第二話 始動(2)
イアルンヴィズの森の奥深くに、7人の王子と1人の王女が住む、小さな家がある。
その『森の家』は、森の中だというのに門があり、両脇の花壇には、いつも季節の花が綺麗に咲いていた。
静かに暮らす8人の若者たちの平穏を揺るがした、聖日祭の翌日の事件からは、もう1週間が経とうとしていた。
森はいつもの表情を取り戻し、昼と夜とを繰り返しながら、ゆっくりと春へと向かっている。
目覚めの季節の訪れに、勢いを増す新緑の青葉の狭間から、種類の違う野鳥のさえずりが重なり、協奏曲を奏でる――そんな穏やかな午後。
柔らかな日差しに包まれた『森の家』の庭先を、1頭の美しい栗毛馬が、ゆったりとした足取りで歩いていた。
「どうっ」
家の周りを周回し、ちょうど正面に戻ってきた時、フィオナは手綱を引いて馬を止めた。
「いい子ね、ジェード」
「……大分、様になってきたな」
首元を撫でて馬――ジェードをねぎらうと、門の前で待っていたジークが褒めてくれる。
「まだジェード以外には、乗れる気がしないけど」
謙遜でもなんでもなく答え、フィオナはジェードを降りた。
そのジェードも、主であるジークの命だから、大人しくフィオナを背中に乗せてくれているだけ、という気もする。
だが、1人で馬の乗り降りが出来るようになっただけでも、大きな進歩だ。
「……技術で馬を御すこともできるが、大事なのは心を通わせることだ」
「心……か。ジークとジェードは、以心伝心だものね」
主人によく似た大人しい馬は、聡明な碧の眼でフィオナを見下ろしていた。その頬を撫でながら、フィオナはここ数日、乗馬練習に付き合ってくれている青年に謝った。
「今日は、長い時間付き合ってもらってごめんなさい」
「……別に構わない」
抑揚に乏しい声は、慣れない人間なら無愛想に思うかもしれないが、もうひと月近く一緒に住んでいるフィオナは、それが彼の普通であることを理解していた。
「……私、ジークの邪魔してるかしら?」
ふとよぎった心配事を口にすると、目で問いかけられた。
その人形のように整った顔が、表情らしい表情を浮かべることは滅多にないが、慣れれば多少は、『間』を読み取ることは出来るようになる。
「ジーク、よくジェードとどこかへ行くんでしょう?」
リッドたちの話では、数日家を空けることもあるらしい。
「私がこうやって練習に付き合わせていると、遠くに行きたいのに行けないんじゃないかと思って」
「……至急の用があるわけじゃない。気にするな」
「でも……あっ! いいこと思いついたわ!」
それは本当に思いつきだったが、素晴らしいアイディアなような気がして、フィオナは手を打った。
「いつか、ジークの旅に私も連れて行ってくれない?」
「……何?」
予想外だったのか、ジークがわずかに目を見開く。
「そんなに長いものでなくていいの。長くてもいいけど。ジークはジェードに乗って、世界を見聞して回ってるんでしょう? なら、私も連れて行ってもらったら、ジークは行きたいところに行けるし、私は世界を勉強できる」
世界を見て回るというのは、フィオナの目標だ。いつかは1人でどこにでも行けるくらい逞しくなりたいと思っているが、まずは旅慣れたジークの側で学ばせてもらえるなら心強い。
「……それは出来ない」
「……やっぱり、私がいるとお邪魔よね」
即断され、フィオナは小さく肩を落とした。
旅慣れていない女を連れて行くとなると、一人旅よりも何かと気を遣うことは増えるのだろう。勢いで迷惑な提案をしてしまったと、フィオナは自省した。
「……違う。お前のその提案自体は有益なものだ。ただ、俺にはそれを受け入れる資格がないだけだ。ヴァンにでも頼むといい。勤勉が目的ならば、彼も協力してくれるだろう」
この森に放し飼いされているもう1頭の馬の所有者の名前を、ジークは挙げた。今、彼は愛馬と共に、近隣の町オルフェンに赴いているはずだ。
「でも、ヴァンはウィルのことを心配して、あまり遠出はしないようにしているわ」
一番古くからこの『森の家』に住んでいる兄弟は、足の悪い兄を、弟が助けながら生活していた。過保護気味な弟は、自立心の強い兄から目を離すことを嫌う節がある。
足の速いクンツァイトを所有しているヴァンは、なにかにつけて町に出ることが多いが、遅くなっても、その日のうちには帰ってくるようにしているのは、兄を心配してのものだ。
家には常に誰かいるし、戦闘に長けたジークもいるのだから、そこまで神経質にならなくてもいいような気がするが、今更、ウィルに過保護じゃないヴァンというのも、違和感がある。
「そうか……そうだな」
静かに頷いたジークを、フィオナはじっと見上げた。
「ねぇジーク、資格って……」
受け入れる資格がないと、彼は言った。
資格とは、どういう意味だろう――じわりと胸の内に広がった不安に、問い質すかを迷う。
「……この森を出たら、俺たちは知らない者同士だ」
与えられた言葉の意味を掴みあぐね、フィオナは問い返した。
「どういうこと……?」
「……お前が知っている『ジーク』は、本来の俺ではない」
向かい合い、2人の距離を測るように伸ばされた右手が、フィオナの頬に触れる直前で止まった。
決して触れることのない指先の温度を感じながら、不思議な輝きがある翡翠の瞳を見つめ返す。
「本当の俺を知れば、お前はこの距離すらも厭うだろう」
手を伸ばせば触れられる距離。
当たり前になっていたこの距離を、今更否定されることになるなど思いもよらなかった。
「そんなこと……」
そんなこと、ない――そう言おうとして、口の中が渇いていたことに気付く。
フィオナは、『ジーク』以外の彼を知らない。
彼らがどこの国から、なぜこの森へ辿りついたのか、知る機会は今までなかった……いや、機会はいくらでもあったのだろうが、自分から聞いてはいけないことのような気がして、踏み込むことを躊躇していた。
――本当は、気付きかけているくせに。
その時、隣でジェードがぶるりと鼻を鳴らした。時が止まったような見つめ合いが終わる。
「ジェード、どうしたの?」
「……帰ってきた」
普段、置物のように微動だにしない馬だけにフィオナが声をかけると、ジークが視線を門の外に転じた。
「ただいま帰りましたヨ……と」
その先の繁みが揺れ、やがてジークと同じ顔をした青年――双子の弟のユーリが姿を現した。兄と同じ色の髪を、こちらは後ろで1つに束ねている。
「ユ、ユーリ!? その子、どうしたの?」
フィオナが驚いたのは、ユーリが見たことのない馬に乗っていたからだ。
今朝早く、この双子にしては珍しく2人で出掛けたのだが、昼前に戻ってきたのは兄のジークだけだった。
弟の所在を聞くと、『置いてきた』の一言だけだったので、馬もない状態で、どうやって帰ってくるつもりだろう、と疑問に思っていたのだが、どうやら新しい馬を調達してきたらしい。
「ユーリ、どこかに行く予定なの?」
「……まぁ、そのうちネ」
含みを持たせて答え、ユーリが馬を降りる。無造作にまとめられた灰色のしっぽ髪が、ひらりと揺れた。
「性格によっては馴らすのに時間がかかるから、とりあえず準備だけはしとこうかと思って。ボクの馬は、ここに来る時に潰してしまったからね。……このあたりじゃ、この程度の馬しか手に入らないけど」
「……十分だ。お前が使い方さえ誤らなければ」
「はいはい」
兄の言葉を受け流し、ユーリは手綱を引いて門をくぐった。
別に庭が塀で囲われているわけではないので、どこからでも入れるのだが、なんとなく、皆この門をくぐることが習慣になっている。
新しい主人と並んで歩み寄るその生き物を、フィオナは観察した。
月毛の、ごく標準的な雌馬だ。全体的に白っぽいが、所々クリーム色も混じっている。まだらといえばそれまでだが、尻尾の毛色が若干濃くなっているのが、妙に可愛らしい。
漆黒のつぶらな瞳が、珍しい物でも見るように、じっとフィオナを見つめ返してくる。
シャープなジェードの顔立ちに比べると、どこか垢抜けない顔をしていて、それが余計に愛嬌があるように映り、フィオナはすぐにこの馬を好きになった。
「ねぇユーリ、この子、名前は何て言うの?」
「まだ決めてない。あァ、お姫サマが決めていいヨ」
「いいの? ユーリの馬でしょう?」
「別にボクは、何でも」
そっけなく言って頭をかく所有者は、本当にどうでもよさそうだった。
どうやら、あまり馬に興味はないらしい。
ジェードに愛情を注ぐジークとは、こういうところでも対照的だ。
「じゃあ……」
少し考え、フィオナは浮かんできた名前にピンときて、口に出した。
「サミィ」
「……えらく凡庸な名前だねェ」
「だって、この子普通っぽいもの」
ユーリの感想に、言い返す。いかにも田舎育ちといった、素朴な趣のある彼女には、ジェードやクンツァイトのような、きらびやかな名前は似合わない気がした。
「……ま、確かに」
「よろしくね、サミィ」
納得するユーリの横で、サミィに挨拶する。サミィは、首をかしげるようにして、大きな目でフィオナを見下ろしていた。なかなか大人しい馬だ。
……と、
「おや」
そんな風に思っていたら、急にサミィがその場で足踏みをし出した。腰を引くように後退しようとした馬の手綱を、ユーリが引いて止める。
「帰ってきたようですネ」
ユーリの言葉が終わるより先に、どこからか蹄の音が聞こえた。間を置かず、黒い大きな獣が森から飛び出してくる。
「今戻った」
「おかりなさい、ヴァン」
サミィの二回りはあろうかという巨大な青毛馬に乗って現れたのは、『森の家』の住人のうち最年長の一人、ヴァンだ。厳格な性格そのままの鋭い眼差しをサミィに止め、青年は馬上から声をかけた。
「新しい馬か? ユーリ」
「ハイ。サミィ……という名だそうですヨ」
どうもヴァンの馬、クンツァイトに対して怯えているらしい。痩せた雌馬は、しきりに首を振りながら後ろに下がろうとしている。
「キングにご挨拶をしておかないと」
尻込みするサミィの手綱を、ユーリが強引に引くと、前足で踏ん張るようにして抵抗する。
すると、対峙していたクンツァイトの方も、歯をむき出してサミィを威嚇するような素振りを見せた。
「クンツァイト、仲間だ」
だが、馬上のヴァンがそう言って首元を叩くと、すぐに大人しくなった。威厳のあるゆったりとした足取りでサミィに近づき、大きな漆黒の鼻を寄せて臭いを嗅ぐ。
その様子に、ユーリが感心したように呟いた。
「『大帝の馬』をここまで手懐けるとは、たいしたものですね」
「『大帝の馬』?」
「その馬の異名だよ。黒竜馬という種類らしい。北のヘイムダル大平原にのみ生息する希少種。暗黒時代を終わらせた暁の王、アルフォンス大帝が駆ったのが、この種の馬だと言われている」
フィオナが聞き返すと、ユーリが教えてくれた。
「もっとも、そういった記述が残っているわけじゃない。アルフォンス大帝の凱旋像は、巨大な馬にまたがった姿が有名だけど、その馬の特徴が黒竜馬に酷似ていることから、そう言われるようになったらしい。まァ、アルフォンス大帝の威光を大げさに伝えようとした技師たちが、わざと馬を大きく立派に描いた結果、黒竜馬に似ただけ、という説もあるけど」
ユーリは博識だ。あまりそうは見えないが、こういう豆知識をしゃべらせたら、だいたい何でも知っている。
「それくらい扱い難く、希少な馬、ってことだヨ」
そう締めくくる。クンツァイトが、ヘイムダル大平原に住まう騎馬民族、スヴィドの民ですら扱うことのできない、気性の激しい野生の馬だという話は、フィオナも以前聞いたことがある。
その黒竜馬を降りた男が、順に3人に視線を注いだ。
「ジーク、ユーリ、フィオナ、家に戻れるか。話がある」
厳しい声はいつも通りと言えばいつも通りだが、その響きにどこか深刻なものを感じ取り、3人は顔を見合わせ、ヴァンに従った。
「乗馬の練習をしていたのだろう。精が出るな。少しは乗れるようになったのか?」
「はい、少しは。まだちょっと、1人で遠出するのは怖いけど」
家に戻る途中、隣を歩くヴァンに声をかけられ、フィオナは頷いた。
「基本的な動作が出来るようなれば、あとは慣れだけだ。いずれ遠乗りにも出かけられるようになるだろう。その時はクンツァイトで、この森の美しい場所を案内しよう」
「はいっ」
嬉しい誘いに、フィオナは顔を輝かせた。具体的な目標ができ、俄然やる気が出る。
そんなフィオナを見下ろすヴァンの表情が、少し和らぐ。常に厳しい顔をしているヴァンの微妙な変化に気付くようになったのも、ここに来て成長したことの一つだ、とフィオナは思っていた。
「もうすぐ一月になるのか。お前がこの家に来てから」
「そうですね。なんだか、色々あったけど、あっという間でした」
15歳の誕生日の夜、フィオナは継母の従者に城を連れ出され、このイアルンヴィズの森に逃がされた。
王妃がフィオナの命を狙っている。殺せと命じられたが出来ないから、どうか逃げてくれと懇願されたあの日のことは、今もはっきりと覚えている。
王の鹿狩りに、父親の代わりに同伴した際、たまたまついてきていた王妃のエクレーネに気に入られ、傍仕えに引き立てられたという年若い従者は、元猟師だった。
フィオナの黒髪と、猪の心臓を持ってエクレーネにフィオナの死を申告し、すぐに老いた父と共に国外へ逃亡すると言っていた彼は――無事、継母の目をごまかすことが出来たのだろうか。
「ロバート、元気かな……」
「ロバート?」
聞き慣れない名に、ヴァンが聞き返す。
「……私を、この森に逃がしてくれた人です。お継母様の従者で、元は猟師だったんですけど……私を殺すように命じられたのに、馬車で森の入り口まで運んで、逃げるように言ってくれました。本人もすぐに逃げると言っていたけど、本当にうまくいったのか……」
口にしながら、不安の方が大きくなり、フィオナは顔を曇らせた。
王女を殺せとまでいった王妃だ。もし命令に逆らったのがばれたら、命はない。
「縁があれば、また出会うこともあるだろう」
「……そうですね」
彼は気休めは言わない。
それが分かっているから、重々しく告げられた台詞に、フィオナは神妙な顔で頷いた。