第四話
「初夜」から二ヶ月。
いずみの雰囲気は大きく変わった。
もともと「子宝の湯」の魔力で女性的になっていた。
それがここで一気に女そのものになった。
やはり女として抱かれたこと。
しかもそれが「至福のとき」だったのが大きく影響しているようだ。
夜八時。
泊り客の食事も住み、一息ついているころ。
袖もあわただしく動いていたいずみに敦子が呼び掛ける。
「姉さん」
「なぁに?」
温子が目配せをする。いい予感があった。
幸い客がいない。いそいそといずみは裏手に出る。そこに男の影を見つける。
「よぉ」
「翔」
「迎えに来た」
「ありがとう」
全身で抱きつく。表情。歩き方。駆け寄り方。
何から何までもはや完全に女だった。それもそのはず。
あれから毎週のように夜を過ごしている二人である。
体に電気が走るそのたびに女へと近づいていた。
魔力のせいだけとは思えないいずみの変化。そしてそれは……
いずみと翔はある医院にて診察を受けていた。
心なしか緊張がある。
それを和らげるかのごく、にこやかに医師が宣告する。
「おめでとうございます。2ヶ月ですな」
「赤ちゃんが……」
そう。あの夜に結ばれて。そしてそのときに身篭っていた計算になる。
定期検査を受けて妊娠が判明した。
「おい。やったな。いずみ」
親友が男に戻れるからか。それとも「夫」として喜んだのか。
義理とは思えない笑顔の翔。
「う、うん。ありがとう」
どこか今ひとつ歯切れの悪いいずみの答え。
「どうした? 嬉しくないのか。これで後は無事に生むだけだ。そうすれば男に戻れる。それなのに嬉しくないのか?」
当然の翔の問いかけ。
「ううん。そんなことない。でも……」
「でも?」
「ひどく実感がないの。あたしが身ごもったことが」
不安そうに翔を見上げるいずみ。それに優しく微笑み返す翔。
「オレもそうだったよ。腹の中に子供がいるといわれてもぴんと来なかった。生まれついての女なら、いつかこの日が来る覚悟もあったわけだが」
確かに! この前まで男として生きていた。
将来は働いて、嫁をもらい、家族を養う「覚悟」は出来ていた。
ところが現在は結婚こそしてないものの「嫁」のような状態で、そして身ごもっている。
こんな覚悟などしているはずもなかった。
だがいずみの戸惑いはそれではなかった。
すぐさま宝田旅館でも報告がなされた。
「そうか」とだけ言ったまま黙ってしまう父。
本当の娘なら結婚前にこうなってしまったことに対しての怒りだろう。
だがいずみは本来は男。そしてかつては自分も同じよう立場になった幸太郎としては、あのころに思いをはせていた。それで黙っていた。
「おめでとう。いずみ」
「良かったね。お姉ちゃん」
母と妹は単純に喜んでいる。
めでたいことだからか。男に戻れるからか?
しかしどこか浮かない表情のいずみだった。
「お父さん」
その夜。帳簿をつけていた父の元にいずみが現れた。
「どうした? 妊娠初期は大事にしないといかんぞ。早く寝たらどうだ?」
「うん。でもちょっと、お父さんに聞きたいことがあって……」
何か大事な話と察した幸太郎は帳簿をつける手を休めた。
そして冷蔵庫に出向いてビールを持ってくる。グラスは二つ。
「一杯だけ飲むか?」
話し易くする為の配慮なのは言うまでもない。
泡が消えてしまった「気の抜けたビール」。
注いだものの口をつけていない。視線を落としたままのいずみ。
幸太郎は黙って待っている。
「どうした?」とも聞かない。ただ待っている。
「あのね……」
ようやくいずみが口を開いた。
「お父さんも昔はあたしと同じようになったのよね」
「ああ」
懐かしむような笑顔。
「あの時はそれどころではなかったが、今となってはいい思い出と言うことか。それもこれもアイツが……お前の本当の意味での父親がいたからだが」
それは今の自分で言うなら翔がそうなる。
「すっかり甘えてしまったな。あの時は。精神的に不安定だったのもあるが、あいつは……義朗はとにかく優しかったよ」
翔もである。ましてや直前まで同じ境遇。
これ以上に現時点のいずみを理解してくれる人物もなかなかいない。
それだけにことのほか優しかった。
人の痛みを知れば優しくなれる。
「ねぇ。そのときにだけど…」
いずみは言いよどむ。もっともなにを言いたいかは幸太郎には察しがついていた。
「ああ。このままでいいとも思ったさ。お腹の中の子供。つまりお前が大きくなるほどに儂は心から女になってな。もうこのままずっと女でいいと思ったさ。お前もなんだろう?」
いずみはコクリと頷いた。
「それは本能のようなものでな。赤ちゃんを守るためのな」
「そうなの?」
「ああ。気の迷いと言うものだ。事実、元の姿に戻るとその気持ちは消える」
「そう……」
どことなく「意気消沈」と言う感じのいずみ。フォローでもないだろうが幸太郎は続ける。
「ただ親として愛情を注ぐのはいいことだ。父親としてになるがな」
「そう……そうよね」
無理やり自分を納得させようとしているいずみ。
「さぁ。わかったなら早く寝なさい。夜更かしは妊婦には良くないぞ」
「……うん」
釈然としない。そんな感じでいずみは親の部屋から出る。
いずみは自分の部屋で寝床に着く。
まだ大きな変化の見えない腹部をそっとなでる。
(この気持ち。これも魔力や本能のせいだというのかしら? 赤ちゃんを愛しく思うこの気持ち)
なんとなく天井を見上げる。
(もう女のままでいい。むしろ女でいたい。こんなに優しく愛されて満たされるなら、男に戻るよりも)
けれど母になったその途端に男に戻る。いや。「なってしまう」と言うべきか。
それを目指していたのに、どこか浮かない。
(これほどまでに女でいたいこの気持ちも、生んでしまって魔力が消えたらなくなっちゃうのかしら?)
ごろっと寝返りを打ちかけて、思い出して腹部を庇う。この中には小さな命が。
本当なら一生ありえなかった『小さな命』が自分の体の仲に。
(でも……翔はあたしを男にす。戻すために無理してあたしを抱いてくれた。それなのにまた女に戻ったらそれも無駄になっちゃうわね……)
照明が落ちて暗い天井を見つめる。
(うん。この話はこれでおしまい。あたしは元気な赤ちゃんを産んで男に戻る。決まり!)
半ば無理やりに自分を納得させたいずみは、夢の世界へと旅立って行った。
おかしなもので、妊娠を認識した途端に気分が悪くなった。仕事を休んで臥せっている。
さすがにこれは出産の経験のない温子では手に負いきれない。母の出番だ。
「普通はつわりで気がつくものだけど」
母の言葉どおりつわりであった。
生理が来ない。そして気分が悪くなる。つわりがあると産婦人科へ。
そこで妊娠が判明するケースをさしている。
だがいずみは妊娠を告知されるまでまったく気分が悪くならなかった。
「そうとう甘やかされてんでしょう? 翔君に」
「なんでわかるの!?」
言ってしまってから赤面するいずみ。図星だった。
「つわりの仕組みは良くわからないらしいの。でも精神的なケアが充分だと軽くなるみたい」
それで妊娠を自覚するまでつわりが来なかったのか? 認識した途端につわりがきたことを考えると、精神的な要素は無視できない。
母の言葉は正鵠を射ているかも知れない。
「まあいいわ。彼も『子宝の湯』で出産を経験しているから気持ちがわかるんでしょうね。そういう意味ではいい人が相手になってくれたわね」
「うん。相手の痛みを知っていると、優しくなれるものね」
いずみは文字通り全身でそれを受け止めて良くわかっていた。
だからこそこのまま女でいいかもしれないと思い始めていた。
けれどそれでは翔がトラウマを克服してまでに、自分のためにしてくれたことが意味がなくなる。
無事に出産を済ませて男に戻ること。
それが翔の気持ちにこたえることといずみは思っていた。
(そう。翔は自分も同じ傷を持っていたからあたしに優しいだけ。あたしを元の姿に戻すためにがんばってくれている。それはわかっているつもりだけど)
母親が出て行ってからいずみは両手で顔を覆い隠す。涙を隠した女の泣き方。
(ダメ。女として翔を好きになりかけている。ううん。もうなっているに違いないわ)
涙が止まらない。
(順番は逆で体から繋がったけど、肌の重ねあいではウソはつけない。翔はあたしを大事にしてくれている)
そっと自分の腹部をなでる。「愛の結晶」が詰まっている。
(男に戻そうとするのは男同士の友情? でもあたしを大事にしてくれるのは男と女の関係?)
考えるほど迷う。考えないようにしても頭にこびりつく。
そのうちに疲れて眠ってしまった。
就職戦線に敗れて四月に里帰り。
その日のうちに「子宝の湯」に浸かってしまい、子供を産まないと男に戻れないことに。
そして秋になって同じ境遇から戻った翔と結ばれた。
暮れには妊娠が判明。
そして妊婦としての年越しになる。
温泉宿だけに忙しい正月だが、妊娠していることもあり「正月休み」をもらえた。
翔の親もそのあたりの事情をわかっていたので(何しろ自分の息子が一時期は妊婦に)配慮して一緒の休みにしてあげた。
「なんだか悪い気がするわ」
「今回だけだ。元に戻ればそうも行かない」
「そうね。元に戻れば……ちょっとまって?」
一つの疑問が浮かぶ。
「元に戻るときはあたしが出産したときだけど、生まれた子はどうするの?」
そうだ。産んだ直後に「母親」がいなくなる。
「俺が育てるよ。俺の子でもあるし。既に俺はもうひとり育てている。俺はこのままここで過ごすが、お前は自由になったら暮らしも元に戻るといい。東京にな」
「そんな」
まったく考えてなかった。ただ産むことしか考えてなかった。
「赤ん坊を抱えて就職活動は出来ないだろう」
「それはそうだけど」
目立ち始めた腹に視線を。
「心配するな。さっきも言ったがこの子も俺の子だ。ちゃんと育てる。里帰りしたらあわせてもやるよ」
そうだったのだ。
出産を果たすと言うことは「子宝の湯」の「魔力」が途絶えて、元の姿に戻ると言うこと。
元通りの生活に戻ると言うこと。
そしてこの子の「母親」ではいられないと言うこと。
(でも、元に戻ってもまた「子宝の湯」で女になれば……あたしは何を考えているの?
元に戻すために翔は無理してくれているのに…そんなことしたら全てが無駄になるわ)
しかしこの気持ちが抑えられなかった。
「ねぇ。翔。どうしても男に戻って東京に行かなきゃダメかな?」
小さな子供がおねだりをするように見上げる。
「どういうことだ?」
「なんだかこのままでいいような気がしてきた。このまま女で過ごしてもいいような」
「おいおい。何を言ってんだよ。お前は男として生まれてきたんだろ」
「わかってるわ。でももうここまでやっちゃったのよ」
抱かれた時点でほとんど心は女だった。
そして男ではありえない「身ごもる」と言うこと。
お腹の子供が大きくなるたびに愛しくなり、優しくなり、少しずつ男の部分が女のそれに変わって行く。
「もうこのままでもいい」と思っても無理からぬ話だった。
「だが仮にお前が女でいたいと思っても産んでしまえば魔力は消え、男に戻る」
「それもわかっている! でももう一度『子宝の湯』に入れば女でいられるわ」
女でいられる。妊娠までしたせいかもはや『女』を基準に考えている。
「それじゃあオレは何のためにお前を抱いたんだ!」
珍しく怒鳴る翔。真上から怒鳴られてビクッとなるいずみ。
「ご、ごめんなさい」
「いや。怒鳴ったりして悪かった」
素直に謝りあう二人。翔はおもむろにいずみを腕の中に。
お腹に触らないようにそっと抱き寄せる。
「お前のその気持ち。オレも経験したからわかるよ。思い出してくれ。再会したときのオレを。すっかり女だったろう」
いわれて見れば確かに。
たとえ事前に『子宝の湯』のことを知っていても、とても翔だとは思えなかったに違いない。
「オレもあの時は女としての未来しか見えてなかった」
「本当?」
まさに今の自分と同じ。いずみは思わず尋ねてしまう。
「ああ」
短い返答の翔。
「だが今では逆に産ませる立場だ。魔力さえ消えればその気持ちも消える。お前は無事に産むことだけ考えればいい」
「そうね。どうかしてたわ。あたし」
「ホルモンバランスが妊娠中は崩れるからな。それで精神が不安定になる。オレもそうだった。オレのときは頼れるのがお袋だけだったが、お前にはオレがいる。オレを怒鳴って気が済むならいくらでもすればいい。ただ、女のままでいたいと言うのはもう言うなよ」
「うん。わかったわ」
七ヶ月になるともうだいぶ腹部が目立つようになる。
この時点ではいずみはもう旅館の仕事を外れていた。
身重を配慮されたのもあるが何より客商売。
さすがに一目でわかる妊婦に、仕事をさせるわけには行かなかった。
ただ動いていた方が気がまぎれるので、厨房で野菜の皮むきなどの仕込みに回っていた。
「もうすぐですね。いずみさん」
若い板前がいずみの腹を見て軽薄に言う。
「このバカ。セクハラだ」
若い板前は厨房の責任者に叩かれる。いずみはくすっと笑い
「いいんですよ。このお腹ですものね」と言った。
「最近じゃバスに乗っても学生さんに席を譲られたりして。なんだかあたしって社会的にも妊婦なんだなって気がしてきたんです」
「そうですよ。もうすぐ赤ん坊を生むお人だけに、なんだか優しい空気が漂っていると言うか」
「お前はなんだってそんなに軽いんだ? とは言えど確かに言うとおりですな。妊婦さんにゃ見る人を幸せな気分にさせてくれるものがありますぜ」
「そうですか」
無難に答えたものの自分でも優しい顔になっていると思っていた。
八か月目。
やはり検査を続けている。
それには翔も付き添う。
何度も肌を重ねたからか。
そして自分の子供が腹にいるからか?
いずみを見る目は同性の親友に対するものでなくっていた。
いずみに至ってはすっかり女の表情だ。
夫を見るような目で翔を見ている。
その大きくなった腹には二人の「愛の」それを言うなら「友情の結晶」が宿っていた。
十か月目。夏真っ盛り。
さすがに気を使われて厨房にも入れてもらえず、本人もこの身重では足手まといと判断して強行しなかった。
自分の部屋で過ごしていた。
「暑いわねぇ…でもクーラーは妊娠中は体に毒なのかしら?」
暑さのあまりつぶやいてけだるそうに部屋を見渡す。その表情が微笑みに。
いつ生まれてもいいようにベビーベッドなどがもう購入されていた。それがある部屋。
ドレッサーの上にはいつも使う化粧品が。
タンスにはすっかり増えた女物の衣類が。
「すっかり女の部屋ね。しょうがないか。なにしろ妊娠なんて絶対『女』にしか出来ないことをしているくらいだし」
それでも部屋にはまだ男時代の名残がある。
「不思議ね。なんだか男だったと言うのが今では信じられないわ」
本当に夢を見ているかのように言う。
「こんな体になって、男に抱かれて、そして今こうして妊婦で。男だったと言う方が夢みたい…」
いずみはトイレのために立ち上がった。だがその途端に物凄い痛みに見舞われる。
腹部からの強烈な痛みは一度立ち上がったいずみを蹲らせてしまった。
あまりの激痛に声がでないで涙が出る。
「お姉ちゃん?」
たまたまトイレに来ていた温子が通りかかりいずみの異変を察知した。
彼女は携帯電話を取り出して父親に電話した。
「もしもし。お父さん? 大変。お姉ちゃんが苦しんでる。陣痛かも……わかった。タクシーを表に呼ぶから連れて行けばいいのね」
早とちりではなく陣痛だった。緊急入院。
いずみは痛くて苦しくて何も考えられなかった。
ただ呻くだけである。
しかしその手がふっと暖かくなる。本当に気のせいだが楽になった気がした。
握られた右手を見て、見上げると翔がいた。
「あ……」
その微笑を見ただけで苦痛が嘘のように抜けて行く。
「心配するな。オレがついていてやる」
「翔……!? ダメ。見ないで」
「どうして?」
「だって…お産に立ち会ってダメになった男の人って」
出産に立ち会ったものの、あまりの光景に衝撃を受けて「不能」になるケースもある。
「いいさ。もともとそうだったんだ。それに……」
ここで翔はそっぽを向いた。小さな声でいう。
「これでお前は男に戻る。お前以外の女を抱く気になれないんだからかまわないさ」
「翔……」
胸がいっぱいになった。こんなにもこの男は自分と言う女を愛してくれている。
それでもこの幸せな魔法は愛の結晶と引き換えに解けてしまう。
それならせめて「最後の愛」を精一杯受け止めよう。
なんだかどんなに苦しくても耐えられる気がしてきた。
本格的な分娩が始まった。
気を失いそうな痛みの中、医師や看護士の励ましが力づけてくれる。
何よりも女になってしまった自分を案じてくれた翔の友情。そして限りない優しさをくれた翔の愛情。
これが心強かった。
分娩室の外では父。母。そして温子が待っていた。
動物園の熊。まさにそんな状態の幸太郎。
「もう。しっかりしなさい。あなただって経験したでしょ」
「それはそうなんだが……」
いずみを産んだのは幸太郎。だからこの痛みも覚えはある。
しかしそれでも待つ立場は辛い。
そして…元気一杯の産声が上がる。
「やった。生まれたんだ」
扉の外の家族の待ちわびた知らせ。
「そうか。そうか。うんうん。よかった」
今の幸太郎にはいずみが男に戻れることを祝う気がない。
ただ無事に生まれてきたことを祝福していただけだ。
「がんばったわね。いずみ」
母は先輩だけにもう少し冷静だ。それでもうっすらと涙が。
分娩室内では生まれたばかりの赤ん坊が産湯につけられていた。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
助産婦に告げられていずみはやっと意識を現実に向けた。
「やったな。いずみ」
満面の笑みの翔。母親として一人。そして今度は父親として二人目の子供になる。
「あなた」
自然と「夫婦」らしい言い方になる。生まれたての子供と、なりたての母親。
ほんの僅かな間の父と母と息子だった。




