プロローグ
その人里離れた山の奥深くには、人知を超えた力を持つ賢者が住んでいるという。
「あなたがこの森に住むという賢者?」
標高の高い山々が連なる、その中腹、暗緑の帳に隠れるように建つ小さな山小屋に、女の声が響いた。
昼なお暗い密林。山頂には万年雪が積もり、切り立った渓谷を吹きすさぶ寒風は、絶えず悲鳴を上げながら岩肌を削っている。
鋭い嘴と巨大な羽を持った野鳥が、奇妙な鳴き声を上げながら、凍える滝壺の表面を旋回していた。その断崖の合間に、どこからか獣の咆哮が反響する。こだまが別の獣の遠吠えを誘い、幾重にも重なり合っていく。
野生の狼が跋扈するその場所は、とても人が住むようなところではなかった。
従者を外で待たせた女は、一人、小屋の主と対峙していた。
分厚い灰色の外套を着込んだ女は、フードを目深にかぶったまま、戸口に立っていた。
「この森に住んでいるのは事実ですが……賢者というのは、人里の人間が勝手に呼んでいるだけでしょう」
フードの下の赤い唇が発した言葉に、その男は応えた。箱のような窓のない部屋の奥で、全身を黒いローブで覆った男は、顔を上げることもなく、ただ卓の前に座っている。
「私は、何者でもありませんよ」
だがその主張は意に介さず、女は一方的に質疑を重ねた。
「こんな古びた山小屋に、いつから住んでいるのかしら?」
「さぁ……100年か200年か……よく覚えていませんね」
思い出すのも億劫で、男は曖昧に答えた。
だがそれを、女は戯れ言と受け取った。冷笑に近い笑みで、受け流す。
「あなた、欲はある?」
「欲、ですか」
高飛車な女の物言いは、人に命ずることに慣れたの人間ものだった。
「膨大な知識を持ちながら、こんなところで燻っている人間の欲など理解出来ないから、初めに聞いているのよ」
「なるほど、貴女は賢い女性のようだ」
男は頷いた。交渉の入りとしては、悪くない。
「貴方がたの提示するような報酬では、私への交渉材料にならない可能性を見越している」
男は、少し女の話を聞いてもいい気になった。それは、たまたまそういう気分になっただけで、ただの気まぐれだった。
魔女とは、そういう生き物だ。
「たまに来るんですよ、やれいくら払うだの、側近に引き立ててやるだの……そんなわずらわしいものを対価として支払おうなど、愚かにも程がある」
低く、男は喉の奥で笑った。黒いローブの奥に隠れた翡翠の目が、嘲笑に歪む。
「何がお望みで?」
「私の息子を王にして頂戴」
「ほう」
「その為には、どんな立場でも用意するわ、必要であれば資金も。ただし、これは報酬ではない」
女の言葉は正しい。それは、目的達成のための『必要経費』だ。
なるほど、この女は――あくまで人間にしてはだが――賢い。
男は、少しばかりの興味を持ち、女をすがめ見た。
「さぁ、あなたの欲は何?」
「では……」
口角を吊り上げ、男は右手を上げた。人差し指を伸ばし、女の胸を指し示す。
「世界で一番美しい者の髪と心臓を、私に下さい」
※
『世界で一番美しい』などという、無理難題ともとれる世迷い言に、女はピンときた。
――あいつだ。
髪の先までもが宝石のように輝く、この世で最も憎らしい存在を思い描き、女はほくそ笑んだ。
「男でも……女でも構わないのね?」
「ええ、構いませんよ。その者が本当に美しいのならば」
これは運命だと――女はそう思った。
女はフードを取り、顔を上げて笑った。会心の笑み。
「いいわ……くれてやるわ。いくらでも、望み通りに!」
勝利を確信した女の高らかな哄笑が、鬱蒼と生い茂る木立の合間を縫い、空へと響いた。