あの光の向こう側
あれから私のバイクは、喋る馬のように話し始めた。そのバイクは、死んだ彼の口癖と同じことを言い、ときには彼そのものとなって喋った。だから彼の名前は、マラマッドと呼ぶことにした。
マラマッドが、最初に言ったセリフはこうだった。
「ていうか、俺、生まれ変わったんだよ」そのときちょうどバイクを停車していたから、言葉ははっきりと聞き取れた。
もし私が聞いていなかったら、マラマッドはもう話しかけることをやめていたそうだ。
「は? いま、喋った?」どうして返事をしたのか、実はいまでもよくわからない。ただマラマッドは、相手が話を聞いているとわかった途端、話し始めた。実はそれまでにも話しかけようと試みたことは、あるんですよと人間よりもしっかりとした前フリ付きで。
「そう。俺だよ。しんちゃんって俺のこと呼んでくれていたじゃない」
「彼はもう死んでしまった。けど、私は彼が生きていたことを忘れちゃいない。だからあんたのこともよく知らないし、人格のあるバイクっていう設定はやめてよね」
「杏さんは面白いこといいますな」そうやって彼はへりくだるフリをしていた。生前の彼もまた、私のことを、さん付けで呼んだ。
「何も受け付けないよ。でもそうだな、たとえば私の誕生日とか、いつかわかる?」私はそこで会話せず、黙ってバイクを走らせるべきだった。そんな、偽アカに証明を求めた時点で、自分がおかしいということに気づくべきだった。
でも彼は喜んでその質問に答えた。偽アカが、ときには本物よりも本当のことを覚えていることを私は忘れていた。
「もちろん覚えていますとも。3月6日。午前6:37に生まれた新生児で、安産だったこともしっかりと。あなたは幼少期から、口が悪くてよく両親から怒られていましたね。でも好きな男の子が出来てから、言葉を直したという歴史的事実もまた俺は知っていますよ」
たしかにそれは私の誕生日だったし、昔の話も、私より覚えていた。しかしそれは私がしんちゃんに話したことさえない歴史的事実だった。
「で、どうやってそれ知ったの?」マラマッドは、笑って答えた。それもまさに、歴史的事実ですよと。
私はそれ以上、質問しなかった。とはいえ、彼がここにいるのなら、何かわかりやすい目的があったはずだった。それだけは聞いてみたくて尋ねた。
「走るためですよ。あの光の向こうまでね」夜の交差点と星空が作り出す、その光の道はたしかに魅力的だった。もしかしたら、あの光に溶け込むようになるまで駆け抜けたら、しんちゃんのことをもっと知ることができるかもしれない。彼だけが知るそのスピードと光の混ざり合った瞬間を、私も見つけられるかもしれない。私ひとりでは決して見つけられなかった光景を。
私があの事故から、法定速度よりもずっと抑えて走っていたことを彼も知っていた。
「もういいんじゃないかとさえ思うんだ。たしかにアクセルがちぎれるようなスピードはダメだけど、もう一歩だけ、彼の人生に踏み込んでみてもいいんじゃないかな」マラマッドはそう言った。
私がそれを了承したのは、生きたいから、ただそれだけだった。本当はもっとたくさんの、もう一歩踏み出す理由や勇気があるはずだった。でもそれらをまとめて言えば、バイクのアクセルを踏むことすべてに選択を委ねることができる。
必要のない誰かの声や、言葉が入り込まない瞬間を生み出すには、そうする他ない。
私は、マラマッドにまたがり直し、バイクのエンジンを回した。調整したばかりだから、異常はないはずだ。それからマラマッドを運転して、ドライブに出かけた。
まずは、しんちゃんがいつも走っていたルートの出発地点に向かった。それは彼の部屋だった。事故があったせいか、その部屋はまだ空いていた。私は大家さんに頼んで、その部屋に入らせてもらった。彼女は眠たそうな顔をしていたから、早めに引き上げた。そのマンション近くの公園で、私は彼のメールとかSNSのメッセージを読んだ。
彼が大好きだったこと:インドカレー屋の叔父さんの気さくで、いかにも親切な振る舞い、コンビニで買ったチョコチップのスーパーカップ、花火が上がったとき、川の水面に映ったもう一つの花火、私があげたプレゼントにどんな意味があるかを探してくれたこと、当たり前だけど、バイクで走ること。
私はいまでもその習慣を守るように生きている。インドカレー屋の叔父さんは私を覚えてくれているし、彼がいないこともまた覚えている。それでもその振る舞いは、いつもと変わらない。そんなところが、好きだ。
それが思い出の形の一つとして、ささやかにこの町に残っている。いつかは日々の風景の一つとして、ささやかにこの町から忘れ去られていく。でもそれもいいかもしれない。
私はマラマッドのいななくような声を聞いた。行き先は、彼が教えてくれる。私の役割は、その声に従い、運転することだけだった。
私は、あの日とおんなじように、ぴったりと体をバイクを抱きしめた。怖くて、ちょっとでも手を離すと、バラバラになってしまいそうなスピードが、たまらなく心地良くも感じたあの瞬間。
実は彼とセックスするときよりも、この時間が好きだった。しんちゃんはきっと知らないだろうけど、マラマッドにはきっとわかるだろう。というのは、マラマッドもまた駆け抜けるその瞬間を愛していたのだから。誰かが離れてしまわないように自分をぎゅっと掴んでいる瞬間を。
私たちが市の中心から、国道沿いに向かい、それから高速道路分離帯に近づいていった。夜中に近い時間だったから、ほとんど車やバイクが走る気配はなかった。一度、私はバイクを降りて、花束が倒れているのを直した。お菓子の箱が開けられていたので、それを近くのゴミ箱に捨てて、雑草をむしり、コンビニに行って、彼が好きだったジュースを買ってそこに置いて、両手を合わせた。私は、彼の家族からは墓参りを許されたわけではなかったから、ここで彼を思うことが、許された追悼のひとつとなるのだ。
マラマッドは懐中電灯代わりの明かりを背後から照らしてくれていた。
「終わったよ」
「あとは、向こうだけですな」向こうがどこにあるか私は知らなかったが、マラマッドは知っていた。マラマッドは、私の中にある彼の記憶そのものだったのだから、本心を言えば、彼は、私が忘れようとしていた部分を担っていたのだった。
だからマラマッドがどんな記憶を頼りにして、どこへ向かうのか、初めから私が知っていたことを知っていたとでも言えばいいのか。
彼が光の川を駆け抜けて、自身がその川の一筋の光となり、私を導いた先が、初めて私としんちゃんが出会ったあの公園だと知った。
公園に着いたら、私はそこで彼とどんな話をしたか思い出した。私たちにできる最大限の敬意がそこで払われた。
私は彼よりも、行きたい。たとえまた世界の果てに流されようとも。私を助けるために、その命綱を渡したのは、きっと彼だったと思う。
だから私は誰よりも、生きたい。