◆夏・第三話「ゆっくり近づく、終わりの気配」
夏祭りの灯りは、楽しいはずなのにどこか切なさを帯びていた。
おじさんの何気ない一言が、わたしの心を揺さぶる。
“助けられるうちに”――その言葉の奥にある気配は、夏の終わりとともに、二人の関係の節目を静かに告げていた。
六月の終わりから続いた暑さは、八月に入るとさらに勢いを増した。街全体が熱を吸い込み、夕方になっても空気が重たい。そんな日々の中で、私はある種の“迷いの夏”を過ごしていた。
彼氏とのこと。
仕事のこと。
そして、おじさんの存在の大きさ。
感情は季節の湿気のようにまとわりつき、気づかぬうちに私の生活をむしばんでいた。
◇ ◆ ◇
あの日の出来事――あの古書店での恐怖――があってからしばらく、おじさんはいつも以上にこまめに連絡をくれた。私の体調を気遣うようなメッセージ。残業していないか心配する言葉。
それらひとつひとつが胸に沁みて、私はどこか安心しながらも心のどこかがざわついた。
こんなに優しくされると、期待してしまう。
でも、その期待が裏切られた時、自分は壊れてしまわないだろうか。
そんな不安も同時に膨らんでいく。
そして、ある日のこと。
『今度、夏祭り行かない?』
おじさんからそんな誘いが届いた。
「夏祭り……」
画面を見つめながら、胸が弾むのを感じる。
子どもの頃は母も誘って三人で行ったことがあったけれど、大人になってからは誰とも行っていなかった。
浴衣を着るか迷い、買おうか悩んだ。
そんな自分に気づき、顔が熱くなる。
「何考えてるんだろ……」
ただ楽しいだけの誘いなのに、私は勝手に特別な意味を探してしまう。
◇ ◆ ◇
夏祭り当日。
私は薄手のワンピースを着て駅に向かった。浴衣にしなかったのは、心の中でブレーキをかけたかったからだ。
約束の場所に着くと、おじさんはいつもの落ち着いた雰囲気で立っていた。
この人は、たとえ夏の熱気の中でも変わらない。
「今日は楽しもうね」
「うん」
神社へ向かうと、屋台の灯りがずらりと並び、夜風がようやく涼しさを運んできた。
綿あめの甘い香り、焼きそばの濃い匂い、金魚すくいの水音――
その全部が子どもの頃の記憶を呼び起こす。
「覚えてる? 昔ここでリンゴ飴落としたこと」
「やめてよ、恥ずかしいんだから」
「ははは、大泣きしてたよねぇ」
思い出話に笑い合う。
本当に、家族のような時間だ。
でも、心の奥で小さな痛みが走る。
“家族でも恋人でもない関係”という曖昧さが、ときどき私を不安にさせる。
◇ ◆ ◇
帰り道、神社を出て駅へ向かう坂道で、私は横に並ぶおじさんの横顔をちらりと見た。
「ねぇ、おじさん」
「ん?」
「……おじさんって、すごいよね。いつも誰かのために動いてて」
言った瞬間、胸の奥がぐっと痛んだ。
「そうかな?」
「うん。だって、私が困ってる時、いつも助けてくれるでしょ?」
おじさんは少しだけ黙って、夜空を見上げた。
その表情は夕立前のように静かで、どこか切なさを含んでいる。
「……助けられるうちに、助けたいんだよ」
その言葉に胸が締めつけられる。
“助けられるうちに”。
その言い回しには、どこか別れを予感させる響きがあった。
「どういう意味?」
「いや、深い意味じゃないよ。ただ……いつか君がオレの手を離れて幸せに生きる日が来ると思うから」
その言葉が、夏の風よりも冷たく、深く刺さった。
「……そんなこと、言わないでよ」
思わず声が震えた。
おじさんは驚いたように私を見る。
「ごめん。でも、いつまでも頼られるのは違うと思ってね」
「私は……私は別に、おじさんに負担をかけるつもりなんて……!」
「わかってるよ。でも君の人生は君のもので、オレのものじゃない」
おじさんの声は、優しさと寂しさが混じった不思議な響きを持っていた。
その瞬間、私は気づいてしまった。
――私、おじさんを失うのが怖いんだ。
家族のように大切で、恋人とは違うけれど、恋人よりも心の深いところで繋がっているような、この関係が。
◇ ◆ ◇
駅までの数分が、妙に長く感じた。
別れ際、おじさんはいつも通りの笑顔を見せる。
「今日はありがとう。楽しかったよ」
「……私も。すっごく楽しかった」
「また行こうね」
そう言われたのに、心は晴れなかった。
夏の夜風が吹き抜けても、胸のざわつきは消えなかった。
帰りの電車の窓に映る自分の顔は、どこか泣きそうで――
私はそっと目をそらした。
夏は終わりに向かっていた。
そして私たちの関係もまた、静かに、何かの終わりへ近づいているように思えた。
夏第三話は、わたしの心の変化が最も強く描かれる回となりました。おじさんへの安心、信頼、そして微かな不安。それらが混ざり合い、わたしの中でまだ名前のつかない感情となって揺れています。一方で、おじさん自身にも“距離”を意識するような影が差し始め、読者にも「何かが変わり始めている」ことが伝わる構成にしています。夏が終われば、季節は秋へ。物語はより深く、繊細な感情のステージへと進みます。ここからの展開が大きな運命の分岐点になります。




