取って──


「もう、ジャン?」


 ブリジットが、思考を飛ばしていたジャンの顔を覗き込んだ。


「おかしな想像はやめてね。わたくしはもう、ごっこ遊びは卒業したわ」


 そう言いつつ、ブリジットがいたずらっぽい微笑みを浮かべる。ジャンはその言葉で、以前彼女と船遊びをしたとき(ジャンが船に慣れた頃の話だ)に、首にスカーフを巻いて船乗りのマネをしたことを思い出す。あのときの彼女はただ老人の喋り方をまねて、ふんぞり返ってジャンに指示を出すだけだったが、今ならもっと様になるだろう。


「それじゃ、ジャン。私たちはもう行くから、後は二人で楽しんできなさい」

「ブリジット嬢をちゃんと送り届けるんだぞ」

「あまり遅くならないようにね」

「え? ああ、もちろん──もう行くのか?」


 父は頷いて、ホールの出入り口へ歩き始めた。ブリジットと共に両親を追ってごった返すホールの出入り口まで来ると、母が「ここまででいいわよ」と言う。どうやら本当に帰るつもりらしい。


「お前の顔なら、家に帰ってくれば嫌というほど見れるからな。それではブリジット嬢、ごきげんよう」

「またうちにも遊びにいらしてね、ブリジットさん」

「ごきげんよう、ベルナールのおじ様、おば様」


 ブリジットが淑やかに膝を折って二人を見送る。ジャンは事の流れについていけず、生返事で二人を見送った。

 二人の背中が人ごみの向こうは消えると、ブリジットがジャンの方へ向き直った。


「わたくしたちも行きましょう。お気に入りのお店を押さえているの」




 ブリジットが向かったのは、ジャンが普段は出向かない地区にあるレストランだった。貴族御用達の高級店が立ち並ぶ地区だ。

 レストランはほどほどの大きさで、白い壁に赤いレンガを使った瀟洒な外観の建物に、青いドレスを着たブリジットの姿が映えていた。

 案内されたのは二階の大きな窓のある部屋で、明るい日の差し込むテーブルには、ブリジットによく似合う青と白の花が飾られていた。


 しばらくは食事をしながら近況報告をしあった。手紙はやり取りしていたものの、話はつきなかった。ブリジットは会えない間に、聡明で美しい令嬢に成長していた。いまだに結婚も、婚約すらしていないことが不思議なくらいだ。

 ジャンはデザートが運ばれてきてから、気になっていたことを切り出した。


「どうして、今日の式典に?」

「手紙でも知らせたでしょう。ジャンのお父様が知らせてくれたから、一緒に行きたいとお願いしたのよ。あなたの晴れ姿を見たくて」

「ありがとう。きみが来てくれて嬉しかったよ。けれど、参列しているところを誰かに見られたら、変な勘ぐりをされないか心配なんだ」

「変な勘ぐり?」


 ブリジットが少し顎を引いた。なごやかだった空気が変化する気配があった。


「わたくしがあなたといることで、一体どんな風に勘ぐられるのかしら」

「わかるだろう。きみと俺は身分が違いすぎる」

「わたくしもわたくしのお父様も、爵位だけを見て人とお付き合いはしないわ」

「そういうことじゃなくて……」

「じゃあ、どういうこと?」


 ブリジットは小首をかしげ、挑戦的な微笑みを浮かべた。

 ジャンは一瞬ためらった。言ってしまおうか。いや、言えるわけがない。


「まあ、いいよこの話は。きみが顔を出す場所全部に、あれこれ口出しするわけにはいかないし」

「ジャン、あなたが望むなら──」

「ブリジット」


 ジャンは彼女の言葉を遮った。


「色々言ってしまったけど、今日きみが来てくれて、本当にうれしかった」

「そう?」

「ああ。きみは本当に、とても──綺麗になったし」


 ブリジットが嬉しそうに微笑む。ああ、この純粋でかわいらしい笑顔は、少女から女性に成長しても変わらない。彼女の成長を一番近くでは見られなかったが、これからは一番近くにいたいと、そう言えたら、どんなにいいだろう。


「ところで、今日はそろそろ帰ろうか。きみの家の馬車に乗せてもらうのにこう言うのも変だけど、送っていくから」


 輝くようだった笑顔が、ほんの少し陰る。彼女の落胆が伝わって、ジャンはかすかに胸が痛んだ。


 プティ家のタウンハウスの前で、ブリジットはジャンをお茶に誘った。伯爵夫妻も夜には戻るので、挨拶していってはどうかと言って。そうしたい気持ちはあれど、ジャンは断った。


「ジャン、最後に、わたくしに何か言いたいことはないの?」

「え? ……ああ、俺が士官学校にいる間、ずっと手紙をくれてありがとう。きみからの手紙にいつも助けられたよ。おかげで、きみのことをうまく思い出せたし」

「そうなの? わたくしのことを思い出した?」

「何度も、ブリジット。でも思い出のきみよりも、今日のきみの方がずっと綺麗だ」


 本心から出た言葉だった。ブリジットが口をつぐんだ。そして、うるんだ目でジャンを見つめた。

 この見つめ方。彼女にこんな風に見つめられて、「いいえ」と答えられる人間がいるのだろうか?

 ブリジットは顎を上げ、まぶたを少し伏せると、ジャンの方へ体を寄せた。明らかに何かを、待つような仕草で。ふわりと優しく花の香りがして、その香りを追いかけたくなる。

 ジャンはブリジットの背中に腕を回して、そしてタウンハウスの玄関へと促した。


「そろそろ本当にお暇するよ。今日はありがとう。伯爵には時間を作って、またご挨拶に伺う」

「……」

「どうした?」

「……ジャンのわからず屋」


 わかってるよ。心の中で返事をする。けれどこれは、口に出してはいけない望みだ。

 ジャンはブリジットが使用人たちに迎えられるのを見送り、プティ邸を後にした。




 その夜、数年ぶりの自宅のベッドの上で、ジャンはブリジットのことを思い出していた。

 彼女の、あのまなざし。どうしてあんな目でジャンを見つめるのだろう。まるで、ジャンに何かを与えられるのを待っているような。彼女は伯爵令嬢で、全てを持っているのに?

 自分に与えられるものなんかないと、見ないふりをするしかなかった。

 だから彼女の美しさを賞賛した。もちろん全て本心からの言葉だったが、本心だからこそ、本当に伝えたい言葉を隠すよい隠れ蓑になってくれる。

 自分がとんでもない臆病者で、卑怯者だという気がした。それはきっと気のせいではないのだが。




 ◇ ◇ ◇




 士官学校を出て従騎士として仕えはじめたジャンは、再び寮生活をすることになった。寮は古く快適とは言えないが、それでも士官学校時代に比べれば遥かにましな生活だった。

 ジャンと一緒に寮に入った唯一の友人はこれを「自分の尻だけ拭っていればいい生活」と評した。士官学校の寮では、他人の仕事や雑用を押し付けられるのが常だったからだ。


 ブリジットとは、中々顔を合わせる機会がなかった。ジャンは仕事の忙しさを理由に、お茶の誘いを断っていた。

 それでも一度だけ、巡回中に街中で出会ったことがある。ブリジットが馬車の中から顔を出し、ジャンを呼んだのだ。駆けつけると馬車の中には伯爵夫人もいた。

 「これから観劇に行くの」と笑顔で話すブリジットは相変わらず美しかったが、ジャンは自分とブリジットの立場の違いを改めて痛感した。

 彼女とは、身分も生活も何もかもが違う。たとえ彼女があのまなざしでジャンを見つめてこようとも、二人の間にあるそれらの差を埋めることはできないのだ。




 プティ家から──ではなく、ブリジットから招待状が届いたのは、ジャンがそうして、寮生活を始めてから、少し経ってからのことだった。

 それは、プティ邸で行われるパーティーへの招待だった。客の一人としてではなく、ブリジットのパートナーとして出てほしいのだという。

 ジャンは悩んだ末、従騎士の夜間哨戒警備当番を理由に丁重断った。同期に相談すれば当番は変えられたかもしれないが、あえて誰にも相談しなかった。


 それから数日後、服と食べ物を回収するために生家に戻ったジャンに、母が声をかけた。


「あんた、ブリジットさんからの招待を断ったんだって?」

「……何で母さんが知ってるんだ?」

「ブリジットさんから直接聞いたのよ。昨日お茶にいらしていたから」

「は?」


 ジャンは自分の耳を疑った。ブリジットがこの家に──応接間もないこの家に来ていたというのか。ジャンの知らない間に?


「何で彼女がここに?」

「知らなかった? あんたが士官学校に入ってから、ときどき遊びに来てくれるのよ」


 母はのんきな声でそう言った。相手が伯爵令嬢だということを理解しているのか、不安になるのんきさだ。頭が痛くなる。


「あんた腹くくりなさいよ」

「……」

「いつまでも待たせるのは、絶対に彼女のためにならないからね」


 釘をさすようなその言葉に、ジャンは何も言い返せなかった。

 確かにそうだ。ここまでくると、自分が卑怯なふるまいをしていることを認めざるを得なかった。お互いの気持ちを理解していながら、何も言わずに彼女の『身分の違う友人』で居続けていることを。




 訓練でへとへとになり、詰所の食堂で友人と昼食──もうほとんど夕食の時間だったが、ずれにずれた昼休憩の時間だ──を取っているとき、「そういえば」と彼が口を開いた。


「この間、巡回中におつきの人とはぐれた令嬢を保護してさ」

「おお」

「そのご令嬢は残念ながら俺の守備範囲じゃなかったんだが……まあ、年齢が十三歳だったから」

「へえ」

「おい、ちゃんと聞けよ。ここからが大事なんだから。で、そのご令嬢と結構仲良くなって、無事送り届けたお礼にって招待されたんだよ。守備範囲内の令嬢とタダ酒の集まるパーティーに!」

「良かったな」

「おう。でも俺、そんなパーティー参加したことないし。数人なら友人を誘ってもいいって言ってもらえたから、一緒に行かないか? ていうか、一緒に来てくれ」

「はあ?」

「お前にP嬢がいるのはわかってる。でも俺が一人で恥かくのを黙って見過ごすお前じゃないだろ? 頼む!」


 どうして恥をかく前提なんだとか、自分もパーティーに出たことなんかないとか、色々と言いたいことはあったが、ジャンはその頼みに頷いてしまった。どこかで、そんな息抜きが必要だと思っていたのかもしれない。




 友人が助けたご令嬢は子爵令嬢だった。ジャンはそのことをパーティーに参加する当日に知り、きちんと確かめなかった自分を呪った。貴族社会でのつながりはほとんど知らない──半ば意地のように、自分には関係のない世界だと思ってきた──ため、主催である子爵がプティ伯爵と縁があるのか、全くわからなかった。


「あっ、あれが子爵夫妻だぜ」


 ざわめきの広がった会場で、友人が奥の階段から現れた男女を示した。にこやかな男女が、会場の中心に進んできた。招待客が次々に声をかけに行く。友人とジャンが挨拶するにしても、もう少し後にならないと無理だろう。


 そのとき、会場にひと際大きなざわめきが広がり、何事かと視線を巡らせた先で、ジャンは予想していなかった人物を見つけた。

 そこには、ブリジットがいた。


 ブリジットはプティ伯爵にエスコートされていた。伯爵夫妻は光沢のある薄い青の上品な礼服とドレスで、ブリジットは深い青のドレスを纏っていた。周囲の令嬢と比べると装飾が控えめすぎるくらいのドレスが、むしろブリジットの美しさを際立てている。

 銀の髪は高めに結われ、白い羽と青い花が飾られていた。手に持っている扇子にも白い羽があしらわれ、彼女が歩くたびに優雅に揺れている。

 普段よりもしっかりと施された化粧が、彼女の肌をより輝かせ、頬をばら色に染め、唇をふっくらと魅力的に見せていた。

 細くたおやかな首と胸元──ジャンはブリジットがこんなに胸元の開いたドレスを着ているところを初めて見た──を、真珠の首飾りが飾っている。間違いなく、今夜のこの場で、ブリジットが一番美しかった。


 伯爵夫妻とブリジットは主催の子爵夫妻から歓待を受け、にこやかに会話している。

 ジャンは少し離れた会場の隅からその様子を見ていた。ブリジットから目が離せなかった。胸にこみ上げる感情が何なのか──このパーティにブリジットが参加することを知らなかったための驚愕なのか、ブリジットが誰か知らない相手をパートナーとしていなかったことによる安堵なのか、ジャン自身にもよくわからなかった。


「おい。……おい! 何ぼーっとしてるんだよ?」

「ああ、悪い」


 ジャンは一行から目を逸らし、持っていた酒をぐいとあおった。強い酒精と、爽やかな香りが鼻を抜けていく。友人は明らかに様子の変わったジャンに戸惑っているようだった。


「プティ伯爵を見てたのか? 確かに今日の賓客で一番爵位の高い方だが、いきなり話しかけて取り合ってもらえるような相手じゃないと思うぞ」

「違うよ……そんなんじゃない」

「じゃあ令嬢の方? お前にはP嬢が……って待てよ。ブリジット・PのPってまさか……」


 ついに核心に迫った友人には答えずに、ジャンはもう一度横目でブリジットを確認しようとした。しかし、いつの間にか伯爵夫妻の横にブリジットはいなくなっていた。

 到着したばかりだというのに、どこへ行ったのだろうか? まさかいきなり体調でも悪くなったのだろうか?


「ベルナール様」


 背後から急に声をかけられ、ジャンは振り返った。子爵家の制服ではないお仕着せを着た使用人が、いつの間にかすぐ後ろに立っていた。


「俺に何か?」

「主人がお呼びです」

「失礼だが、あなたの主人はどなただろうか」

「『アドリアンの主人』とお伝えすれば、おわかりになると」


 ブリジットだ。ジャンはすぐに理解した。

 アドリアンは、ジャンが士官学校に入ってから彼女が飼い始めた犬の名前だ。


「案内してくれ」


 話についていけていない友人に目配せをして、ジャンは会場を離れた。歩きながら、ブリジットがどうして自分がここにいることを知っているのか、何をするつもりなのかを必死に考えていた。


 案内された応接間に、果たしてブリジットがいた。大きく開いたドレスの背中を向けて、美しい花のように立っていた。


「ブリジット」


 白い羽の扇子を揺らして、ブリジットが振り返る。


「ジャン。来てくれたのね」

「きみが呼べば、もちろん」

「この間は、わたくしの招待を断ったわ」

「あれは……哨戒当番と被っていたんだよ。すまなかった」

「あなたが逃げるから、わたくしも少し手を変えたのよ」


 ジャンは答えなかった。何を言えば良いか、わからなかった。


「子爵とは父が仲良くさせていただいているの。今夜はいないけれど、わたくしもご令嬢とは少し年の離れたお友達でね。わたくしのことを姉のように慕ってくれているの。お願いすれば、少しお部屋を貸してもらうくらいは簡単だったわ」


 ブリジットは開いていた扇子をぱちんと閉じて、傍らの机に置いた。ジャンの方へ、一歩、二歩と近づいてくる。


「……きみのご両親はご存じなのか」

「わたくしたち、話をしなければいけないと思う」

「何のことだ?」

「とぼけないでちょうだい」


 ブリジットがジャンを睨んだ。目のふちが赤くなっている。激情を抑えようと体に力が入り、むき出しの首筋と肩がほんのりと色づいていた。


「はっきりした言葉にはしなかったけれど、わたくしたちは何度も確かめてきたわ。あなたはそうじゃなかったなんて、絶対に言わせない」

「一体何の話だよ、ブリジット」


 ブリジットの目が一気にうるんだ。


「あなたはわたくしのことがどうでもいいの?」

「……そんなことはありえない。俺がきみをどんなに大切に思っているか、きみもわかってるだろう」

「わかっているわ」


 ジャンは焦っていた。ここでこんな風に言い合いをするのは良くない。ここはプティ家の屋敷ですらないし、彼女と自分は今、二人きりで密室にいるのだ。こんなところを誰かに見られたら──いや、そもそも既に部屋に入るところを見られていた可能性だってあるのだ。


「お願いだ、ブリジット。俺はきみを守るために、騎士になりたいんだ。きみの評判を地に落とすようなことはしたくない」

「それで満足なの、ジャン。わたくしを遠くから見て、わたくしの安全を守るだけで? わたくしが誰か他の人と結婚しても?」

「きみが幸せなら、もちろん」


 ブリジットが、怒りに頬を紅潮させた。握り締めた拳が震えている。


「わたくしは幸せじゃないわ、ジャン。あなた以外の人と結婚したら、わたくしは幸せになれない!」


 その言葉はまっすぐに、ジャンの胸に刺さった。

 どうしてこうも、二人の間にある問題など見えないかのように率直に言えるのだろう。

 伯爵令嬢だからか? ジャンが彼女をどう思っているか、とうに知っているから?

 それなら同じはずだった。ジャンとて、ブリジットが自分をどう思っているかは理解している。二人に違いがあるとすれば、その、線を超える勇気があるかどうかだ。

 ブリジットの怒りは収まらなかった。


「わたくしの評判が地に落ちると言うなら、あなたがわたくしにふさわしくなるべきよ。そうじゃないなら、十二歳のわたくしを見殺しにすればよかった!」

「ブリジット!」


 ジャンは思わず、ブリジットの肩を掴んで揺さぶっていた。


「そんなこと、絶対に言わないでくれ。俺がきみを助けなかったらよかったなんて……きみが……」


 横転しかけた馬車の中で、震えて丸まっていたブリジットを思い出す。あの小さな少女を助けることができたから、今のジャンがいて、今のブリジットがいるのだ。


 気づけばブリジットの頬は涙に濡れていた。自分の言った言葉に傷ついている。

 その瞬間、ジャンは心臓を貫かれたような衝撃を受けた。

 こんな言葉を口にしてしまうまで、彼女を追い詰めたのは自分だ。守るつもりでいたのに、彼女をここまで傷つけたのは自分なのだ──。


 ブリジットは唇をわななかせ、止まらない嗚咽を抑えようと苦しそうな呼吸を繰り返した。

 ジャンは彼女の肩を掴んでいた手を放した。

 両手でその小さな顔を包み、頬を流れる涙を拭うと、覚悟を決めた。


「……愛してる、ブリジット」


「きみを愛してる。他の男なんかと結婚させるもんか。俺が、きみにふさわしい男になる」


 言ってしまった。

 ブリジットは、鼻を赤くして小さくしゃくりあげた。


「言うのが遅いわ」

「ごめん」

「本当に待ったわ、ジャン。でも、許してあげる」

「ありがとう。優しいな、ブリジットは」

「ええ、私は優しいの。そしてあなたを愛してる」

「……」

「好きよ、ジャン。ずっと言いたかった」


 泣きそうになって、思わずブリジットを抱きよせると、細い体はすぐに腕の中に納まった。彼女の腕が自分の背に回るのを感じると、ジャンはいよいよ抱きしめる腕の力を強くした。

 二人はそうして、しばらくの間抱き合っていた。お互いの体温と鼓動を感じながら。

 ブリジットの呼吸が落ち着いてきた頃、ジャンはそっと腕の力を緩めた。腕の中にブリジットを囲ったまま、彼女の顔を見つめる。

 この唇が、自分に『愛してる』と言ったのだ。


「きみに、キスしたい」


 ブリジットが顔を赤くした。


「いちいち、言葉にするものではなくてよ」

「ごめん。でもいきなりしたら驚くだろう」

「わからないわ。したことがないもの」

「…………」

「……しないの?」

「ええと、俺が思うに、きみのキスには恐ろしく力があると思う。癒しとか、元気が出るとか、そういう」

「はい?」

「だから、今夜は我慢する。君のご両親に挨拶に行って、きみのお父上に殴られた後までとっておくよ。その力で俺を癒してくれ」


 ブリジットがその夜初めて、声を上げて笑った。心底おかしそうな、かろやかな笑い声だった。ジャンはその笑顔に釘付けになる。ついさっきまで泣いて怒っていたのが、嘘のような美しさだった。

 ブリジットはしばらく笑ってから胸を押さえて呼吸を落ち着かせると、ジャンの顔を手で引き寄せて言った。


「わたくしのお父様もお母さまも、大歓迎なのよ、ジャン。もちろん、あなたのご家族もね」


 そうして、ジャンの唇に優しくキスをした。

 初めてのはずなのに、完璧な、愛のこもったキスだった。

 ジャンも観念して、彼女のキスに応えた。これでわかった。ここにたどり着くまでに恐ろしく遠回りしてしまったけれど、これが二人の正しいかたちなのだ。






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