第一話 始動(1)
アルファザード王国南端の町、オルフェン。
南は広大な森林地帯イアルンヴィズの森に接するその町には、北は王都ファザーン、東は貿易都市トロイに続く街道が通っている。小さいながらも、賑やかで美しい町だ。
3月も終わりに近づき、日に日に春らしさが増していく午後の昼下がり。
町の大通りの一つで、大工道具を担いだ青年が、路傍のベンチに腰を下ろした。
黒髪に、紫の瞳を持つ長身の偉丈夫だ。
その隣に、大工らしい中年の男が並び座る。
「ヴァン、今日はすまねぇなぁ。急に手伝わせちまって。人手が足りなかったもんで、助かったよ」
「構わんさ。いつも世話になっている」
「そう言ってもらえると助かるよ。お前さんがいつも町にいてくれると便利なんだがねぇ。あの森に住んでるなんて、まったくおかしな連中だ。ほら、今日の分だ。急に頼んじまったから、割り増してる。これでお仲間とぱーっとやってくれや」
金属が触れ合う音を立てて、貨幣の入った小袋が投げられる。それを片手で受け取り、ヴァンが礼を言うと、左隣から弾けるような大笑が起こった。
自然、2人の視線が笑い声の方向へと向く。ベンチが置かれたストリート沿いに、テラスのせり出したカフェがあった。
そのオープンテラスの、一番ストリートに近いテーブルで、3人の男が上機嫌に騒いでいる。
恰幅の良い中年男性たちは、服装からして、町の新興ブルジョワ――中産階級といったところだろう。
これまで、世襲によって封土を支配していた荘園領主たちが退潮して久しいアルファザード王国では、入れ替えに、新興の都市商工業者が幅を利かせるようになった。
特に、王都に近く、交通網が整備されたここ中南部では、景気の上昇も手伝って、商売によって富を蓄積する、いわゆるブルジョワジーが増加している。
ヴァンの隣で、大工男が鼻を鳴らした。
「ったく、ブルジョワってやつはいいねぇ。こちとら、毎日汗水たらして働いてるっていうのに、真っ昼間っから酒飲んで、話してることと言やぁ、あっちの国の王様はどうだの、そっちの国の議会はどうだの、手前達の生活にゃ関係のねぇご高承な噂話ばっかりだ。海の向こうの国の美しいお妃様が病床の身だからって、一体手前たちに何があるっていうんだかねぇ」
「そんな話まであるのか」
それは、そんな些末な情報まで、この辺境の町にも流れ込んでいるのかという驚きだったのだが、男は、どうやら別の方に取ったらしい。
「ねぇ、くだらんだろう。だいたい、どこまでが尾ひれか背びれかウロコかも分かりゃしねぇ。そのお妃様だって、本当はうちの女房みたいな顔してるかもしれんでしょ。こーんなねぇ」
言って、男は両頬を掴んで引っ張り上げ、鬼のような形相を作って1人で爆笑した。だが、付き合って笑ってやるほど親切ではないヴァンの、いつも通りの仏頂面を受け、仕切り直すように話を変える。
「美しいといや、隣の国の王女様だが、あの方は本当に美しかったらしいねぇ。エルドラドには一人知り合いがいるんだが、つい最近王女様が亡くなった時にゃぁ、身内の娘が死んだみてぇに嘆いていたよ。エルドラドの宝石、麗しの白雪姫は誰かの陰謀で殺されたんだってねぇ」
「…………」
すると、険しい表情のまま、相槌も打たずに黙り込んでしまったヴァンに、男は潮時と判断したらしい。
「じゃあ、俺はそろそろ戻るぜ。まぁ、お前さんのおかげで大方片付いたがな。ありがとよ、またよろしく頼むわ」
ねぎらいの言葉をかけて肩を叩くと、自らの仕事道具を抱えて去っていく。
隣で話していた人間がいなくなると、急に当たりが静かになったような錯覚に陥るが、午後の町の喧噪は続いており、風に乗って、再び例の男達の声が届いた。
「――そう、だからシュヴァルトは、ヴァルクを裏で操って、『天上の島』への足掛かりを作ろうとしているって話だ」
酔って大きくなった声で、演説調に話す男の台詞が、聞くともなしに聞こえてくる。多くの場合、中途半端な知識階級の男たちは、政治の話が好きだ。
だが、地方貴族という共通の『敵』を持つ中央権力と新興ブルジョワのコネクションは侮れず、また国境を越えて商いを営む貿易商人などは、各国の機密情報も切り売りする。
辺境の町で昼から飲んだくれている小成金の噂話に、どれほどの価値があるかは検討の余地があるが、旧習にしがみついている地方領主などよりは、彼らの方がよほど新鮮な情報に精通しているのは確かだ。
「だが、お前よ。『天上の島』には、もう何百年も誰も手が出せてないんだろう?」
「そう。だからこそ、今なんだ。あの国は今、未曾有の問題に直面している!」
もったいぶるように言葉を切ると、別の男の声がすかさず割り込んだ。
「知ってるさ。あれだろう。王位継承権に最も近い、第一王子と第二王子が、共に失踪してるっていう。しかし本当なのかね?」
「本当さ。第三王子がもう15歳だろう。成人まであと2年だ。二人の王子を諦めて、王位は末の王子に継がすんじゃないかって話もある」
男の講釈を向かいで聞いていた連れが、知ったような口をはさんだ。
「逆に、上の王子が戻ってくるとすりゃ、第三王子が成人するまでだろうな。どっちの王子か知らないが……」
「そりゃ第二王子だろう。第一王子は足が不自由で女のようにひ弱だと聞いた。自分で歩けもしない王子が、国を出て何年も生きていられるわけがない。国内でも、だいたい帰ってくるのは第二王子だろうって予想だ」
事情通ぶっている男がぺらぺらとしゃべる。別の男が、相槌代わりに問いかけた。
「揃って戻ってくるってことは?」
「それじゃ、何のために3年も姿をくらましてるんだか分からない」
演説男が笑った。
「そりゃそうだ……にしても、もう3年なのか。そんな状況で、元老院は何もしていないのか?」
「元老院は、この数ヶ月で議長が替わった。サン島のフェッセン伯が当選したらしい」
「サン島議員が議長か、珍しいな」
元老院の名前が出て話の流れが変わった。元老院は、サン=フレイア国王の、政治上の諮問機関だ。
流して聞いていたヴァンも、少し耳をそばだてる。
彼らが『天上の島』と呼ぶサン=フレイア王国は、大きく分けて2つの島からなる、エーギル海に浮かぶ島国だ。
国家の成立過程で、フレイア島がサン島を制圧し、領土に組み込んだという歴史があり、長年、この両島は対立関係にあった。
「ロンテル自治商区の景気がいい。なんでも南大陸の西海岸に新しい商港を見つけたとか。鉱山の産出量の国外輸出への比重が高まっているだろう。国内にばらまくより儲かるからって、国内の流通量を絞っているって噂だ」
「なるほど、それでサン島派に勢いがあるわけか」
「輸出の関税を引き上げるってフレイア島派の税案に、サン島派が大反対して否決された。ローゼン侯爵家の娘が現国王に嫁入りしてからこっち、年々サン島議員の声が大きくなってる」
「今のままだと、どっちにしろ王位もローゼン侯爵の孫息子に決まりそうだしな……ディオン侯爵家のお姫様はどうなったんだ」
話が盛り上がり、次々に横道にそれていく。『天上人』のお家騒動は、大陸の民にとっては、いい酒の肴なのだろう。
「ディオン候のフローラ姫は、もう随分と長い間、体調を崩して療養していらっしゃる。お体の弱い方だそうだから、もうお子は難しいだろう。一人息子のウィリアム王子までなくして、お気の毒なことだが……」
異国の后妃に向かって、少し同情口調で語る。
サン=フレイア王国の第一王妃、フレイア島の名門ディオン侯爵家の一人娘は、若い時分はその優しげな美貌が、聖母エレアノーアの再臨とまで讃えられ、その名が大陸中に轟いたこともあるらしい。
彼ら程の年代の男たちにとっては、憧れの的であったのかもしれない。
現在はエルドラドの王女、白雪姫が似たような立場にあるのだろう。
若く美しい女性に魔性や神性の偶像を押しつける人々の俗気は、暗黒時代の始まりが、大国の王を堕落させた傾国の美女の業であるとする神話の時代から、変わることはない。
すると、先程から率先して話を引っ張っていた男が、一段声を落とした。
「これは中央高官から聞いた確かな筋の話なんだが……元老院で、胡散臭い動きが起こっているらしいぜ」
「元老院で?」
釣られて、聞き手にまわっていた男も声をひそめる。
ヴァンはおもむろに立ちあがり、大通りの端を歩き出した。
噂話に興じる酔っぱらい達が、道行く通行人たちを警戒する様子はない。
ゆっくりと近づきながら、通りすがりを装い、男たちが座るテラスの横を通り過ぎる。
もったいぶる様に、耳打ちするような仕草をした男の――実際は、酔いも手伝ってそれほど小声ではなかったが――声が聞こえた。
「ローゼン侯爵家のベアトリス王妃が、フェッセン伯爵とコルタ大臣を引き合わせたって噂がある。大法官を通さず議員と財務府の大臣が繋がるってのもあれだが、それをローゼン侯が後見についている王妃がこそこそと……」
「フェッセン……コルタ……」
通り過ぎ、ヴァンは彼らには聞こえなよう、小さくその名を口にした。
記憶の中の顔と、その名前とを一致させる。与太話で出てきそうな顔ぶれではない。検証する価値はありそうだった。ヴァンは、次に向かう場所を決めた。
それにしても、そんな黒い噂が、このような場所まで声高に聞こえてくるようでは――
そろそろ、『その時』なのかもしれない。
「軍部はまだ絡んでないのか?」
「今のところ話は聞かないな。内政不干渉の軍部まで絡み出したら、それこそ……」
「あれか、内乱」
「神聖不可侵の天上の島が崩れるとしたら、確かに内部崩壊しかねぇかもしれねーな」
笑いが弾ける。
大陸民の多くは、高慢な『天上の島』の住民に好意を抱いていない。
また、男たちの声が大きくなった。
終わりを見せない与太話を背中で聞きながら、ヴァンは店を通り過ぎ、不自然にならない程度の距離を開けて立ち止まった。
「そしたら、シュヴァルトがマジで動くかもしんねぇな」
だが笑いの余韻を残して呟いた一人の発言に、一瞬、テーブルが静まった。
最強海軍を誇るサン=フレイア王国が、仮にも西大陸に属している状況は、東大陸の強国であるシュヴァルト帝国への牽制になっている。
近年はアルファザード王国と同盟と結ぶなど、大陸への干渉を強めつつあるサン=フレイアが、クーデターにより混乱を深めたとなると、シュヴァルトにとっては絶好の機会だろう。
一気に西大陸の攻略に乗り出す契機になりかねない。
「……この国はどうなっちまうんだろうなぁ」
男の一人が呟いた。
海の向こうのお家騒動を、面白おかしく語っていた時とは打って変わった、身に降りかかる不安を滲ませた声だった。
シュヴァルトが西大陸に攻め込むとなれば、宿敵であるアルファザードは、全力で迎え撃つことになる。
だが、その圧倒的な国土面積と人口をもって、著しい軍事増強を続ける帝国に対し、どこまで太刀打ちできるかは、不安が大きい。
その上、背後では血の気の多いヴァルク王国が、大国アルファザードの隙を狙っている。
アースガルダ大陸最後の統一王朝崩壊から、百年余り。
危うい均衡の中、保たれている平穏に、誰もが漠然と、恐れと不安を抱いていた。
「おおーい! 旦那方!」
その時、通りの向こうから、彼らより少し若い男が、息を切らしてテラスに駆け寄ってきた。出で立ちから、同じような中産階級の人間であることが分かる。
「マシューじゃないか。どうした? 血相変えて」
「旦那方、聞いたか?」
事情通の男が顔を向けると、マシューと呼ばれた新顔は、挨拶もなくまくし立てた。
「法王陛下が――」