どうやら現状はカオスのようです
「なんだか、吐き気を催すような夢を見た気がします」
デパートから出た私は、隣を歩く友香さんに言いました。空はもう暗くなっていて、そろそろ帰らなければならない時間です。といっても、私は一人暮らしなので関係ありませんが。
「奇遇だね。あたしもだよ。でも、なんだろう、何も思い出せないというか……立ち読みをしてたはずなのに、何を読んでたのか解らないというか……」
それは私も同じでした。デパートの五階にある本屋で行き立ち読みをしていたら、いつの間にか夜になっていました。何か本を買う予定だったはずなのに、結局何も買わずに本屋を出たのは良いのですが……いったいなんのためにここへ来たのでしたっけ?
「あんまり案内できなかったね」
「大丈夫ですよ。良い本屋さんを紹介してくださっただけでも充分過ぎます」
社交辞令ではなく、本当にそう思っていました。なにせ一人暮らしですから、暇は持て余すことでしょう。その暇の付き添いとなる心強い味方はやはり本です。
「家まで送ってこうか?」
「そんな迷惑はかけられませんよ。ただ……この辺りはまだよく解らないので、駅前まで案内していただけると助かります」
「お安い御用だよ」
こうして私と友香さんは帰路に着いたのですが……本当に、大事な何かを忘れているような気がしてならないのはどうしてでしょうか。あまり関係は無いのですが、この街は暗くなっても学生さん達がたくさん居て、私や友香さんと同じように、制服を着たまま遊んでいる人を結構見かけました。
私はアパートに暮らしています。学生の一人暮らしなのですから、簡素で当然です。しかし、仕送り等もあるため生活には困りません。祖父に至っては、テレビと冷蔵庫なんかを送ってきてくれる程です。一人暮らしを始めようとしていた時、そういった便利道具は仕送りを節制して使い、その中から出す、という算段を付けていたため助かりました。
私はそのありがたみを身に感じながら、まずはテレビの前で合掌。心の中で祖父にありがとうを告げ、電源をつけます。最初に目に入ったのはニュースでした。別に、これといって見たいものがあったわけでもないのでそのチャンネルに合わせたまま、台所へ向かいます。
冷蔵庫を開けて中身を確認。昨日の内に買っておいた材料で、今日は野菜炒めを作ろうと思います。お米を磨いで炊飯器に入れてスイッチをオンに。すぐに野菜炒めを作ってしまうと、ご飯が炊ける頃には冷めてしまいます。なので調理を始めるより先に、シャワーを浴びる事にしました。
本当ならばお湯に浸かりたいところですが、ユニットバスなのでそうもいきません。後処理が面倒ですし。どうしても我慢出来なくなったら、先日見つけた近所の銭湯へ行くことにします。
脱衣所で制服を脱いだ時、ふと、腰に鈍い痛みが走りました。触れてみると、どうやら痣が出来ているようです。
「どこかにぶつけたのでしょうか……?」
ぶつけた記憶は無いのですが、実際に痣が出来ているのですからぶつけたのでしょう。まさか若年性アルツハイマーでは? などという不安に駆られながらもシャワーを浴び始めると、どこからともなく視線のようなものを感じました。
「…………まさか、ね……」
このユニットバスには小さなスモークガラスの窓がひとつあるのですが、今は閉まっているため、誰かが覗き込んでいるなんてこと、ありえません。それでも視線のようなものは確かに感じます。
しかしよくよく考えると、私に視線を感じ取るといった第六感的な力はありませんでした。つまり視線など感じるはずもないわけで、私の勘違いということでしょう。被害妄想、とも言います。
いつもより手早く体を洗って髪を洗って、体が温まるより先にバスを出ました。すぐに体も拭いたので、風邪の心配は無いでしょう。ふと、テレビを付けたままお風呂に入ってしまっていたことに気付きました。もしかしたらここから漏れる声を、人の気配と思ってしまっていたのかもしれません。
「もう……早とちりなんて……」
怖がって早く済ませてしまったお風呂時間を返して欲しいとさえ思います。
濡れた髪をタオルではたはたと叩きながら、座布団に座ってテレビを見ていました。
すると、
「あれ? ここ……」
私がさっき居た場所、つまり駅前が画面に映されているではありませんか。さらに画面の隅に映された男性の顔写真にも見覚えがありました。
「あの時の駅員さん……?」
私の年齢を間違えやがった駅員さんです。間違いありません。気になってテレビに集中してみると、キャスターさんがこんなことを言っていました。
『先週起きたロリコン騒動なるものの主犯者であろうこの男は、目撃証言、物的証拠を揃えた今でも容疑を否定しており、精神状態を診た医師も「彼は嘘を吐いていない。記憶が失われているのか、なんらかの催眠状態にあったのではないか」と彼を弁護するような意思を見せております』
「ロリ……コン……?」
今日ばかし聞いたばかりの言葉に、思わず驚きました。
ロリコン騒動? 世間ではロリコンという言葉を、そういうふうに使うのでしょうか。友香さんはロリコンという言葉そのものを悪しき物のように言っていた気がするのですが……。
『それでは、先週起きたロリコン騒動の映像を流したいと思います』
「こ、これは……!」
私はそれを見て、息を呑みました。
駅前で人が踊っている映像です。踊っている、と言っても、現代的な踊りではありません、文化芸能に似た、どこか神々しい踊りです。そして、その踊りを駅前で披露しているのは――十人程の男でした。
中心に駅員さんが居ます。駅員さんが「Go! hoo!」と唱えると、他のメンバーが「ロオオオオオオリ!」と応えます。何かの宗教でしょうか。
そのまま踊り狂うかと思いきやいきなり冷静になった駅員さんが、他のメンバーに何かを言っています。きっと何かの指示を出したのでしょう。頷いた男達四方八方へとばらばらに走り去っていきました。そして、中心となっていた駅員さんはそれを見届けると、充血した目で辺りを見回し、そして、両手を広げて叫びます。『今、会いにいき○○!』と。寸前のところでモザイク音が入ったのは、某テレビ局への配慮でしょう。
映像はそこで途絶え、再びニュースキャスターさんが映りました。
『このような事件が近年増加傾向にあるため、皆さんもお気をつけ下さい。今の映像を見て、「自分もハッスルしたいぜひゃっほい」だなどとは決して思わないようお願いします。かくいう私も堪えています。それでは』
そんな感じの言葉で締めくくられて、その番組は終わりました。
「お父さん……お母さん」
無駄にテンションの高いコマーシャルを意味の無く眺めながら、私は呟きます。
「……この街、とっても、怖いです」
安全を確保するために、なんらかの対策を練ったほうが良さそうだと思いました。
翌日。一時間目の授業が終わり次の教科の準備をしていると、友香さんが私の肩に手を乗せて来ました。
「いやー、これからもずっと、先生の自己紹介的なものだけで終わってくれるとすごく助かるよねー」
「それでは学校に来る意味が無いのでは?」
「うは、真面目だね、小町ちゃんは」
普通だと思いますが、確かに少々、ジョークの足りない返答だったかもしれません。しかし、華麗に冗談を言えるだけの余裕が、今の私にはありませんでした。
私は「そういえば」と思い立ち、筆箱から一本のペンを取り出します。
「これ、どなたのか解りますか?」
黒くて太い油性ペンなのですが、見た目がごつごつしているので男性のものだとは思うのです。しかし残念ながら、男性という情報だけでは私にとって無と同義でした。
友香さんは首を傾げて答えます。
「小町ちゃんが持ってたなら、小町ちゃんのペンじゃないの?」
「私はこういう趣味ではないので」
どこか機械っぽさのにじみ出るデザインでかっこいいとは思うのですが、私はどちらかと言えばスマートなもののほうが好みです。店頭で見かけても、こういった趣向のものを買うことは無いでしょう。
「じゃあ貰っちゃえば?」
「そういうわけにはいかないと思います」
見た限り決して安いものではないでしょうし、油性ペンを無くして困っている人も居るはずです。それを思うと胸が痛みました。
「気付いたら私のポケットに入っていたのですが……悪戯でしょうか」
「シャイな男子が可愛い小町ちゃんにこっそりプレゼントしたんだよ。貰っちゃいなよ」
「プレゼントだとしたらせめてそれらしきメッセージが欲しいです」
でないと不安になってしまいますし。というか友香さんはどうして、先程からこのペンを私のものにしようとしているのでしょうか。
どうしたものでしょう、と考えていると、廊下が少しだけ賑わっている事に気付きました。視線を向けると、女生徒達が集まっているようです。そして、昨日の放課後に聞いたものと同じ歓声を上げていました。
「えっと、なんでしたっけ。黒槻蓮さんでしょうか」
「当人の姿は見えないけど、多分そうだよ」
あの黄色い声のする場所に彼あり、と考えたほうが良さそうです。いったいどれほど魅力的になれば、あれだけの視線を集めることが出来るのでしょうか。公認のアイドルというわけでもないでしょうし、きっと相当なイケ面なのだと思います。
私も悟りを開いているわけではありません。当然かっこいい男性には多少なりとも興味があります。私は、どこかの隙間から黒槻さんの姿が見えないかと、目をこらしました。
「なーに、気になるの?」
隣からした、悪戯っぽさを内包した友香さんの声。
「まぁ、一応……」
人だかりから目を離すことなく、私は答えます。すると友香さんはあろうことか、高々と右手を挙げて叫びました。
「おーい、蓮くーん!」
ぴた、と、黄色い歓声と人の流れが止まります。そして辺りを窺う女子生徒達の姿はまるで、やってはいけないことをした異教徒を探し捉えようとしているかのように鋭い視線を泳がせます。
友香さんが掲げた右手に、その視線が集まりました。私はそこはかとない恐怖に見舞われて目を逸らしてしまったのですが、時既に遅し。
「なんだ、誰かと思えば真鍋か」
低い声がしました。つまらなそうな、ではなく、落ち着いた雰囲気、という意味でテンションの低い喋り方でした。
見ると、なるほど確かに、テレビの向こうに居たほうが自然だと思う程のイケ面が教室に入ってきていました。その周りに集っている女性達は、黒槻さんと対話している友香さんへ嫉妬の念を送っているのでしょう、ほの暗さの漂う視線を向けています。
「いやー、久々に話してみたくなったんだけど、元気?」
何事もないかのように聞く友香さん。そういえば出身の中学校が同じだとは言っていましたが、彼女は周りから押し寄せている敵意に気付いていないのでしょうか。
「元気ではないが健康ではある」
素っ気なく答えておきながら、ちょっとした冗談も混じっているように思える黒槻さんの回答。友香さんはにゃははーと笑いながら頭を掻いて、
「早くも学園のアイドルみたいだね。おめっとさん」
と続けました。
黒槻さんは友香さんを真似るようにして頭を掻いて「やめてくれ」と嘆息します。
「どうせ一過性のものだろう。すぐに鎮まる」
それを騒ぎ立てている当人達の前で言ってしまうのは、いささか淡白すぎませんか? とは思ったものの、それよりも気になったことがあったため自重しました。
「? どうした。俺の顔に何かついているか?」
私がじーっと見すぎたせいでしょう、黒槻さんは訝しむような目を向けてきました。
「いえ、そうではなくて」
どうしてでしょうか、初対面のはずなのに、黒槻さんをどこかで見たことがあるような気がしたのです。
「どこかでお会いしたこと、ありますか?」
気になって仕方なかったためストレートに聞いてみると、途端に黒槻さんの表情が険しくなりました。
「……お前、まさか……」
不思議な反応ではあるものの、彼の身にも覚えがあったようです。もしや初対面では無かったということでしょうか。
不自然な沈黙が置かれました。お会いしたことがあるのなら、私はなかなかに失礼なことをしたように思うのです。面識のある人にする質問ではありませんでした。
謝るべきかな、という考えもありましたが、黒槻さんの睨みが強烈過ぎて言葉が出てきてくれません。つまり怖いのです。しかし、その不穏とも言える空気は黒槻さんの取り巻きが割って入ってきたことで終わりました。
「ねぇ黒槻様」
……様?
「早く行かなければ、次の授業に遅れてしまいますわ」
ますわ?
献上語にしては丁寧すぎませんか? 相手は同級生ですよ?
黒槻さんは「またか」とでも言いたげに浅い息を吐いきつつも、相槌を打ちました。
出入り口に向かう途中、黒槻さんは私を一瞥。何かを問いただす視線にも思えましたし、吟味されたような気がしなくもないです。……こいつ、本当に高校生なのか、みたいな視線にも感じたのですが、それはきっと気のせいでしょう。
教室の人口密度が一気に減り、静かになったところで私は大切な事を思い出しました。
「そういえば、黒槻蓮には関わるな、というような警告を受けていたような気がするのですが……」
「あんな悪戯をまだ気にしてんの? やめときなやめときな。細かい事を気にしてたら、この街じゃ生きていけないわ」
言われて納得した私は、調度授業開始のチャイムも鳴ったところだったのもあり、昨日靴箱に入っていたメモ(おそらく今は自宅のゴミ箱の中です)の事は忘れる事にしました。




