ラッキーペニーコイン・ブルース
そんじょそこらのありきたりの女と一緒にしてもらっちゃ困るんだよね。踊れて歌えておしゃべり上手。それになんていってもかもしだすような色香がなけりゃ、観客の視線を繋ぎ止める事は出来ない。
スポットライトから降り注ぐ光の雨粒。この緊張感が心を鷲掴みにして離しやしない。ねぇ、俺を見てよ。誰よりも綺麗でしょ?
鳴り止まない拍手。繰り返されるカーテンコール。鐘の音と共に、俺の魔法は解ける。シンデレラ……通称シンちゃんなんてあだ名をつけやがったのは一体誰だ? いや、主役に相応しいニックネームに違いない。
六本木の一等地。オペラハウスを模して創られた贅沢なショーラウンジ。フランス料理のオードブルをつまみ、グラスを傾け観覧するチケットは、二万円そこそこのお値段だ。ショーラウンジ「蝶蘭」の客足が絶える事はない。ダンサーのレベルの高さはもちろん、彼らの風貌がちょいと普通と異なるっていうのもウケている理由だ。
ニューハーフ。性別を超越した神に背く男達。見るからに仮装……いや女装といった類のオカマちゃんも中にはいる。それはそれでスパイスになり、なぜか奴等の存在は観客に親近感を与えるらしい。だけどほとんどは……アンタ、マジで男っすか? と、目を疑う輩がほとんど。
豊満な胸。細いうなじ。爪の先まで色っぽいときたもんだ。シーメールと呼ばれる手術済みのお嬢様達の気合には頭が上がらない。
遊びじゃないよ。人生かけて踊ってんの。
「シ・ン・ちゃん。背中のファスナー上げてぇ」
「はいよっ。うわ、紫のブラジャーっすか。麗子さん。仕事前からあんまり刺激しないでくださいよ」
「あたしの誘惑なんて、いつもするりとかわしちゃう癖にっ。あぁ、アンタ今日も化粧のノリいいわねぇ。羨ましいわ」
麗子さんのドレスの隙間から覗く悩ましげな背中をファスナーで隠すと、俺は自分の装いを確認すべく鏡を覗き込んだ。お、今日も別嬪さんっ。もともと髭も薄く、肌のキメが細かいタイプだった。昔付き合っていた女に、立場が無いとぼやかれた事もあったっけ。天職だったのかもね。この業界。
さぁ、金曜の夜だ。街はすっかりお祭り気分。ほら、楽しまなきゃ。人生は短いんだ。
ねぇ、ねぇ、そこのしかめっ面しているおネェちゃん。あぁ、お友達に無理矢理付き合わされちゃったってヤツ? 女同士の付き合いも大変だよね。魔法をかけてあげるからさ、こっちを見てごらん。
興奮して。魅入られて。囚われる。
ねぇ、ドキドキさせてあげる。偏見なんて捨ててしまえば、見たことのないパラダイスが広がる。ようこそ。いらっしゃいませ。今宵、貴方に素敵な夜を……ショータイムでございます。
幕があがると、わっと沸き上がる歓声。オープニングは景気よく、フリフリのドレスの裾をたくしあげ、一列に並んでご自慢の脚を蹴りあげる。バックミュージックはもちろん生の楽団。コミカルなリズムと共に、ピエロ役のオカマちゃんがおどけながら観客に投げキッスを贈る。いつもながらウケがいいね、サブちゃん。今日も剃りあげた口元が青々とセクシーだよ。
ボンッ。舞台の両脇から景気よく火花が上がる。拍手喝采。さっきまで眉間に皺を寄せていたお姉ちゃんが、大口開けて笑ってる。皆、子供みたいにわくわくした瞳で、次々に繰り広げられるショーを食い入るように眺めている。……ただ一人を除いては。
おいおいVIP席のお兄さん、アンタだよ。舞台はこっちだっていうのに、何処見ていやがる。連れの女はやけにはしゃいでご満悦だっていうのにさ。アンタ一人が心ここにあらずって面してるよ。俺を目の前に、いい度胸してるよね。……あれ。コイツ、どこかで……
「いらっしゃいまっせ〜」
他の客席より高い位置にある、バルコニー式にせり出したVIP席の個室。前半の幕が引けた後、俺はサブちゃんを連れて乱入した。スーツを着た男が、突然押し入ってきた俺達に目を丸くしている。連れの女の姿が見えない。きっと、トイレで念入りに化粧でも直しているんだろう。
「あらぁ、いい男ぉ」
サブちゃんが嬉しそうに男に擦り寄っていく。ゆったりとしたソファの背もたれに遮られて、それ以上一歩も後ずさり出来ずに途方に暮れている男の様子に笑いを噛み殺す。チラリと男がこちらに視線を流した。にこりと最高の笑顔で俺は歓迎の意を表す。
「シンと申します、あ、こっちはサブちゃん。初めてのお客様ですよね。これからどうぞごひいきに宜しくお願い致しますぅ。お連れの可愛い彼女はおトイレかしら? 女は面倒よねぇ、ちょっと……なんて言ったっていつまでも鏡の前でにらめっこしてるんだから」
とくとくとシャンパンを注ぎ、俺は営業スマイルを振り撒いてやる。女が席を外してどれくらい経っているんだろうか。男の視線がそわそわと落ち着かないものになってきた。
グレー系のシングルスーツ。地味だが仕立ては悪くない。この男も同じだ。無難なサラリーマン調の雰囲気を纏いながら、瞳に浮かぶ知性の深さが奴の聡明さを物語っている。
「あの……唐突で申し訳ないんだけど。頼みって言うか……ちょっとアルバイトみたいな事をお願いしたいんだ」
男の口から、思いがけない台詞がこぼれる。
「アルバイト?高いわよぉあたしぃ」
きゃっきゃっとサブちゃんがノリノリの口調ではしゃぎ始める。口説かれているのかと勘違いでもしているんだろう。悪いけど、サブちゃん。それはないと思うよ……うん。
男は声を落して話しはじめた。俺とサブちゃんは必然的に、そっと男の口元に顔を寄せて内緒話に耳を傾ける。
「これから、彼女が戻って来るんだけど、俺、この店の常連って事にして欲しいんだ」
「へ? いいけどぉ、それってどういう意味?」
サブちゃんがすっとんきょうな声をあげる。馬鹿っ、声、大きいよ。内緒話なんだよ。
「いや、ちょっと世話好きの上司から勧められた見合い相手なんだけど上手く断われなくて……
こういう店が趣味でしょっちゅう通いつめてるって思わせたら呆れられるんじゃないかなって」
かちゃっ。背後のドアが開いた。はっ。三人が同じ動作でびくりと振り返る。
「わぁ、ビックリしたっ」
女の少し大袈裟な声色が辺りに響き渡った。結構、綺麗どころのお姉ちゃんじゃん。俺にはちょっと劣るけどね。
「ご挨拶にあがりましたぁ。どうもいらっしゃいませ〜っ」
何事もなかったようにサブちゃんと声をハーモニーさせて挨拶をする。躊躇しながらも、間違いなくこの状況を女は楽しんでいるように見えた。
常連って言ったら、振られるどころか余計に喜ばれちまうんじゃない? 場末でいかがわしい……ってタイプの店じゃないからさ、ここ。健全でクオリティの高いエンターテイメントクラブなんだぜ。踊り子がニューハーフっていうのがオチだけど。
「後でカタつけてあげる」
ひっそりと男の耳元に囁いてやる。
「え?」
男がこちらを振り返るのと同時に俺は立ち上がった。
「これから第二部のショーが始まるからゆっくりとお楽しみくださいねぇ。また後で改めて遊びに伺いますから」
サブちゃんを引きずって俺はVIPルームを後にした。
「あ〜、あんまり彼女が不意打ちで何にも言えなかったわぁ」
サブちゃんが地団駄を踏んでいる。この人のこういう仕草、漫画みてぇだな。笑いを堪える。
「サブちゃん、ここは俺に任して」
「え〜。でもぉ、あたしも頼まれちゃったんしぃ」
サブちゃんは納得いかない様子でもじもじと拗ねてみせる。
「いいシナリオ考えついたんだ」
「珍しい、シンちゃんがそんなやる気だして。もしかして好みだったのあのお客。え〜ノンケだと思っていたけどシンちゃん実は……」
「違いますよ。嫌だなぁ、面白そうだからかき回してみようって思い浮かんだんだけどさ、一人のほうが上手く立ち回れそうだから」
「ふぅん」
意味深な視線をサブちゃんが投げてくる。
「ノンケですよ、知ってるでしょ? 俺は職業ニューハーフっすよ」
肩をすくませて、真っ直ぐサブちゃんを見つめ返す。
「あっこんなところにまだ居たっ!! 早く二人とも着がえてっ、二部始まっちゃうよっ!!!」
廊下の向こうからスタッフの焦った叫び声が聞こえる。やべぇ、すっかり忘れていた。サブちゃんと並んで走り出す。ばたばたと楽屋に滑りこみ、待機していたスタッフにせかされながら着替えを始める。慣れた手つきで口紅を塗り直しながら、さっきの男を思い出していた。
……変わらねぇな、アイツ。俺だって気付きもしねぇんだもんな、笑っちまうよ。そりゃそうだ。7年前、同じ学生服を着ていた同級生との再会にしちゃあ、想定外ってもんだ。
梶山亮太。ストレートで東大に入った学年一番の秀才。既に受験なんて諦めて落ちこぼれ組だった俺とは、共通点なんてひとつもなかった。あ、クラスが同じっていうのは共通点か。だけど、人種が違うっていうの? ほどほどの進学校だったから、ガリ勉野郎は珍しくもなかったけれど、アイツはちょいと毛色が違っていた。
本当の天才ってああいう奴を言うんだろう。面と向かって話をしたのなんてたった1回だ。だけど……。
梶山亮太。梶山亮太。
アイツがこの舞台を眺めているんなんて、神様の悪戯としか思えない。しかも、断わりきれない見合い相手と並んで俺を見てるなんてさ……喜劇だな。
闇の中、俺を中心に立ち位置でスタンバイしたダンサー達が、真っ直ぐ前を見据えている。幕が上がる前の張り詰めた緊張感。どんなに見てくれをいじくってみたところで、隠しようもない部分もある。ひと仕事前の男の眼差し。いい眼をしているよね。
笑わせたり。泣かせたり。驚かせたり。
人の心を揺さぶるのって生半可な事じゃない。いい加減な踊りで皆の足を引っ張れば、8センチヒールの踵が飛んでくる。ヤクザまがいの脅し文句で首根っこを締め上げられるなんて、珍しい事じゃない。鈴を転がすようなコロコロとしたソプラノが、ドスの効いたアルトに急降下。その変貌振りといったら、ホラー映画より血の気が失せる恐ろしさだ。
以前入ったばかりの礼儀知らずの新人ちゃんがぱったりと姿を見せなくなった時には、コンクリート、東京湾、そんな物騒な単語が頭を横切った。
するすると幕が上がると、交差した光の線が身体を絡め取る。第二幕ミュージカル『シンデレラ』
主役は勿論この俺。ゲイであるがゆえに、継母や義姉に蔑まれ、意地悪に耐え忍ぶ可哀相なシンデレラ。王子様の招待状は、街に住む年頃の娘達。
女だったら良かったのに。そうしたら綺麗なドレスを着て、舞踏会に行けるのに。一人取り残された暗い屋敷で絶望を噛み締める。そんな絶望の中、シンデレラを呼ぶ声が聞こえる。
ダイジョウブ。ホラ涙ヲ拭イテ、コッチヲ見テゴラン。
華々しく現われたのは魔法使いサブちゃん。
ビビデバビィデ・ビビデバビィデ・ビデバビィデ・ブー
サブちゃんがちょいと風変わりなダンスを披露している間に、俺は舞台袖でせわしなく衣装を着替える。オーガンジーやサテンによるライトブルーの濃淡が美しいドレス。大きく開いた胸元には、くっきり谷間の着脱式偽物オッパイ。
廻り舞台がゆっくりと回転すると、きらびやかな大広間が姿を見せる。さぁ、かぼちゃの馬車で乗りつけよう。女として王子様に愛される為に。12時の鐘が鳴り響くまで、ひと時の幸せに身をゆだねよう。
王子様と踊る優雅なワルツがじわじわとノリのいいアップテンポへと変わっていく。客が刻む手拍子に合わせてダンサーはゴスペル風アカペラを歌い始める。
背中がぞくぞくしやがる。そう、これ。この一体感が至福のひと時だ。
ちらりと例のVIP席を横目で眺める。……梶山亮太と視線が絡んだ。呆然と雰囲気に呑まれ、こちらを見つめる梶山亮太と…。連れのお姉ちゃんは楽しそうに手拍子をしている。
ゴーーーーンっ
目が覚めるような鐘の音が響く。
ゴーーーーンっ
夢の終わりを告げる鐘の音。
ふっと舞台の灯りが落ちる。その瞬間、俺の足元がすとんと落ちた。舞台下に作られた奈落。スタンバイしていたスタッフの手が何本も伸びてくる。
おいおい、揉みくちゃだぜ。踊り子さんは丁重に扱ってくれよな。
「きゃぁ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!シンちゃぁぁんっ」
常連の女達の黄色い声が合唱する。暗闇の中、突然点滅し始めた滝のような電飾を背景に、舞台中央の空いた穴、小ゼリから俺はじわじわと姿を見せる。
どっと湧くような拍手。客席の熱気で室温が上がった気さえする。……いつもの事ながら、訳わかんねぇな。 黒いタキシード、斜めにかぶったホンブルクハット。化粧はハケで落してだいぶ薄くした。なんだってこれがニューハーフミュージカルでウケるのか?
“宝塚の男役みたいで色気があるの!シンちゃんは”
常連の女達がうっとりと口にした台詞を思い出す。男役……って、いや、それって女が男装した時の呼び方だよな? 俺、もともと男なんですけど。女装した男が更に男装ってさぁめちゃくちゃじゃん?
梶山亮太が立ち上がって身を乗り出しているのが見える。驚いた顔……。やっと気付いたようだ。遅いんだよお前。いくら化粧で化けているからって、全然気付いてくれなくって俺ホントは少しばかり傷付いちゃったんだぜ。
エンディングの華やかなフィナーレ。意味深な投げキッスをひとつ、奴に向かって贈ってみせた。
「どうもぉ! 楽しんでいただけましたかぁ〜っ?」
俺は、深呼吸をひとつ吐くと、作り笑顔でVIP席の扉を開いた。
「わぁ、すっごく良かったです〜!」
女が明らかにさっきより羨望を含ませた眼差しで俺を見つめてくる。……アンタ、こういうのにはまるタイプだったんだね。そうなれば、話は意外と早いかも。
梶山亮太は至近距離で、再び俺だと認識したのだろう。言葉も出ないといった様子で押し黙っている。
「ねぇ、お嬢さん、お名前伺ってもいいかしら?」
カマ言葉のまま甘えた視線を投げかける。女は見る見る間に頬を染めて「茜です」と小さく答えた。
「茜ちゃん、可愛いからもてるでしょう?」
「えっ、そんな事……」
「だってあたしがヤキモチ焼いちゃうくらいキュートなんだもの」
「やだぁ」
まんざらでもない仕草で、女は嬉しそうに俯いてみせる。
「あたしなんてね、ほら、こんな特殊な人種じゃない? だから恋人作るのって凄く大変なの」
「でもっ、シンさんすっごい綺麗だもん。恋人なんて沢山いそう」
「あたしねすっごく一途なタイプなのよ。生涯一人だけを愛し尽くしたいなぁって思うわけ」
「わぁ、幸せ者ですね。シンさんにそんな事言ってもらえる相手は」
「そう? だ・か・ら・ね?お願いよ」
俺が両手で拝む仕草をすると、「え?」と女は不思議そうな顔した。
「亮太、あたしに頂戴」
「へ?」
片目でウィンクを投げると、奴の頬に手を添えて引き寄せる。
「えっ、亮太って…え? え? 知り合いなの?」
ふわりと重ねた唇の温度。おでこがくっつく距離で眼を白黒させる梶山亮太が見えた。
俺に任せておけって言っただろう。12時の鐘で男に戻ったシンデレラは、開き直って王子さまに迫りましたとさ。
「びっくりしたよ。まさか宇佐見だったなんてさ……」
午前1時。店の裏口からそっと忍び出ると、俺たちは人通りの少ない路地裏を歩き始めた。アメリカンラグシーのTシャツにブルージーンズ。ぺったんこの胸。素の姿に戻った俺にやっと梶山は懐かしさを孕ませた眼差しをよこしてくる。
「まぁ、うまくいってよかったな。茜ちゃん応援しますとすら言ってくれたじゃん」
「……そうくるとは思わなかったけどね」
「梶山、煙草持ってる? 俺、店に忘れてきちゃった」
「あぁ」
背広の内ポケットから梶山は、マルボロの箱を取り出した。
「悪りぃ、火も貸して」
立ち止まると、奴は手馴れた様子でジッポライターに火を付けてよこした。じじっ。と、煙草の先端に炎を移しながら、あれ? と懐かしさが込み上げる。いい色に色褪せ、1セントコインがボディに張り付いたジッポライター。蓋に見覚えのある擦り傷。
「あ〜っ、コレ俺のジッポじゃん」
はっと、慌てた様子で梶山はライターを持つ手を引っ込めた。 ガチャンっ。足元に転がったそれを拾いあげると、馴染んだ感触が指先に触れる。存在感のある重み。
「卒業式の日、宇佐見が体育館裏の階段に落したのを……拾ったんだ」
バツが悪そうに梶山はポツリと溢した。
あの日……そう、俺たちの唯一の接点。俺は卒業式の後、慣れた隠れ喫煙場所に、最後の一服をしに出向いた。正門の前は卒業生と在校生がごった返し、最後の別れを惜しんでいる。
自分を待ち伏せしている下級生の女子達がうっとおしくって、ほとぼりが冷めるまで避難しようと思ったのだ。体育館裏の短い階段に、意外な先客が居た。同じクラスの梶山亮太。
「よぉ、珍しいな。まさか梶山、ここに一服しに来たの?」
「え、一服って?」
……な訳、ねぇよな。俺は奴の隣にどっかりと腰を降ろした。
「正門ごちゃごちゃしているから、人が引くまでここで暇を潰そうかなって思ったんだ」
へぇ、同じことを考えていやがる。あぁ、でもコイツ、結構もてるんだよな。ガリ勉野郎と思いきや、顔は童顔ながら妙に整っている。育ちもいいんだろう、人当たりの良い穏やかな物腰。しかも学校始まって以来の秀才とくりゃ、モテる要素は充分だ。
こんな千葉の片田舎の公立高校から、ストレートで東大工学部に合格するなんて前代未聞。ただひたすらに遊び尽くしてナンパな俺とは住む世界が違うっていうの? 面と向かって話をしたのは初めてかもしれない。 東大の工学部ねぇ……。
おもむろにポケットから煙草を取り出すと、俺はジッポライターで火を付けた。隣で梶山亮太が身体を固くする空気が伝わってくる。
「アンタさ、すげぇよね。東大ストレートで合格だってな」
「あ……う……ん」
皮肉めいた口調で俺は話を続ける。
「でもさぁ、そんなご大層なトコ行ってさ、一体何になりたいわけ?」
勉強しか知らない真面目なクラスメイト。なぁアンタ、高校生活楽しかったの? いつも教室の片隅で、難しい本ばっかり読んでいやがった。
「……俺さ、夢があるんだ」
え? と思わず奴の顔を覗き込んだ。予想だにしない台詞。夢……そんな言葉は不意打ち過ぎて思考回路を混乱させる。
「東大には航空宇宙工学科っていうのがあってね……」
そう口にしながら梶山亮太は視線を上にあげた。その目線の先を追いかけると、青い……青い空が広がっていた。
「俺さ、将来ロケットを打ち上げる時のボタンを押してみたいんだよね」
「へ?」
「3.2.1.0、ドーンってさ」
照れ臭そうに梶山は小さく笑ってみせた。衝撃的だった。夢なんて、今日卒業していく奴等の何人が胸に抱いているというのだろう。自分の器を見極めて、相応の進路を決める。現実の壁に夢なんて、子供っぽい事をほざいている年じゃないんだと思い知らされた。
ロケットのボタン。子供っぽい夢物語。それを現実のものにする為に勉強を積み重ね、東大の工学部に入る奴が居るなんて。
俺は進学をしなかった。だからといって、就職したわけでもない。何をしたらいいのかなんて結局は見つけられなかったのだ。
ただ、退屈な田舎を抜け出し東京でバイトでもして、適当に生活していければいいやだなんてお気楽に考えていた。楽しけりゃいい。今時そんな若者はあふれかえる程にいるじゃねぇか。
だけど……。すげぇよ、アンタ。俺、ちょっとばっかり感動しちゃった。
「一本吸う?」
目の前に酒でもあったら祝い酒とでも言いたいところだが、今俺がコイツに差し出せるものといったら煙草くらいなもんだ。さっきまでの刺々しい口調が急変したのがミエミエで、ちょいとばかりバツが悪い。
「高校最後の日に、ハメ外すのも悪くないだろう?」
きっと、煙草なんて口にしたことないんだろうな。
「ありがと」
一瞬驚いた顔を見せたものの、嬉しそうに梶山は煙草を摘み上げた。俺は手慣れた仕草でジッポライターを指先でくるくると回してみせた。
パチッンっ。着火用の歯車を指で弾いて火をつける。ぽかんと梶山はライターの炎を見つめている。
「ほら、火付けろよ」
「…今の手品?」
「馬ぁ鹿。カッコつけて着火しただけだ」
ジジッ。時代劇のキセル咥えたじいさんみたいに妙な持ち方をして、梶山は煙草に火を移した。
「ブッ……、ブッハっ」
一瞬咳き込んだものの、神妙な面持で奴は煙を味わい始めた。ちらちらと横目で奴が俺の手元を覗き込んでいるのが分かる。ほらよと持っていたジッポライターを手渡してやる。
「1セントコイン? ライターに張り付いてるのコレ」
「あぁ、アメリカでは、1セントコインはラッキーペニーとも呼ばれて幸運をもたらすと言われてるんだってさ。だからコレがボディに張り付いているって事は幸運をもたらすジッポライターなんだぜ。ほら、コインの製造年見てみろよ、俺たちが生まれた年だ」
「ほんとだ…」
子供が魅惑的なおもちゃを手にしたときのように、手のひらに乗せたジッポをまじまじと梶山は見つめている。
二ヶ月前、渋谷に買い物に出かけた時、アメカジ屋で見つけた。買う予定だった服を諦めての衝動買いだった。かっこいいジッポの着火方法を、よくこの階段の上で練習した。一度思いっきり手の平から放りだしてしまい、階段下に転がっていった時に派手な擦り傷を刻んでいた。だけど、そんな傷さえジッポライターっていうのは勲章に見せちまうカッコよさがある。俺のお気に入りだった。
「…お前にやるよ」
「えっ?…ごほっ」
煙が目に染みたのか、しかめっ面のまま梶山は俺を覗きこんできた。何の話? そんな表情を浮かばせながら。
「合格祝い」
梶山は気付いちゃいないだろう。もやもやと俺の心を覆っていた憂鬱や倦怠感を、奴の夢の告白が不思議な力で払いのけてくれただなんて。
先のない未来。見えない道しるべ。何に対しても無気力な自分自身に嫌気がさしていた。夢だなんて無意味だ。今の世の中やりたい事を手に入れるだなんて、宝くじに当たるようなもんじゃないのか。努力なんて儚いもので、ラッキーな奴だけが甘い汁を啜れるのだと諦めていた。
だけど、目の前を真っ直ぐ前を見据え、夢に向かって現実に歩いている奴がここにいるだなんて。俺もコイツみたいに何かを繰り当てたい。自分の力で……。
「こんな大事なもの貰えないよ」
そっと俺の手に梶山はライターを戻してくる。
「はぁ? なんだよ、シラケる事言うなよ」
「だってさ……」
「遠慮するなよ」
その時だった。
「宇〜佐〜美〜っ!!バイクのケツに乗せてくれよ!」
遠くの方で遊び仲間が俺を見つけて叫んでいる声が響いた。
「早く行こうぜぇっ。着がえて飲みに行くんだろう!」
友達がじりじりとこちらに歩いてくるのが見えて、俺は咄嗟に立ち上がった。何故だか、そいつをこの空気に混ぜたくはなかったから。梶山と過ごした体育館下の階段。俺にとって既にここは、ただの喫煙所ではなかった。洗礼を受けた神聖な場所のように感じていた。
「じゃぁな、東大生頑張れよ」
俺は立ち上がった。ライターのことで押し問答していたことなどすっかり頭から抜け落ちていた。
「宇佐美が去った後、階段の所に転がっているのを拾ったんだ。何年も借りっぱなしで悪かった」
スーツ姿の梶山が頭を下げている。一瞬、時間の感覚がなくなっていた。随分昔の事なのに、頭をよぎった7年前の情景はあまりにもリアルだったから……。
「別に謝る事なんてねぇじゃん。コレ、お前にやるって言っただろう」
大事に使っているなんて律儀さがコイツらしい。俺からしたら、奇跡だな……ここまで物持ちがいいなんてよ。俺が笑いかけると梶山も照れ臭そうに笑って返した。
「あ、ひとつ誤解がないように言っておくけど、俺ノンケだから」
「……ノンケ?」
専門用語になるのかねこれって。意味がつかめていない梶山に、俺は説明を添えた。
「別にそういう趣味があってあの店で女装しているってわけじゃないって事。もともと俺はあそこのショーの演出を担当しているんだ」
「演出?」
「そう、ステージ演出を構成するのが本業なの。ダンサーもやっているのは現場を肌で勉強する為。まだまだ学ぶ事いっぱいだからさ、俺」
ただ、あそこだと勉強させてもらうのに女装しなくちゃいけないっていうのは確かに難問だった。ほんの端役を務めるつもりが、気が付いたら主役張ってるっていうのも…思わぬ展開だったって訳だ。
「すごいなぁ、宇佐美は。俺あのショーの迫力に圧倒されちゃったもん。
俺ってほら、すごい平凡な男だからさ、華がある人って羨ましいよ。本当に君は昔から変わらないよね」
平凡? アンタが? あの一瞬で俺の人生を変えた張本人がよく言うぜ。
「ロケットのボタンは押したのかよ、梶山」
はっとした顔で、奴はこちらに顔を向けた。
「良く覚えてたね……」
消えそうな語尾だった。溜息のような。黙り込んだ梶山は、煙草を咥えた。ね、火、付けてよ。俺より頭ひとつ背の低い梶山が、上目づかいでそう促してくる。
最近100円ライターばっかり使っていたからちょいとばかり自信がなかったが、指先で弄ぶようにジッポを回すと、俺はパチリと指を鳴らして着火用の歯車を弾いてみせた。
ぽっ。暗がりに蛍のような灯りがともされる。満足そうに顔を傾けて梶山は煙草に火を移した。あの時のたどたどしさは微塵もない。大人の男の仕草。
「発射ボタンはまだ押していないんだ。結構ライバルが多くてね」
肩をすくめて奴は美味そうに煙を吐き出してみせた。
「お前、明日、宇宙なんたらの仕事は休み?」
「宇宙航空研究開発機構。明日は……休みだよ」
「おっしゃ、じゃあ再会を記念して1杯飲みに行こうぜ」
「……いいけど」
「タクシー拾えなかったら俺んとこ泊まっていってもいいからさ。この道を15分位、渋谷のほうに歩いたトコにあるマンションに住んでるんだ」
「え、でも、こんな急に悪いよ」
遠慮する仕草。こんなところは変わっていないんだな。
「水臭い奴だな、キスした仲だろう?」
誘うように耳元で囁き、からかってやると、梶山は耳まで真っ赤にして俺からぱっと一歩退いた。男にも女にも免疫無しってか?
「冗談だよ、さっき言ったろう? 俺はノンケだって」
取って食いやしねぇよ。だけど、あんな世界にどっぷりと浸かって、俺も少し感覚がおかしくなっているのかもしれないと、苦笑いを噛み殺す。
再会の祝杯をあげよう。ラッキーペニーコインがへばりついたジッポで照らせば、開けた未来が浮かび上がる。そして、再び人生の夢を、男二人で語り合うのも悪くない。
(END)
※一次小説創作同盟第4回企画投稿作品
(もしも王子さまの前でシンデレラの魔法が解けたら…ストリーテラー2使用作品)