プロローグ
航空母艦先生とのコラボ計画、ついに始動!!
シャムネコさんの指摘を考えたら少し史実と変わった面も出せねばならない気がしますので追加しているところを増やします。
ある並行世界の日本に相当する国である大八洲皇国が存在している。
この大八洲皇国は史実日本と異なり1828年に幕府が崩壊し、江戸は新都と名をかえ、時代は新明時代となり、政府が立てられたのである。そして1831年に諸外国からの技術導入をはじめ、1850年代にはマーシャル諸島を植民地とし、更に慶応の終わりが迎えた1867年から木造船建造技術を高め、1872年までに鋼鉄船の建造に英国及び仏国から技術の用いて移行。
それ以後は1905年に日露戦争発生までは史実と同じだが、技術面に関しては例えばドレッドノート登場期の河内型戦艦は30㎝連装砲を4基押し込んだ設計にし、無理のない、いや史実のドレッドノートよりも金剛をやや縮小したような戦艦として生まれ、これの装甲を薄くし、巡洋戦艦として改良した石鎚、大峰も就役。
4隻そろってジュトランド沖海戦に参加するも、ドイツ軍戦艦の放った砲弾の前に大峰、河内、石鎚を一斉に喪失すると言う参事が発生した。だが、唯一生き残った摂津の砲弾がドイツ海軍の旗艦、デアフリンガーの第1砲塔の砲身を破壊し、装填中の砲弾に誘爆、あわや轟沈まで追い詰める活躍を見せてワシントン海軍条約で八洲は優位に進めたのである。
(新都は1868年慶応最後の年で開国50年から明治元年に移る際に東京へ改名)
開国から100年たった1928年。
1932年に控えた大阪オリンピックに備えて、東京から大阪へ弾丸列車や高速道路の建設がわく中、海軍省では最新鋭の空母赤城艦長である山本五十六大佐が海軍大学校へ提出した"将来的な軍艦と航空機"と言う論文が話題となっていた。
その内容を簡潔にまとめると現代の軍用機運用に通じる内容であり、非常に先進的であった。
山本論文は
・大型で汎用性に欠ける戦艦及び巡洋艦は防空用途以外では廃れ、駆逐艦の汎用性と軽巡並の大きさ及び防御力を持つ大型駆逐艦が主力となる。
・高角砲に代わり防空用ロケットが主力となり、それに伴い艦載砲は廃れる可能性がある。
・艦載砲に代わり次世代の水雷戦隊の主力打撃力となるのはロケット水雷である。
・電波探知機は現在の航空管制以外に、水上障害物や敵航空機や艦艇の捜索にも応用出来る可能性を秘めている。
・航空機に関しては爆撃機もしくは攻撃機が統合され、場合によっては防空、爆撃、雷撃、偵察の多任務機が登場する。
・最後に水上機は哨戒任務に欠かせない存在となり、それらの母艦がない国はやがては潜水艦に滅ぼされるであろうから、水上航空機母艦の整備は急務である。
との内容であった。
閑話休題。
この論文は砲術及び水雷科から非常に強い反感を買い、機種の統合化と言う事に関しては航空科も反発したが、一方で海軍航空隊上層部や山本の副官である山口多聞中佐とその部下たちはそれを支持したのである。
件の山本論文から10年近くの月日が立った1937年3月某日
桜が咲き、春の陽気に包まれる館山の沖合いを高い艦舷と長い飛行甲板を持つ大型空母とその 横に4基の砲塔を持つ重厚な戦艦が航行していた。
戦艦の名は長門、空母の名は加賀と言い、両者共に大八洲皇国海軍の八八艦隊計画艦だ。特に加賀は史実日本と同じくワシントン軍縮条約で廃棄される予定だったが、関東大震災で巡戦もとい戦艦から空母へ改修中だった天城が船台から落下して大破し、その天城の代わりに空母となった艦である。
因みに加賀は1937年竣工の蒼龍で初めて搭載された蒸気射出機の試験を行い、現在もその射出出力向上のための研究が行われている実験艦でもある。
閑話休題。その加賀の甲板にオレンジ色に塗られたある複葉固定脚機が着艦すべくゆっくりと近づく。
機体の名は零式二複戦と言う零式水上観測機"零観"を魔改造した複葉複座の近距離防衛を担当の艦上戦闘機で、二複は複座複葉の省略化したものである。
しばらくするとその機体から降ろされたフックが制動策を掴みとり、甲板へ降り立つ。
「大尉、ごくろうさまです!」
整備主任の村島剛准尉がそう言うとさっきの機体の操縦室にいる試験操縦士である三田勉大尉が「おぅ、ありがとうな。これからも整備を頼むぞ」と言うと村島は「はいっ!」と続いた。
しばらくするとその二複戦の二枚だった主翼が主脚の数㌢先のところを支点に四枚に畳まれ、村島の指示の元で艦前部の艦載機用昇降機へと運ばれていき、昇降機の上に到着すると機体は艦内へと収容されていく。
それを甲板で見学していた三田は「すごいな」と呟きつつも加賀の艦内へと入ったのである。
一方、それを戦艦長門の戦闘艦橋から見ていた山本論文の執筆者で、現連合艦隊司令長官の山本五十六中将はそれを満足気に眺めていた。
「これで海軍の艦隊防空は安泰だな………」
山本はそう呟くといつものように煙草を吹かせたのである。
それはともかく翌年にはこの零式二複戦は戦闘観測機と言う新しい機種として海軍の制式採用されたのである。
故に大八洲帝国海軍の悩みであった年々大型化し続ける艦載機を運用出来ない小型空母でも運用可能な高性能戦闘機の開発に成功したのであった。