貧民街の篤志家
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「私も聞いたことがあるな。なんでも定期的な炊き出しや物資の支援だけでなく、住居の整備も始めているとか」
見知らぬ男性が同意すると、我も我もと声が上がったが、イレリアは聞いていなかった。イレリアの神経は自分の右側に座っているロメオの存在に集中していた。
「私も聞いた事がありますね。たしか、秋の月の終わり頃からだとか――」
微笑みを浮かべながらロメオはイレリアを見つめ、イレリアは胸が締め付けられるような、しかし甘い感覚が胸いっぱいに広がるのが分かった。
「イレリア嬢はお聞きになった事はございまして?」
侯爵夫人が好奇心を隠そうともしない表情でイレリアに問いかけ、イレリアはいきなり現実に引き戻された。
「い……いえ。私はお恥ずかしながら世間の事には疎いもので――」
慌てて体裁を整えたイレリアは周囲の会話から貧民街の話題だとすぐに知ることができた。
なぜここで貧民街の話など出すのだ。イレリアは赤らめた頬が青ざめるのが分かった。
自分が貧民街の出身だという事は国中に知られている事だ。しかし、今のイレリアは貴族すら憧れ崇拝する令嬢として社交界に受け入れられている。――だからこうしてアバルト公子のパートナーとして、誰よりも良い位置に座ることもできているのではないか。
何より、イレリアはロメオに貧民街の出身だと言う事を知られたくないと思った。
「まぁ、イレリア様ったら謙虚でいらっしゃるのね。知らないふりなんて――世間ではその篤志家の正体はイレリア様じゃないかと噂でもちきりですのよ」
フィッツバーグ子爵夫人がギスギスした微笑みをイレリアに向けると、招待客たちは一斉にイレリアを見た。
「確かに、貧民街に支援など私共には考えも及びませんな。こう言っては失礼ですが、そちらの出身だからこそ、必要な事が分かり適切な支援ができるのかと――」
「しかもイレリア嬢は貧民街で生活しておられた時も慈悲深く、自分が得た金銭を全て自分より貧しい人々に分け与えていたと聞いていますわ」
「なんと素晴らしい――」
招待客たちは口々にイレリアを褒め称え、ロメオは尊敬と情熱が入り混じった熱っぽい目でイレリアを見つめた。
その眼差しにイレリアはロメオに嫌われたくないという思いを一層強く持ってしまい、ほぼ無意識に口を開いていた。
「――お恥ずかしい事ですわ」
帰りの獣車の中で、イレリアはロメオの事を思い出していた。
騎士隊の隊長であるカインに負けず劣らずのたくましい体に、スマートなエスコート。会話のテンポもよく、食事の後のお茶でもロメオはホストとして出しゃばりすぎず、会話が途切れないよう、空気が悪くならないよう会話を誘導していた。
カインの成人の祝いの時は、エスコートとダンスを1曲だけで、ほぼ会話もないまま残りの時間はカインと過ごしていた為、印象に残っていなかった。
しかし、あんなに魅力的な方だったなんて――。
食事会でイレリアが噂の篤志家だと名乗りを上げた時、ロメオは誇らしげな顔で
「こんな素晴らしい方が僕のパートナーを務めてくださったなんて、僕はとっても幸せ者ですね。――と言っても今日彼女が僕のパートナーになってくれているのは母のお膳立てで、残念ながら今日だけのパートナーなのですが」
と言って周囲を沸かせた。しかし、食事が終わり、サロンへ移動する時、招待客の最後尾を歩いていたロメオはイレリアの耳元に口を寄せて「本当に残念だよ。イレリア嬢」と甘い声で囁いた時はイレリアの心臓は止まってしまったかと思うほどだった。
――カイン以外の男性にこんな感情を持つなんて……
イレリアはロメオの事など忘れてカインの事を考えようと、深く溜息をついた。
しかし、浮かぶのはカインの面影を持つロメオの魅力的なブルーグレーの瞳だけだった。
「夜会に――?」
イレリアが夜会に参加したいと言い出したのを、カインは思わず聞き返した。
「ええ。最近カインはその――寝室には来ないでしょ?だから、私もこれからはお断りしていた夜会にも参加してみようかと思うの」
事実、カインが夜会には行きたがらず、イレリアと過ごしたがっていた為、夜会の招待は全て断りを入れていた。
「夜会なら結婚してからでも十分じゃないか――」
そういうカインの言葉にイレリアも納得していたが、周囲の話題の殆どはカインとジルダの結婚の時期についてだった。自分とカインは結婚できるのだろうか――次第にイレリアに不安が重くのしかかるようになってきた。
イレリアの今の地位と生活はカインの寵愛があってこそだ。万が一予定通りジルダが正妻になったら――イレリアへの寵愛は変わらないだろうが、イレリアは単なる平民出身の愛妾と言う事になる。
だが、カインはイレリアを貴族にすると言ったのだ。そして結婚すると。貴族の場合、結婚も離婚も王宮への届けが必要になる。そこで神殿と協議し承認され、神殿の系譜に書き込まれるため離婚はできない。だが、愛妾など飽きられれば捨てられてしまう存在だ。適当な傍系へ嫁がせるならまだいい方で、酷い場合は正妻が子を産んだ後はいくばくかの金を握らせて邸から追い出される事も少なくない。
そうなったら、この生活が奪わるのだ――イレリアは考えただけでも恐ろしかった。
「エスコートはどうするんだい?僕は婚約者がある身だ。堂々と君をエスコートするわけにはいかない」
だが、自分を救ってくれるだろう人物が一人だけいる。
「アバルト公子にお願いしたいわ。以前もしていただいたし、あなたのお友達ですもの――」
イレリアを見つめる彼の瞳は熱っぽく、恋するそれに違いなかった。
イレリアもまた、彼に会いたかった。




