結界の間
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ティン=クエンは何も答えず、ただ「報告は以上だ」と言って駐屯所を後にした。
カインは考えがまとまらないまま、時間となり従者が迎えに来たため、王宮の結界の間へと向かった。
「ご無沙汰しております。父上」
先に到着していたエスクード侯爵を見て、カインは頭を下げた。
「ティン=クエンから報告は受けている」
侯爵は一言だけ言うと、カインに背を向け魔法陣に体を向けた。
結界の維持は魔導士の仕事だ。しかし魔導士が5人かかりで魔力を入れてひと月維持できるこの結界は、魔導士の負担が大きいため、エスクード侯爵が若い頃から魔導士の負担を減らすため魔力の注入を行っていた。
エスクード侯爵よりも尚強い魔力を持つカインであれば一人で維持できるのかもしれない。
しかし、それではカインの負担も大きすぎる上、万が一でなくとも将来は必ずカインはいなくなる。その時魔導士がこの仕事をしていなかったら、二度と行うことはできなくなるだろう。
エスクード侯爵の申し出で、普段は魔導士が結界を管理し、2回に1度はカインと侯爵が魔力を注入することになっていた。
カインも侯爵に並ぶと、天井まである大きな魔法陣を見上げて息を飲んだ。
街道の魔法陣とは比べ物にならないほどの大きさで、カインより頭半分も大きなエスクード侯爵を3人並べてもまだ大きい。
古のアベル王子が残したと言われる魔法陣は、魔導士により何度も修復をされているが、その術式は複雑で壊されると修復は不可能と言われていた。――もし壊されたのがこの魔法陣だったら。
カインは自分の考えに背中が冷たくなるのを感じた。
「ここの警備はアバルト侯爵家が担っている。問題はない」
カインの考えを察知したのかエスクード侯爵は前を向いたまま静かに言った。
「はい。ただ――」
「その不安は大切だ。絶対の安心などない。だから騎士隊が必要だし危機に対する備えも必要だ」
侯爵は静かにしかし威厳に満ちた声でカインを遮った。
今はなすべき事ではないということはカインにもわかっていた。
「とっととやって終わらせよう」
侯爵はカインに顔を向けると、いつもの優しい父親の笑顔と声で仕事の開始を告げた。
魔力の注入は好きだった。
特に首都の結界は魔力量の消費が尋常ではなく、侯爵が2人分の魔力量を負担しているのならカインは3人分の魔力量を負担していた。
それだけの量を注入するとなると、さすがのカインも2日ほどぐったりする程で、ジルダの魔力吸収を受けなくて済むのだ。
初めて首都の結界の維持を行ったのは1年前だった。
それまでやってきたもので一番疲れたのは揚水ポンプへの魔力注入だった。
カインの背丈ほどもある魔法陣で動くポンプは必要な魔力も桁違いで、魔力量の大きい者が管理をしていたのだが、病気でふた月ほど寝込んでいた際に、カインが代わりに魔力を供給しに行っていた。
その時も疲れはしたものの、翌日には魔力量はほとんど回復していた。
それだけ、この結果の魔法陣は桁違いなのが分かる。
とても疲れるけど、これで当分の間ジルダに会う必要はない。
イレリアを迎え入れてからもジルダは3日に1度の務めを果たすため、侯爵邸を訪れていた。
もちろん、カインも使用人たちも、イレリア本人もジルダに会わないよう注意を払っていたのだが、ジルダは意にも介さないといった様子で、黙ってカインの魔力を吸収しては帰って行った。
いや、一度だけイレリアについて口論したことがあった。
カインがイレリアを連れて来て数日経った頃だろうか。イレリアが貧民街に帰りたいと言わなくなった辺りだ。
いつもの通り侯爵邸のサロンでカインとジルダはソファに隣り合って座り、手を握っていた。
「薬師見習いを連れ帰ったと聞きました」
使用人の誰かが告げ口したのだろうか。――いや、二人が成人となる来年に結婚を控えて、ジルダが侯爵邸の女主人のように振舞っていることは知っていた。使用人たちもそのつもりでジルダに仕えていたし、報告することはおかしな事ではないのかもしれない。
「カイン様のお決めになった事に口を出す権利は私にはございませんわ。ですが、カイン様は次期侯爵でございます。その事をお忘れになりませんよう、お立場を弁えた振る舞いをなさってくださいね」
カインが考えていると、ジルダがいつも通り静かな口調でゆっくりと言った。
「またそれか――君は本当に貴族としての僕しか見ていないんだな」
「貴族としての――とおっしゃられましても、カイン様は貴族でございますから」
またこれだ。母と同じような仕草で母と同じような事を言う。
「彼女は――貴族としての僕ではなく、僕自身を愛してくれているんだ」
カインの言葉にジルダは小さく溜息をついた。
「カイン様と薬師見習いのご関係に口を挟むつもりはございませんわ。ただ――物事には順序と節度がございますの。やりたいようにやりたい事だけなさるのは子供のすることですわ」
「そう言って君はイレリアに嫉妬しているんだろ」
「薬師見習いはお美しいですものね――私と違って」
ジルダはカインが毒を受けた時、そばにいた薄汚れた女性を思い出した。汚れてはいたが、容姿は美しく、緑色の瞳は生命力に溢れていた。まるでジルダと正反対に思えた。
「そうだ。だが彼女は美しいだけではない。身をすり減らすほど働き、自分の稼ぎを貧民街の者達に分け与える慈悲深さを持っている。僕はそんな彼女の内面の美しさに惹かれたんだ」
「素晴らしい方ですわね」
「そうだ。僕は彼女と生涯を共にしたいと思っている」
まっすぐな目でジルダを見つめるカインに、ジルダは溜息をつく事さえ無駄な事なのだと理解した。
明日手術をしてくるので、更新がしばらく止まる予定です。




