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「こんな暴挙は、認められない」
美馬は両のこぶしで机を叩いた。普段温厚な美馬の顔が、怒りのために紅潮している。彼はどっしりした木製の机をはさんで、厚生労働省の小西事務次官と向き合っていた。
「エダトロンCの配布を即刻中止してください。うちのラボで開発中の人工免疫が、もうすぐ実用化できることはご存知でしょう。あと半月もすれば、治療は可能になるんだ」
「美馬先生、そんな悠長なことは言っていられないんですよ。わが国だけで、すでに四千万人を超える感染者が出て、この半年で三千万人以上が亡くなった。今は、とにもかくにも、一秒でも早く感染を食い止めなければ、取り返しがつかないことになる。エダトロンCは、ほとんどのウイルスや細菌を壊滅できて、治験でも大きな成果が出ている。この決定は、むしろ遅すぎるくらいです」
エダトロンC。それは、2028年のオリッピックの際に、観客の中にエボラ出血熱の患者がいたことが発端で開発された化学製剤だった。細菌だけでなくウイルスに対して高い殺傷能力があるが、そもそもウイルスは人間の細胞内に取り込まれて活動する性質があるので、ウイルスを殺せば細胞自体も大きなダメージを負うことになる。
当時は、エボラ出血熱の世界的な感染拡大が危惧されたために、いわば最後の手段として極秘に開発され完成した。しかし、予測された感染の広がりがなく、さらに数年後にはエボラ出血熱のワクチンが開発されたために、エダトロンCは、その存在自体が長年封印されて、今日に至っていた。
そのエダトロンCを、今回のパンデミックを契機に、日米の研究チームが改めて治験を行い、画期的な治療薬として大量に製品化している。
「エダトロンを使えば、確かに一時的には劇的に治ったように見えます。しかし多くの患者は副作用のために、早ければ数日、遅くとも半年以内には、多臓器不全で死亡します」
「よくご存知ですね」
「アメリカでエダトロンCの治験に携わった友人が言ったのです。あれはHell's Drugだと」
小西の口元に薄笑いが浮かんだ。
「美馬先生、私は最初からあなたの研究を最大限に評価して支援してきた。だからこそ、最新医療センターの中に、海外の研究チームを招聘してラボを作り、小国の国家予算並みの多額の予算をつけた。そしてナノマシンによる人工免疫の治療法はほぼ完成したといっていい。平和な時代だったら、これはノーベル賞に値するような成果ですよ。ただ人口免疫は莫大な開発費を注ぎ込んだ治療ですから、いくらなんでも誰にでも適用するというわけにはいきません。それで、比較的安価で大きな効果の見込まれるエダトロンの使用を決めたのです。だから先生はエダストロンのことは忘れて、どうかご自分の研究に専念してください」
美馬は応接用の椅子に腰を下ろした。
「次官の厚意には感謝しています。しかし、すでに医療センターの周りには、副作用に苦しむ患者たちが、救いを求めて大挙して押しかけている。あなたが言われる効果とは、患者の救済という意味ではない。短期間で感染を止められるという効果でしょう。しかしこんなことは許されない。どうしても配布を続けられるなら、私はエダトロンについてのすべての事実を公表します」
「美馬先生、状況はもはや、一人の患者の命云々というレベルをとっくに超えているのですよ。世界中で、毎日何十万単位で人が死んでいる。戦時下と同じです。エダトロンCを使っても、致死率は60%程度。助かる人間もいます。それにこの決定は、日本政府だけが独自に決めたわけではない。超国家的な決断です。ですから、それを妨害なさるというのなら、残念ですが……」
そういうと小西は、卓上の電話機のボタンを押した。
「美馬先生、あなたをラボへお返しすることはできません。当分の間、この省内にとどまっていただきます」




