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夏の花嫁  作者: 伊勢祐里
4/5

三つ編み

 はぁはぁ、と息を切らす。肺が張り裂けそうになっているのに、不思議と足は動いた。長い校庭をかけていく。木造の校舎に夕陽が照りつけていた。ガラスの窓が、激しく西陽を反射する。


 アイツがいるはずの教室に視線を送るが、強い陽射しが窓の奥を隠す。開いた窓からは、アイツの姿を確認出来ない。首に纏わりつくセーラー服のリボンがまどろっこしくて右手で剥ぎ取るように解いた。


 校庭から渡り廊下に直接つながる階段をのぼっていく。スカートが捲れることも気にとめず、二段飛ばしで歩を進めた。ところどころ剥げた鉄製の非常扉を開く。夏休みの間は、文化部がここから出入りしているため、常に鍵は開いていた。



 西校舎の二階、渡り廊下から入って三つ目の教室。はぁ、はぁ、とミエ息を整える。大きく息を吸い込み、背筋をシャキ、と整えると引き戸に手をかけた。


 一番奥のうしろの席に、アイツは座っていた。いきなり開いた扉に、京平は驚いたようすで顔を上げる。



「どうしたんだよ」



 まだ幼い双眸が、グッと見開かれた。肩で息をしているミエを、不思議そうに見つめながら、ゴクリ、と喉を鳴らした。


 額に溢れた汗を腕で拭う。汗でメチャクチャになった髪を、ミエは慌てて手櫛で整えた。もじもじと指をいじりながら、ミエは俯く。


 勢いで来てしまった。一体なんと声をかければいいのか。



 京平が、はぁ、とため息を漏らした。なにも言うことなく、ペンを握ると黙々と机に向かった。淡々とペンを走らせる。ボタンのハズされた白いポロシャツから、少し焼けた肌が覗いていた。


 京平の一つ前の机に、ミエが悪く言った文集が置かれていた。


「文集‥‥」


 そう呟きながら、文集が置かれた座席まで、トボトボとミエは歩き出す。


「今、描き直してるから」


 京平の尖った言葉が教室に響く。その言葉に、ミエの体がピキリ、と反射した。肩を震わせ、丁度教卓の前あたりで足を止めた。



 開いた窓から、わずかに海の匂いを連れた風が吹き込んだ。滲んだ汗が、ほんのりと冷たい感触をミエの肌に与える。スッー、と消えていく火照った額の熱が嫌な緊張感を伝える。


「なんで戻って来たんだ」


 普段と違いトゲのある京平の言葉が、自分の犯した罪の重さを物語る。シャッシャッ、と紙に擦れる鉛筆の音が、虚しく教室に響き渡った。



「なんで、って‥‥」



 ミエは、ギュッ、と自分の手を握り込んだ。まだ熱を帯びた手のひらが、汗ばんだ肌についつく。ひんやりと感触が、冷たい京平の言葉に似た。


「私が、ひどいこと言ったから」


 鉛筆の音が止まる。


 謝らなくちゃいけない。あの絵は素敵だったから。ごめんさない、と。


 ミエは、一歩踏み出した。



「来るなよ!」



 激しい言葉が、ミエの足を止める。大きく震えた京平の手が、机の上の消しゴムにふれた。衝撃で、落ちた消しゴムは、不規則な弾みをつけながら、ミエの足元にまで転がってきた。



 陽の差していた教室に影が落ちていく。遠くの方で雷鳴が響いた。蒸し暑い夏の熱を帯びた雨の匂いが、ミエの胸を締め付ける。


 ガタン、と椅子が引かれた。京平は、荒々しく描いていた紙を手に取ると、激しい足音を立てながら教室を後にしようとした。


「待って、」


 ミエのその声に、京平の足が止まる。蛍光灯がチカチカと揺れた。薄暗くなった窓の外から、黄色い稲光が光る。



「ひどいこと、言ったから」


 溢れていきそうな言葉を紡ぐ。京平の手に握られたわら半紙が、少しだけ潰れた。


「だから‥‥ 私‥‥ 謝ら、」


 雷鳴が響いた。地響きのような激しい振動が、教室の窓を揺らす。強い風が吹き込む。閉じられたカーテンが、風に舞い上がった。机の上に置かれていた文集の冊子がめくれ上がる。


 握りしめたリボンに、さらに力を込めた。かき消された声を、ミエは腹の中でもう一度膨らませた。


「だから‥‥ 謝らなくちゃ、って!」


 はち切れそうになりながら、声を震わせた。自分でも驚くほど大きな声が、教室に響く。



 はっ、と我に返り、京平の顔を見張る。小さな双眸が、驚きに満ちた色でこちらをじっと見つめていた。


「その‥‥ ごめんさない」


 ミエは、深々と頭を下げた。二本の三つ編みが、小さく揺れる。紺色のスカートが、ひらひらと窓から吹き込む風になびいた。


「表紙‥‥ 本当は素敵だと思った。それなのに、良くないなんて言って。本当に、ごめんさない」


 少し遠のいた雷鳴が、静寂を引き裂くように鳴り響く。


「本当に、良いって思ったのか?」


 京平の言葉に、ミエは顔を持ち上げた。俯いた彼の双眸が、じっとこちらを見つめた。

 ほんのり大人びたその瞳に、ミエは、ドキっとする。飲み込んだ唾が、喉のおくに引っかかってしまいそうになる。


「うん。素敵だと思った」


 それなのに、と言葉をつまらせる。堪えていた涙が、視界を滲ませた。


 京平は、じっとミエを見つめたまま佇む。静かな瞳が、チカチカと蛍光灯の光を反射する。手に握られたわら半紙が、クシャリと音を立てた。


「それじゃ、表紙はあれでいいのか?」


 京平が、机の上に置かれた文集を指さした。パラパラ、と風になびかされながらページが捲れていく。


「でも、新しいのを描いてくれてるんじゃ」


 京平が持っているわら半紙を覗こう、とミエは近づいた。


「馬鹿、これは違う」


「でも、」


 近づいてきたミエに驚き、京平はとっさに紙を持った腕を上げる。その瞬間、激しい稲光と共に突風が教室に吹き込んできた。


 ガサッ、と音を立て机に置かれていた文集が床に落ちる。京平の持っていたわら半紙も、風にさらわれ、うまい具合にミエの足元へひらひらと落ちてきた。


「描いてるじゃない」


 そう言って、ミエはわら半紙を拾い上げる。ザラザラとした感触が、湿った肌に吸い付くようだった。


「おい、見るなよ」


 慌てた様子で、京平がミエから奪い取ろうとする。ミエは、ひゅい、とそれを交わすように踵を返した。


「これって‥‥」


「ち、違うから‥‥」


 ミエは、わら半紙をじっと見つめる。わら半紙に描かれていたのは、長くまっすぐな髪の少女だった。その少女の顔は、どことなくミエに似ている。


「これ、私‥‥ ?」


 ミエが小さく首をかしげると、京平は顔を真っ赤に染めてそっぽを向く。


「そ、そうだよ」


「すごく、上手。でも、どうして三つ編みじゃないの?」


 京平は、言いづらそうに口を尖らせる。朱色の頬が、稲光に照らされた。その頬を、彼の細い指先が撫でる。


「せ、せっかく髪が綺麗なんだから、たまには下ろしてもいいんじゃないかと思っただけだよ」


 ふっ、とミエの息が溢れた。照れとも恥と分からぬ感情が、胸の中に渦巻いて、ごちゃごちゃした混沌の物になっていく。自分の顔が赤くなっていることに気がついて、思わず両手で顔を覆い隠した。


「三つ編みが、似合わないってこと?」


 それでも、自分の感情を紛らわすために強い言葉を選んでしまう。とっさに出た言葉を、今すぐに飲み込んでしまいたくなった。


「そうじゃない」


 凛とした瞳が、ミエを見つめた。その目は驚くほど大人びて、思わずミエは足を後ろに引いてしまう。


 じっとりとした腕に、筋が走る。まだ細い指も、関節の一部はゴツゴツと男らしい。少し出た京平の喉仏が、大きく動いた。


「三つ編みも似合ってる」


 胸の奥がうずく。目の前にいる京平は、少年ではなくなっていた。自分より少し背の低い彼が大きく見える。その胸の中に飛び込みたくなるほど、彼の中に男性を感じた。


「ありがとう」


 ミエは、自分の髪を撫でる。サラサラとした前髪が、指の間をすり抜けていった。明日くらいは下ろして来てもいい。そんな風に思う。


「どういたしまして」


 お礼を聞いた京平は、少し照れて、その表情を壊しながら子どものような笑みを浮かべた。

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