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2話

史実設計の駆逐艦は子の日が最後で、初霜は史実初霜と白露を2で割った船体と試製65口径10㎝多目的速射砲を3基(連装2、単装1で)搭載している。

(朝潮/陽炎/夕雲型は史実の魚雷装備と船体に10㎝砲を搭載。秋月は史実通り)


因みに試製10㎝多目的砲は1934年に正式採用され、人力装填のA型の発射速度は10.5発/分、B型12.8発だったが、機械式装填のC型は18発と向上し、対ナチス戦で用いられたD型は米国の技術貸与もあり24発となっている。


なお戦後本砲は1982年に伊式12.7㎝速射砲の導入まで帝国海軍の主力艦載砲として運用され、その安定した性能ゆえに導入国も多かった。

1941年11月末日

次世代戦艦である大和の就役から4ヶ月。


対英戦に集中したいドイツと、満州の権益を望んでいたソ連は利害が一致し、中立条約を締結し、その翌週にはソ連軍は突如として史実と同じく満州へと侵攻を開始。だが在満八洲軍は非常に激しく応戦し、満州占領作戦は予想に通り進まなかった。

そう、それには在満州八洲皇国陸軍司令である北川隆大佐の奇策があり、彼はソ連側に対して予想し得ない大量出血をもたらす打撃を与え、自らは戦死したものの、満州共和国政府をソ連に占領される可能性の高い現在の新京市からいざと言う際に脱出しやすい海軍が駐屯する港湾都市である大連市へ遷都させる時間を稼いだのである。


同年12月3日

大湊沖には大連を拠点としているドイツ海軍を警戒すべく東シナ海に展開している大和や41㎝砲搭載(長門/阿蘇型)型高速戦艦や36㎝砲搭載(金剛型戦艦)型高速戦艦、それに速度こそ出ないものの火力は金剛型と同格のモノを持つ航空戦艦へに改修中の伊勢型(だが、かつては金剛以上の火力を持っていた)、更には公試中の大和と同型の戦艦武蔵や信濃の代わりに連合艦隊旗艦のピンチヒッターとして選ばれた特設電波傍受艦鳳翔が護衛の特設防空艦に改修された軽巡夕張とその随伴艦である駆逐艦初春、子の日と共に停泊していた。


鳳翔艦内某所

「長官。ソ連軍は現在も破竹の勢いで進撃中ですが、陸軍では反撃プランが整いつつあるそうですが、我々(連合艦隊)は如何しましょうか?」

ある幹部がそう言うと山部武夫内閣の海軍長官となった山本五十六に代わって第1戦隊司令から連合艦隊の司令に転任したばかりの南雲忠一中将は「ふむ。まずは日本海に空母機動部隊と東シナ海に展開させて独ソ両海軍の動きを見る事としよう」と呟くとすぐに東シナ海へ赤城座乗の小沢治三郎率いる第一航空戦隊を、日本海へは飛龍座乗の山口多聞中将率いる第二航空戦隊と護衛に高角砲を増備した重巡摩耶及び水上戦闘機も搭載し始めた航空巡筑摩に、軽巡阿武隈及び第六駆逐隊と駆逐艦吹雪を向かわせる様に命じたのである。


一方、朝鮮半島東部にある羅津(ナジン)市ではソ連の満州侵攻を受けて第四航空戦隊が軍令部の命令で既に予定されている旗艦で、航空戦艦に改修中の日向に代わって旗艦となった水上機母艦日進とその同型艦室戸及び護衛の軽巡由良と朝潮型駆逐艦5隻と共に展開していた。

そしてその搭載部隊である第621航空隊は現行主力である零戦の水上戦闘機版である二式水戦と爆弾搭載力を強化した零式水偵21型に加え、現在も試作機で試験が進行している強風水上戦闘機や瑞雲水上爆撃機、そして晴嵐水上攻撃機の先行低率生産機を配備し、ソ連に対する航空奇襲攻撃を念頭に置いて訓練を行い、連合艦隊から下るであろう作戦開始命令(ゴーサイン)を今か今かと待ち構えていたのである。


他にも羅津に最新鋭の潜水艦である伊19以下潜水空母数隻を配備し、ソ連の日本海沿岸都市へ幾度も偵察を実施しており、その情報は山口艦隊にも伝わっており、ソ連太平洋艦隊の戦艦は準弩級艦のマラート級のみと判明しており、それとの対決に備え、日本海海戦後に設立された佐渡島要塞附属軍港に重巡高雄と那智、そして並外れた航空偵察能力を誇る利根に加え、防空巡洋艦と化した軽巡五十鈴の指揮下には昨今の防空駆逐艦の先駆けである初霜とその小改良型である白露型駆逐艦時雨、そして艦隊駆逐艦の集大成である朝潮型の霞、陽炎型駆逐艦の雪風、浜風が展開し、ソ連太平洋艦隊の動きを山口艦隊と共に押さえ込もうと画策していた。

佐渡島要塞

八露戦争後、帝国陸海軍の意向で建設された佐渡島北部の軍事基地の総称。

当初は野砲と水雷艇用の小規模な軍港のみだったが1913年に陸軍および海軍に航空機が導入されると滑走路や水上機用のスロープが設けられ、1915年には駆逐艦及び輸送船が入港可能な規模に軍港が拡張され、1921年には更に次世代駆逐艦や軽巡洋艦が入港可能なサイズとなり、陸軍側も野砲を海軍から導入した14㎝砲へ変更し、1925年にはワシントン軍縮条約の規制に入らなかった事もあり、更なる増備がなされ、1932年には電波探知機が設置され、1940の戦艦日向第5砲塔火災事故後、航空戦艦となった日向や伊勢から改良がなされた上で36㎝砲が移設された。

1995年まで稼働していた。現在は老朽化があったとは言え博物館になり、その役目を山形市郊外の皇国軍東北方面指揮所が担っていると言う。

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