貴女は私の救いの女神っ!
昔から大事にしている、お気に入りの本がありました。
初めてその本と出会った時、幼い私は「羨ましい」と呟いて、満面の笑みの少女の挿絵を指先でなぞりました。
(いつか私にも、こんな幸せな未来が来ればいいのに)
そう願いながらページが折れ曲がる程、背表紙が掠れる程、文を諳んじられる程、何度も読み返したのは下級貴族の少女が紆余曲折を経て王子と幸せに結ばれる恋物語。
その中の少女と王子が結ばれるワンシーンが、私は特に好きでした。
わかってはいました。
そんな都合のいいお話、それこそ物語の中にしかないという事。現実には到底あり得ないのだという事ぐらい。
それでも心の奥底で願い続けていたのです。いつか、ひょっとしたら、と。
―――まさか本当に、その願いが叶う日がくるだなんて。
夢見る少女の時期を経て一人前の令嬢となった私の前で、その光景は繰り広げられておりました。
「君には失望したよ」
冷たく吐き捨てたのは、次期国王にして私の婚約者である王子。
王子の発言を皮切りに、次々に罵詈雑言が私に投げかけられます。
「嫉妬で嫌がらせだなんて、信じられない」
「公爵令嬢ともあろうものが………。嘆かわしい」
「こんなのが王妃になったら、この国は終わりだ」
「いくら外面がよかろうと、性根が醜すぎて視界にいれることすら悍ましいです」
次期宰相候補に次期将軍候補、次期公爵候補に次期魔術師長候補。揃いも揃って見目の良い、将来の栄光を約束されている殿方ばかり。
私は黙ったまま、ぎゅうとドレスの裾を握りしめました。
「わ、私、怖くて、本当に怖くて」
王子の腕に縋りついて泣いているのは、風が吹けば折れてしまいそうな儚い風情の令嬢。装いからして、爵位は恐らく男爵。王子たちの言う事には、私は彼女を虐めている悪女なのだそうです。
(まるで、あのお話そのものですね)
ハッキリ言って身に覚えは全くありませんが、弁明は致しません。
物心ついたころから王子の婚約者として城に召し上げられ教育を受けた日々を、学園入学から六年間、品行方正で文武両道を死に物狂いで保ってきた努力を否定されようと、私はただ黙ります。
黙って、その時を待ちます。
胸を高鳴らせながら。
「ねえ、謝罪の言葉は無いのっ?!」
ございません、次期宰相候補様。
「罪の自覚すらないのか?」
ええ、わたしはやっておりませんから、次期将軍候補様。
「なぜ黙っている」
私の未来のためにです、次期公爵候補様。
「往生際が悪いですね」
はい、私は往生際が悪いのです、次期魔術師長候補様。
何を言われても、私は無言を貫きました。返事は心の内でだけ。
そんな私を見て、王子は心底呆れたように溜息を吐きました。
「もう、いい」
失望したと言外に告げられ、私の心臓が飛び跳ねます。
「君は次期王妃失格だ。王妃には心優しく思いやりに溢れた女神のような存在こそが相応しい。そう、彼女のようにな」
その言葉に、足が震えました。顔だけは無表情を保ちましたけど。
王子はそんな私を蔑んだ瞳で一瞥し、縋りつく少女を優しく撫でます。
ここで私はようやく口を開きました。
「……………それでは、私はどうなりますか?」
「言わねばわからぬのか?」
「……………はっきりと、言葉にして下さい」
面倒くさいと言わんばかりに、王子の眉間に皺が寄りました。
けれど、これは大切な事なのです。言葉にしてください、どうか。
「君との婚約は破棄だ。君はもう、婚約者ではない」
その台詞は、言葉は。何度も繰り返し読んで夢にまで見た、あのお話のお気に入りのワンシーンで。
本当に?本当に?
ドクリと身の内の感情が弾けました。
堪えきれず、我慢しきれず、私はとうとう自分に表情を変えることを許したのです。
「ありがとうございますっっっ!!!!!」
溢れる安堵、希望、喜び。
全てを声音と表情に乗せて、私は王子と男爵令嬢に頭を下げました。
歓喜のあまり涙さえ滲ませた私を見て、その場の全員がギョッと表情を変えましたがそんなことはどうでもいいのです。
王子に婚約を破棄される公爵令嬢。そして代わりに婚約者の地位に立つ下級貴族の少女。
嗚呼、現実にはあり得ないと知りつつ、どれだけその存在を切望したことかっ!!!
「本当に感謝していますわ、今日初めてお会いした、名も知らぬ令嬢様。王子の仰る通り、貴女はまるで女神です。私を助けて下さった救いの手を、私は生涯忘れませんわっ!」
だって、私の立場を代わってくださるのでしょう?私はもう二度とあの汚泥のような王家に関わらずとも済むのでしょう?
いくら崇めても崇め足りません。
ひしとその手を両手で取って感謝すれば、男爵令嬢、いえ、女神が顔を引き攣らせました。王子やその他の殿方も、何を言っているのかと声を荒げます。
あら?私何かおかしなことを言ったでしょうか?王家がドッロドロのグッチャグチャだなんて、そんなの今更でしょうに。
………ああ、次期王妃として幼少から城暮らしを強いられていた私と違い、あくまで候補である殿方たちと現国王の庇護下にある王子は、城の内情を詳しくは御存じなかったのですね。
けれど、少し考えればお判りでしょう?貴族の家でさえ後継ぎだなんだで常に揉めているのです。その大元の王家が清廉潔白なはずがないと。長く続いたその歴史は陰謀に塗れ、絡まった血筋と利害と積年の確執で敵も味方も判別不可能。自分の身を護るため、針山の上で綱渡りをするような毎日でしたわ。
幼き私はそんな日々を泣き暮らしておりました。自由になりたいと、しかし叶わぬ望みだと、夢物語を心の慰めに過ごす日々………。
けれど、諦めてはいけませんわねっ!願い続けていればいつかは叶う。その奇跡を私は今この場で体験いたしましたわ。
あら、戯言と仰いますか。ええ、構いは致しません。嘘か真実かはご自身でお確かめください。貴方がたから候補の文字が外れれば、嫌でも知ることになるでしょうし。
涙をぬぐい朗らかに、私は最高の笑顔を浮かべました。
「それでは殿方様がた、女神様、ごきげんよう。貴方がたの幸福を、私、遠くの空よりお祈り致しますからね」
貴族なんてもう真っ平御免です。婚約を解消された私は実家にとっても用済みでしょうし、隣国に高跳びして平民として生きることに致しましょう。
あら?貴族の令嬢にそんな真似が出来るのかですって?城でのあの日々を生き抜いた私に、怖いものなどありません。
貴女に頂いた自由、無駄には致しません女神様。一生感謝して、私、幸せになりますわっ!
END