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防音が完全なはずのクリーンルームの中に、かすかに地鳴りのような音が響いてくる。
「諒一、何かあったの?」
和希が聞いてきた。
「僕にも外の様子はわからないけど。先週から例の薬が配布されてるから、ここにもたくさんの患者が集まってるんじゃないのかな」
「そう」
「でも美馬先生は、そのことで何だか悩んでおられるようだけどね」
「どうして」
「僕にも理由はわからない。先生は何も話してくれないから」
「けれど、新薬の配布は、現在可能な最適の選択だわ」
和希は、こともなげにそう言い切る。彼女に、思考のぶれや迷いはない。このラボでは、僕の助手という位置づけだが、彼女の存在なしには、僕たちの研究は成り立たない。
―― 2050年 春
それは子どもたちから始まった。はしか、ジフテリア、百日咳、あるいはポリオといった、20世紀の終わりには姿を消したと思われていた感染症が、世界的に流行し始めた。医師たちには、百年近く昔に流行ったこれらの病気についての臨床経験がなく、正確な病名を特定するのに手間取った。
それからひと月も経たないうちに、今度は結核や、天然痘、ペスト、コレラといった、これも前世紀に消滅したはずの感染症が、地域や年代を問わずに広がり始めた。さらに従来から存在していた各種のインフルエンザや、鳥インフルエンザ由来の新型ウイルス、さらには一度は克服できたかに見えたエボラ出血熱までが息を吹き返して、短期間のうちに手の打ち様がなくなり、世界的な規模でパンデミックの恐怖が人類を襲った。
世界中のあらゆる場所で、まるで戦闘地域のように屍の山ができ、処理が追いつかずに腐乱して、そこからさらに疫病が広がるという悪循環の中、人々はパニックに陥り、社会は混乱を極めた。けれども、現代はさまざまな分野で機械的な作業を行うロボットが稼動しているので、社会生活が完全に破綻するという状況には至らなかった。会社や、学校や、公共機関など、あらゆる場所で、以前と変わらず滑らかに動き回っているロボットの傍らで、たくさんの人間たちが、もがき苦しみ、息絶えていった。
そして半年を過ぎた今、世の中は最低限の秩序を取り戻しているように見える。しかし、各国の罹患者の数や死者の数は、相変わらず毎日万単位で増えていて、何とか対応できる治療機関に患者たちが押し寄せるという状況は、未だに何一つ改善されてはいなかった。
「諒一」
寡黙な和希が、珍しくまた話しかけてきた。
「何だい」
「私たちはどうして日本のチームに所属しないのかしら」
パンデミックが発生するとすぐに、国の最新医療センター内に、日本だけでなく、アメリカやヨーロッパの研究チームのラボが作られた。医療従事者や研究者の感染を防ぐために、センターの中に、彼らが生活するスペースやスーパーマーケットやフードコートが整備され、他に必要なものがあればネットで購入する。センターに出入りする人も物も、厳重にチェックされ消毒されて、どんな細菌もウイルスも、完全にシャットアウトする体制が取られた。本来隔離されるのは患者のはずだが、ここでは医師や研究者が外界から隔離されていた。
僕たちの上司、美馬憲介教授は免疫学のパイオニアだった。美馬は、さまざまな感染症が流行し始めた初期から、罹患した患者の免疫系を分析し、一つの仮説を打ち出した。それは、人間の免疫システムが働かなくなっているというものだ。僕たちは、その仮説を証明するために、この最新設備の整ったラボで、夜を日に継ぐ詳細な解析を重ね、ついに美馬は、体内に病原体が侵入した場合の免疫応答と呼ばれる部分が機能不全を起こしていることを突き止めた。教授の言葉を借りれば「感染症に無防備になった人体は、セキュリティー・システムが働かなくなったパソコンと同じ」ということになる。
そして美馬はナノマシンを用いた人工免疫の治療に着手した。しかし、この提案は、日本の研究者や医師たちには受け入れられなかった。だが、がん治療の分野で、すでにナノマシンを実用化していたドイツやフランスの研究者が賛同してくれて、今僕たちは、このセンターの中のEU合同チームのラボにいる。
和希の質問に対して、彼女が納得できる説明をするのは難しい。
「それは……すごくデリケートな問題なんだ」
日本の医学界における基礎研究と臨床分野との勢力関係。研究者たちの学閥とか派閥の問題。さらに製薬会社が絡む様々な利権。しかし人類存亡の危機ともいえるこの状況で、そうした個人のプライドや欲望が優先されるというような理屈は、和希には分からない。
「けれど僕たちは、こうして研究を続けることができているし、あと少しでナノマシンによる人口免疫が実用化されれば、僕たちが確立した治療法がポピュラーなものになるよ」
返事はなかった。僕の話は、あくまでも希望的な観測で、和希は仮定の話をするのが嫌いなのだ。