悪魔ゲーム
「ーーーーふむぅ」
右手の銀貨を握ったまま彼はあてもなく通りを歩いていた。
それは、非常にふらふらとふわふわとした足取りだったが、危険な様子など全くなく、見た目に反して地に足がついた確かな足取りであった。
彼は考える。つい先ほどの妙な出来事を。
彼は思い出す。謎の彼女が残した言葉の数々を。
彼は戸惑う。すっかり変貌を遂げた自身の心の内に。
彼の頭の中では先ほどのティータイムが何度も何度も繰り返し再生されていた。
知らない女性、知らなかった紅茶の味、時が止まったような感覚、差し出された二枚の銀貨。
それはまるで白昼夢のようである。
すべては自分の妄想だったのか? 死を目前にした自身が作り上げた最後のユートピアだったのであろうか?
死を回避するために、生にしがみつくために作り上げられた勝手気ままな幻覚作用?
しかし、もし本当に白昼夢なのだとしても変ではないか? ユートピアを垣間見るのであるなら、自分の場合もっと別のものである気がする。
自身の店を持つ事を夢見てきた自分である。であるならば、そのままの形で再現しそうなものではないか。
白く清潔感あふれる外装、品の良いテーブルセットが並べられ、辺りには食欲をそそる料理の香り、それぞれの憩いのひと時を楽しむ人々、弾む会話、花咲く笑顔ーーそれらがそのまま出てくる筈だ。
現に目を閉じればそれはいつもそこにある。
長年考えてきた事だ。深く妄想し、頭の中で完璧に作り上げてきたまさにユートピアだ。
であるにも関わらず、現れたのは謎の彼女とのティータイム。
認めたくはないが、認めるしかないだろう。
自身がどう思っていようとも現れたのはあれなのだ。
この二枚の銀貨が何よりの証拠なのだ。
彼は右手の中で銀貨を弄った。
ひんやりと冷たい感触がそこにはあった。
しかし困ったものだ。あの不思議な体験をしてしまったせいで、どうにも調子を狂わされた。
自殺する覚悟を決めていたのに、今やそんな気など全く起こらない。
かと言って、生きる気力も湧かないのだが。
今や生きるも死ぬもない、どっちつかずの半端者である。
そう、俺はカラッポなのだ。本当の意味で何も持たぬカラッポな男なのだ。
彼はさまざまな思いにふけ、朧げな足取りのまま歩き続けた。
どれだけ歩いたか、時間も距離も曖昧なままとある一画へと行き当たった。
そこには小さな道具屋とくじ屋が並んでいた。
彼は足が進むままに歩いた。
思考は止まり、赴くまま、流れに身を任せる様にくじ屋の前へと流れ着いた。
【その場で大当たり! 大人気スピードくじ! キャリーオーバー発生中!】という文字が店先の看板に騒がしく躍っている。
その時、彼の中で何かが蠢いた。それは自身の意識とは違った全く別の何かであった。
それは蠢くごとに大きくなり、瞬く間に彼の心を支配していった。
彼は突如自身の心を満たしたものに戸惑い、恐れた。
それは明らかに悪意に満ちた邪悪なものに感じられたからだ。
悪魔が舌舐めずりしながら、自身の黒く染まった心を撫でまわしているかのような感覚。
自身の周囲を執拗に飛び回り、肩に手を伸ばし、耳元で破滅の言葉を囁く。指を弾くと現れた数枚のカード、悪魔の遊びがいくつも書いてある。一枚一枚差し出され好きなものを選べと迫ってくる。耳の奥で響く甲高い嫌味な笑い声。その囁きを聞いているだけで身体の芯が痺れ思考がうまく働かない。彼の鼓動はどんどん速くなる。
これは悪魔のゲームだ。
自分自身の命と魂を掛けた悪魔のゲームが始まろうとしているんだ。彼はそう確信した。
死よりも恐ろしい黒く深い恐怖の沼が足元から押し寄せる。背筋を冷たくなぞる鋭利な刃物の感覚。決断を迫るようにいやらしく胸を撫で回す細い指先。
彼は未だかつて経験したことのない恐怖を感じていた。自殺を決意し、死などこれっぽっちも恐れる事などなかったのに。今はーーーー悪魔が囁く今となっては、それが堪らなく恐ろしい。
死ぬ気もなくなり、生きる気力も湧かないカラッポだとばかり思っていたのに。自分のいったいどこにこれほどの感情が潜んでいたものかと彼は心底驚いた。
それからいったいどれほどの時間が経過したであろう。
彼は突如、目を見開きまっすぐにあるものを見つめた。
それは決意に満ちた確かな眼差しだった。
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