喧嘩
カモメの鳴き声が、頭の上から聞こえた。鳴き声の方に首を上げると、二羽のカモメがミエの真上をくるくると旋回していた。
ゆっくりと傾いていく陽射しは、まだ日没と言えるほど沈んでいない。青々とした空の色が、海の碧と遥か彼方で溶け合っている。
「それよりも、あなたはどうして夏休みなのに制服を着ているのかな?」
かけられた声の方に、ミエは顔を向ける。銀色に輝いた肌が、あまりにも眩しく、思わずミエは顔をしかめた。
かすれた視界の向こうで、彼女の柔和な双眸が、グッと細くなった。ワケを知らないはずなのに、どうしてかすべてを見空かれている気になる。
悪戯な表情が、ミエの反抗心を奪い去った。
「それは‥‥ 、」
ほんの少しだけ渋るフリをして、ミエは恥ずかしそうに頬を赤らめながら話し始めた。
「ちょっと、喧嘩しまして、」
紺色のスカートの裾を、ギュッ、と腿の方へと腕で引き寄せる。熱を孕んだ腕が、ひんやりとした柔らかな腿にわずかに触れた。
「男の子と、かな?」
うぅ、とミエは、声をだす。腿を抱く腕に力が入った。セーラー服のリボンが、グッと持ち上がり顎の先に触れる。その反応を見て、ふふっ、と彼女は笑みを漏らした。
「どうして、分かるんですか?」
そりゃね、と大人びた表情を彼女は浮かべた。
ひび割れたコンクリートに、ミエは視線を落とす。名もない雑草が、懸命にその身を天へと伸ばしていた。
「なんとなくだよ」
彼女の華奢な体躯が、後ろに反らされた。気持ち良さそうな表情で、その背中を熱されたコンクリートにぶつける。
「なんとなくなんですか?」
「そうなんとなく。うーん、強いて言うならあなたが、少し可愛かったから?」
モテるでしょ、と彼女は小さく口角を上げた。かぶっていた麦わら帽子を、手で取ると、細い腕を伸ばして、ミエの頭にかぶせた。
あまりに無防備なその態度は、自分と同じくらいの少女にしか見えない。
「寝転ぶのは、恥ずかしいんじゃなかったんですか?」
嫌味を帯びさせたつもりの言葉は、妙に丸みを帯びていた。
彼女は、真っ青な空を見つめたまま、真っ直ぐに右手の手のひらをかざした。
白い手のひらが、太陽に透ける。細い指の血管が、ぼんやりと浮かび上がった。まるで絹のような肌の奥に、血潮が脈々と流れる。その血潮が、美しい天女のような彼女を、人間なんだとまざまざ知らしめていた。
「もう、こんな気持のいい太陽は浴びれなくなるかもしれないから」
寝転んだ彼女の双眸が、じっとミエを見つめた。少し傾き始めた太陽を浴びて、その双眸はダイヤモンドのように輝く。その潤んだ瞳は、大人だけが持つ確かな色気を帯びていた。
「どうして、喧嘩したの?」
力の抜けた彼女の手が、コンクリートの上に落ちる。動かない視線をミエは見つめ返した。彼女が呼吸をするたびに、大きな胸が膨らんだり萎んだりしていた。
「三つ編みが可愛くないって、」
アイツに、そう言われた場面を思い返して、ミエは頬を膨らませる。
そっか、と彼女は寝転んだまま、クスクスと笑いだした。
「なんで笑うんですか?」
バシッ、とミエは手のひらでコンクリートを叩いた。軽くしたつもりなのに、思った以上に手のひらに痛みが走る。
ごめん、ごめん。彼女は、口元を手で隠す。細く今にも折れてしまいそうな指の隙間から、愛らしい声が漏れ出てくる。
「私は、とっても可愛いと思うよ」
彼女の瞳に映ったいたいけな自分に、思わず涙が溢れそうになる。落とした視線の先にあった手に力が込められる。込めた力をどうしていいか分からず、行き場をなくした手が、自分の三つ編みを手で撫でた。
しっとりとした髪は束になり、わずかなに陽の温もりがした。網目の部分を指の腹で撫でると、髪の繊維にそってジリジリとした感触が走る。
「私が、その表紙は良くない、って始めに言ったんです」
ミエがこぼした言葉に、「表紙?」と彼女は首を傾げた。
「文芸部で作っている文集の表紙です」
「そう、あなたも文芸部だったの」
私もよ、もう四年も前の話だけどね。彼女はそう言って、ニッコリと微笑み自分の顔を指しめす。細い影が、彼女の顔に落ちて赤らんだ頬に一本の線が出来た。
「せっかく表紙の絵を描いてくれたのに、それを良くないって」
ミエは、足を前に伸ばす。膝ほどまである白いソックスが、眩しく太陽を反射した。少し廃れた黒いローファーが、新品のような艶を帯びた。
「本当にそう思ったの?」
反動をつけて、彼女はその細い体躯を持ち上げた。長い髪が、夏の空気に溶ける。汗ばんだ頬に、何本かの細く茶色い髪がひっついた。
ミエは首を横に振る。
「それじゃ、謝らないといけないね」
優しい声で、彼女は言った。
ミエは、思わず頭に乗った麦わら帽子を強く押さえつけた。
「そうですよね」
ひとしずく涙がこぼれた。滲んだ視界が鮮明になる。紺色のスカートに、小さなシミができた。
「また、明日‥‥、謝ります」
ダメ。弾けるような声が、海の向こうまでこだまする。透き通るような声が、海風を割いて、ミエの鼓膜を震わせた。
「今日中にいかないとダメ」
細い眉が、グッと寄る。こちらを睨む双眸を見て、ミエの体は強張った。
怯えるような瞳が、彼女の双眸に映し出される。その小動物のような自分の顔の方へと、彼女の左手の細い指が伸びてきた。
湿ったミエの瞼の下を、柔らかな感触が拭う。また溢れそうになっていた涙が、その指を伝う。細い関節の辺りに、薄っすらと静脈が見えた。ミエの涙で湿った指を、彼女は太陽へとかざした。
「明日じゃ、ダメなことだってたくさんあるのよ」
薬指の関節の辺りが、キラリと輝く。真新しい銀色のリングが、美しくまばゆく神々しいほど、太陽の光を浴びていた。
「それじゃね」
そう言って、彼女は立ちがる。真っ白なワンピースに、緑の細い草が、ひっついてしまっていた。
それをはらうことなく、彼女はトランクケースを両手で持ち上げ、踵を返した。
「もう帰って来ないんですか?」
低い山並みが、真っ白な彼女の輪郭を鮮明にする。迫ってくるような大きな入道雲が、山の向こうにそびえていた。
「どうして?」
彼女は、顔だけをこちらに向ける。重たそうにカバンを抱えて、少しだけ口端を緩ませた。
「なんとなくです」
ミエの返事に、彼女は少し俯いた。瞼を下ろし、ほんの一瞬口を噤む。ふっ、と息が漏れる。艷やかな唇が、わずかに開いた。
「あの人、次第かな」
そう言って、彼女は街の方をチラリと見た。山と山の隙間に、まだ古さを残した街並が見える。港近くの真新しい鉄筋の建物が、夏の陽射しを忌々しいほど反射させていた。
悲しい。彼女の感情が、ミエに伝わる。わずかな彼女の仕草やその些細な声色の変化で、彼女の中の漠然とした感情がミエの中に流れ込んできた。
「ちゃんと、謝るのよ」
最後に、彼女はミエをじっと見つめた。誰かを思っている。切なげな色をした彼女の瞳が、ミエの目にこびりつく。
まだ無垢さを保ったままの、彼女の双眸の奥に浮かんでいる彼は誰なのだろう。小さくなっていく背中が見えなくなるまで、ミエはじっと彼女を見つめたまま、頭に乗った麦わら帽子が風に飛ばなされないように抑えていた。




