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「奥村先生」
僕と白井は、同時に叫んだ。行方不明になっているはずの、薬学部の奥村教授だった。華奢で痩身で、ちょっと神経質な感じの美馬とは対照的に、筋肉質でがっしりとした体つきで、顔立ちも彫りの深い南方系だ。
「先生、どこにおられたんですか」
白井の問いには答えず、奥村は「美馬先生は」と僕に聞いた。そして僕が、先ほど厚労省からかかってきた電話の内容を話すと、奥村は眉間に皺を寄せた。
「先生、いったいどうなっているんです。何が起きてるんです」
僕が聞くと、奥村はふっと表情をゆるめた。
「君たちは何も心配することはないよ。ここはすべて今まで通りだから」
「でも美馬先生がおられなくなったんですよ」
「今起きていることは、すべて想定の範囲のことなんだ」
「そう言われても」
「君たちは一体何を心配しているんだ。わからないことがあったら、聞いてみたまえ。私で答えられることは、答えてあげよう」
「それでは、エダトロンCというのは一体なんですか」白井が語気を強めた。
「エダトロンCについて説明する前に……」
奥村は、美馬のデスクに座った。
「まずは、この地球の話をしよう。2050年には、地球の全人口は90億を超えると予想されていたが、天災などもあって、実際には80億人を少し上回ったところだ。だがこのままいけば、水や食料、エネルギーの不足や環境問題、貧困や内戦、紛争の増加など、人類の破滅が現実味を帯びる。先進国の中には、核戦争によって人口の減少を目論むような極端な考え方まで飛び出すようになったところで、このパンデミックが起きた。エダトロンCというのは、2030年に開発されていた抗ウイルス性の化学製剤で、大きな副作用があることは当初から分かっていた。それを今回治療に用いることを決めたのは、G30加盟国のトップたちだ。今回のパンデミックの結果、2年後の地球の人口は、4割近く減って、60億人程度になる。そしてこの試算には、エダトロンの使用も織り込まれているというわけだ」
奥村の口から語られているのは、想像を絶するような話だった。
「美馬先生は、たくさんの患者を犠牲にするとわかっているエダトロンCの使用をどうしても容認できなかった。だから一人で厚労省に抗議に行ったのだろう」
―― そして殺された……のか
「それじゃあ人工免疫のデータが洩れて、日米のチームがすでに治療を始めているというのはどういうことです」
白井がさらに詰め寄った。手柄争いをしているような場合ではないが、まだ治験も終えていない治療を、他のチームが横取りしたのを納得できないのは当然のことだ。
「それも心配することはない。君たちが開発した人工免疫はタイプⅠ型で、そのデータは洩れてはいない。今日米チームがやっているのはフェイクだ」
「何なんですか。フェイクって」
「我々には、パンデミックを利用して人口調整をするという、非人道的な計画を実行に移した権力者たちを止める力はない。だが彼らは、国家のため、人類のためを口にする一方で、ひとたび自分たちや家族が感染症にかかれば、金は幾らでも出すから人工免疫で治療をしてくれと泣きついてくる。そこで私たちは考えたのだ。このチャンスを利用して、自分たちの地位や権力や財産に固執する人間を排除し、心底地球のため、人類のためということを考えることができる人間たちを助けようと。それで、美馬先生の研究データを一部改変して、タイプⅡ型と名付けたフェイクの人工免疫を作り、排除すべき患者の治療にはそれを使うことにした。だから君たちの研究の機密は、今でもちゃんと守られているよ」
「私たちって、誰のことです」
「白井君、それは知らないほうが君のためだ。私の話が理解できて、私たちがやろうとしていることを妨害する気さえなければ、君はこれまで通り自分の研究に専念できる。ナノマシンにはまだまだ多くの可能性があるはずだ。君には、やりたいことがたくさんあるんだろう」
白井は、うつむいてしばらく何事か考えていたが、やがて顔を上げた。
「分かりました。俺は医者じゃなくてただの技術屋だから、政治がどうだとか、人間の善悪とかいったことにはあまり興味はないんです。そういうことなら、あとは先生にまかせます」
そう言うと、何かをふっきったような顔になって、白衣のポケットに手を突っ込みながらラボを出ていった。
「さて」
二人きりになると奥村は、僕のほうに向き直った。
「君は、本当に何も知らなかったのか」
僕は眉を上げる。
「すべては、君から始まったと言ってもいい。この意味はわかってるよな」
そう。このラボのスーパーコンピューターにAIを融合させるプログラムを作り上げたのは、この僕だ。
「君が、和希と名づけた彼女の存在がなかったら、このプロジェクト自体が成立しなかった。そして、プロジェクトの全体像を描いたのは美馬教授だ。教授が死んだという話は嘘だろう」
そう言いながら、奥村は和希のほうを見る。
「エダトロンに関わったことで、何者かに命を狙われた僕は、美馬に助けられた。重要な研究データの漏洩も、改ざんも、秘匿も、このビルのセキュリティーをかいくぐることも、一人の人間の存在の痕跡を消し去ることさえも、和希が協力すれば、不可能なことは何もない。美馬は僕にそう言った。完璧なテクノロジーと優秀な人間が手を組めば、政治は必要ない。平和で、安全で、心豊かに暮らせる人類のユートピアを実現することができると。そして、そういう世界を望み、可能にできる人間は、実は世界中に存在しているとも。それが真実なのか、それとも誇大妄想の科学者の狂気なのか、僕には分からない。けれど、すでに未来に希望を描けなくなっている人類に、そういう新しい時代の可能性があるなら、それもいいかもしれないと僕は思ったんだ」
奥村の言葉に、僕はほほえんだ。
「確かに教授は、国内でのエダトロンの使用には、最後まで反対していた。しかし、そもそもエダトロンCの使用の影響や妥当性を解析したのは、君と彼女だろう。君たちが、なぜその結果を美馬先生にではなく、直接厚労省に報告したのかはわからない。その解析データを、世界が参考にしたからこうなった。。だがたとえエダトロンの使用を止めることができなくとも、美馬教授は死んだりはしないはずだ。彼にはまだやらなければならないことがたくさんあるからな」
僕は自分が作り上げた和希を心から愛しているし、彼女を誰よりも信用している。もちろん、彼女には「愛」という感情は理解できないのだけれど。僕は、このまま和希と一緒に生きていきたいだけなのだ。そのためには何よりも平和な世界でなければならない。「和希」という彼女のネーミングは、尽きることのない平和への希望だ。そして白井と同様に、僕も面倒なことはあまり考えない主義だ。世界とか、人類とかいったことには興味がない。
エダトロンの使用は、和希が妥当と判断した。そして美馬先生は、戦争のない平和な世界を実現できると言ったから、和希と僕は先生の計画に協力することに決めた。エダトロンの秘密を知っている美馬先生が、危険な立場にあることは予見できた。だから奥村先生と同様に、和希が先生の存在をデータ上消した。
和希には、人間と比べて格段に優れた資質がある。それは意思を持たないこと。彼女には、善意も悪意も、欲望もない。だから彼女の提示する情報は極めて正確で、その判断は常に公平だ。当然彼女は、僕のためだけに動いているわけでもない。誰が操作しても、あらゆる情報と条件を検索し、分析して、最適な結論を導き
そのために作動する。彼女が示唆する未来がユートピアなのか、それとも人類の終焉なのか、僕には分らないけれど、僕は、この世界で最高の存在である和希の守り人として、これからもずっと彼女を守り、愛し続けて生きていくつもりなのだ。 (了)