決壊
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「何度も侯爵邸には伺っているのですが、イレリア様はお忙しくなされておりましたので挨拶は控えさせていただいてましたの」
ジルダは淑女の笑みでメルゼナー伯爵の令嬢に答えた。
「イレリア様は朝から夜遅くまで授業がございましたし――ね」
屋敷から盗み見ていたのは気付いていたのだろうか。ジルダは微笑みを崩さずこちらに顔を向けた。
イレリアは自分が避けていたことを非難されるのではと、心臓が痛くなったが同じように微笑んで見せた。
「ジルダ様の事はカイン様からお聞きしていたのですが、私の準備が整うまではジルダ様に失礼にあたるからと、ご挨拶を止められておりましたの。申し訳ございません」
「あっあの――イレリア様」
イレリアの隣でメルゼナー公女が小さくドレスの裾を引っ張ったが、イレリアが振り向く前にジルダが「侯爵様とカイン様から聞き及んでおりますわ」と小さく微笑んだ。
イレリアはジルダから目が離せなかった。
腫れぼったい目に大きめの鼻と社交界一不器量と言われる容姿は、不器量と言って捨てるほどではないが、イレリアのような美しさは当然なく、カインの横に立っていても見劣りするものだった。
だが、なぜか目が離せないのだ。所作の美しさや、話し言葉の一つをとっても丁寧で思いやりに溢れていて、その仕草一つ一つがイレリアが理想とする動きだった。
教育を受けたからこそわかるのだ。ジルダがいかに素晴らしい女性なのかと言う事が。
なぜカインはジルダのような素晴らしい女性を疎むのだろう。イレリアは急に不安になり、その後の事は覚えていなかった。
「通常、公の場で男性の名を呼ぶのは、主従関係にある時か恋人や婚約者だけなんですよ」
侯爵家に戻ってから、侍女に説明されたイレリアは心の中で舌打ちした。
「なぜあの場で教えてくれなかったのよ」
「そんなことしたらお嬢様が恥をかいてしまいます。目下の者が目上の者の失敗を指摘することは失礼にあたりますし、あの場は誰も注意なんてできません」
侍女はイレリアが初めて怒りを露にするのを見て怯えていた。
イレリアはしまったと我に返ると、落ち着いた態度で侍女に湯あみの準備をするよう伝えて下がらせた。
自分とカインは恋人同士なのに誰にもそれを言う事ができない。それはイレリアにとって相当なジレンマとなっていた。
しかし、貴族達は皆知っているのだ。自分とカインが恋人同士で、ジルダこそが邪魔者なのだと。だからこそ貴族達はこぞってイレリアを招待したがるのだし、中にはあからさまに侯爵に取次を求める者もいた――もっとも、侯爵にはイレリア自身も遠くからしか挨拶をしたことがないのだが――しかし思惑を持って近づく貴族達も皆、イレリアを一目見るやまるで女神を崇めるかのような態度になるのだ。
確かにジルダは容姿こそ恵まれていないものの、淑女として完璧だった。だが、カインの隣に並んで映えるのは自分なのだ。だからカインも自分を選んだのではないか――。
ならば自分もジルダに劣らない完璧な淑女になればよいのだ。
湯の用意ができたと呼びに来た侍女に、イレリアはこれまで通り優しい微笑みで応えると浴室に向かった。
今夜もカインを迎えなければならない。仕事で疲れて帰ってくるカインを包み癒せるのは自分しかいないのだから――。
「最近は農場の被害の報告がずいぶん減ったのだな」
駐屯所の執務室で報告を受けながら、カインはふと気付いた。
城壁の外には広大な農場が広がり、それらは所々は結界で守られているものの、広大な農場全体を結界で覆われることはなく、農作業中に魔獣に襲われたり、山から下りてきたゴブリンが農作物を荒らしたりという被害が毎年後を絶たなかった。
「……護衛でも雇ったんじゃないか?」
報告を持ってきたティン=クエンがそう言うと、カインは「郊外の農場はシトロン伯爵家の所有が殆どだな……伯爵が護衛を……?」と考え込んだが、ティン=クエンが次の報告を読み上げると興味はすぐに逸れたようだった。
「そろそろ揚水ポンプの点検の時期だね」
報告が一通り終わると、ティン=クエンが窓の外を見つめながら呟いた。
揚水ポンプは首都のはるか北側に流れる大河に設置され、首都に送水する大事な機関なのだが、首都から獣車で1日かかる場所にあり、カインはその間イレリアと離れる事になる為、乗り気ではなかった。
「揚水ポンプには専任の魔道技師がいるんだし、僕が行く必要はないんじゃないか」
「カイン――」
ティン=クエンは呆れて溜息をついて見せた。
この幼馴染は一体どうしてしまったんだろう。これまでは職務には忠実で課せられた仕事を嫌がるなど一度もなかった真面目だった男だったのに。
「動力の問題じゃない事は君もわかってるだろ。ポンプが動かないと首都と周辺の領地の水がなくなるんだぞ」
「わかってる――冗談だ」
「君は一体どうしちゃったんだよ――まるで君らしくないぞ」
ティン=クエンが思わず漏らした言葉にカインは気色ばんで彼を睨んだ。
「僕らしいとはどう言う意味だ。真面目に、ただ言われたことを素直にこなすだけの僕が僕らしいと君は言うのか」
怒りがカインの頭の中を支配するのが分かった。何故だかわからないが、目の前のこの幼馴染がとても疎ましく感じられ、その感情はカインの頭の中で霧のように薄く、だが確実に全体を包み込むように広がっていった。
「馬鹿を言うな。君は確かに素直で聞き分けのいい子だったが、自分の考えもなくただ言いなりになるような奴じゃなかっただろ」
ティン=クエンは呆れてカインを落ち着かせると、続けた。
「君は昔からちゃんと自分の意志で選んでいた。侯爵がそのようにできるように選択を与えてくれていたじゃないか――君がいま最も嫌っているジルダとの婚約だって無理強いではなかったはずだ」
「――すまないが出て行ってくれ。このまま話すと君を殴ってしまいそうだ」
ティン=クエンから視線を逸らすとカインは続けて口にしてはいけない言葉を口にした。
「君がそうやって気安く僕に言えるのは、君が幼馴染だからであり僕が許しているからだ……立場を弁えるんだ。ティン=クエン卿」
続きは明日の22時を予定しています。




