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午後になって、厚労省の幹部が数人ラボにやってきたらしい。
僕は知らなかったが、遅い昼食を取っているところへ、ナノマシンの製造に携わっている工学部の白井が血相を変えて飛び込んできた。
「おい、美馬先生は」
「今日は、厚労省へ行かれてるはずだ」
「その厚労省から役人が来た。人工免疫の治験は終了。認可されたぞ」
「何だって」
「それだけじゃない。俺たちの研究データは、もう厚労省や他のラボも共有していて、日米合同チームのラボや外来は、すでに治療に取りかかってるっていうんだ」
「そんな馬鹿な」
僕たちだって、今が非常事態だということくらいは十分に分かっている。けれど、厳重なセキュリティで保護されているはずの研究データがすべて洩れていたというのは尋常なことではなかった。
「美馬先生のプランでは、今週中に治験を終了し、その後に全員でカンファレンスを行ってから治療に取りかかるというスケジュールじゃないか」
「それだけじゃない。外来の人間の話では、エダトロンCを処方された患者の多くが、高熱や痙攣、嘔吐などのひどい副作用が出て、乳幼児には死亡者も出ているらしい。その患者たちが、医療センターの回りに押しかけてきてるんだ」
それでは、朝からラボの中にまで響いている地鳴りのような音は、その患者たちの哀願の声か、怒号か。
白井は、周囲を見回しながら声をひそめた。
「美馬先生は、エダトロンについて何か言ってなかったか」
「いや、何も聞いてないが、エダトロンの話が出た時から、ずっと難しい顔をして考え事をしていた」
「エダトロンCって、抗ウイルス性の万能薬って触れ込みだろう。開発したのは、アメリカと日本のチームらしいが、その開発責任者だった奥村先生が行方不明なんだ」
それもまたあり得ない話だった。それぞれのラボのトップの人間以外は、原則としてこのセンターから出ることはできない。僕たちも5ヶ月前に、ここに入ってからは一歩も外へ出ていない。センター内はすべての部屋に生体認証のシステムがついていて、至るところに監視カメラもある。幽霊でもない限り、この施設から出ることも、姿を隠すこともできるはずがなかった。
「俺は技術屋だから、薬のことはよく分らんが、そもそもエダトロンCって、何なんだ」
そう言われてみれば、僕もエダトロンCについては何も知らない。僕は、この研究室の中で膨大なデータの入力や解析をやるのが仕事で、臨床の現場には関わらない。外来で治験をやっているのは、フランス人やドイツ人の医師たちだった。けれど確かに、感染症の拡大からわずか三か月ほどで万能薬の新薬が完成して、ただちに実用化されたというのは不自然な話ではあった。
「なあ、和希」
僕は和希のほうを振り返る。
「エダトロンCのデータを探してくれないか」
「了解」
俺と白井は、和希の作業を見守った。
「データがないわ」
数秒後、和希がつぶやいた。
「何だって」
「ネット上のどこにもエダトロンCに関するデータがないの」
すでに認証されて実用化されている薬の、組成や配合、使用方法や効能などのデータが公表されていない。それもまた、あり得ないことだった。
その時ラボの電話が鳴った。
「はい、もしもし」
電話を取った僕に、受話器の向こう側の人間が、極めて事務的な口調で衝撃的な事実を告げた。受話器を置いた僕は、へたへたと椅子に倒れこんだ。
「どうした。なんかあったのか」
「美馬先生が、死んだ」
「どういうことだ」
「厚労省の非常階段から落ちた。転落死だと言ってた。それ以上詳しいことは、分からない」
僕と白井は顔を見合わせた。
―― 何かとんでもないことが起きている
僕たちはお互いに、相手が同じことを考えているのが分かった。考えてみれば、僕たちはこのラボに入った時から、完全に外界とは遮断された環境で過ごしてきた。ラボの中は、携帯も使えないしテレビもない。情報を得ることができるのはネットだが、寝る間も惜しんでデータの解析や、人工免疫の開発に取り組んできた僕たちは、外の状況や情報を知ろうとする余裕も、時間もなくしていた。しかも、それぞれが、自分の専門の分野に熱中していて、全体像はまったく分からなくなっているのだ。
その時、ラボのドアがすっと開いて、大柄な男が入ってきた。




