◆夏・第二話「揺らぐ日常と、静かな影」
心が疲れた時、人は“帰れる場所”を探す。
彼氏との軋み、夏の重い空気、不意に訪れた恐怖。
そのすべての中で、おじさんの存在は静かに主人公を支えていた。
しかし、その優しさがまた新たな揺らぎを生んでいく――。
夏が深まるにつれ、私の生活は少しずつ歯車がずれはじめていた。仕事は相変わらず忙しく、彼氏との関係は薄紙をはがすようにぎくしゃくしていった。おじさんとのやり取りは、以前より頻度が減ったはずなのに、心の中で占める割合は逆に大きくなっていた。
――あのアキバの日から、一週間後。
私は職場の休憩室で弁当を広げながら、スマホを横目で見ていた。
LINEのアイコンが光るたび、胸が少しだけ強張る。
彼氏からの連絡は、返事を急かすものばかりだった。
『今日どこ?』
『なんで返さないの?』
『俺のこと冷めてる?』
好きだと思っていた。
同棲までした相手だ。
でも、最近は“愛情”というより“義務”で繋がっているようにも感じていた。
その時、新しい通知がひとつ。
――おじさんからだった。
『暑いけど体調大丈夫? こまめに水分とってね』
ただの気遣いの言葉。それだけなのに、喉の奥が熱くなり、胸の奥がじんと締めつけられる。
私は無意識に返信していた。
『ありがとう。大丈夫だよ。おじさんは?』
『オレも元気だよ。いつでも声かけてね』
その一文が、心の奥にスッと灯りをともす。
“戻れる場所がある。”
そう思うだけで、世界が少し優しく見えた。
◇ ◆ ◇
その週末、彼氏とまた些細なことで口論になった。
原因は、冷蔵庫に入れていたアイスを「食べた」「食べてない」だけの本当にどうでもいいことだ。
「だから言ってるだろ、俺じゃないって!」
「でも私しかいないじゃん!」
「疑うなら一緒に住むなよ!」
怒鳴られるたび、心がひりつく。
一緒に住んでいた頃の記憶がよみがえり、その息苦しさに胸が締まる。
――ああ、もう限界かもしれない。
でも別れを言い出す勇気もない。
夏の午後の空気は重く、湿気がまとわりつき、心までベタついていく。
その息苦しさに耐えきれず、私は部屋を飛び出した。
外に出ると、まだ太陽が沈みきらないオレンジ色の光が街を照らしていた。
私はその光に吸い寄せられるように、駅へと歩き出す。
「……おじさん」
誰に聞かせるでもなく、心の中で呟く。
気づけばスマホを握りしめていた。
メッセージを開いて、迷って――結局送れずに画面を閉じる。
甘えたい。
でも、それではいけない気がする。
十年近く私を支えてくれたこの人に、これ以上負担をかけていいのだろうか。
そんな葛藤が胸で渦巻く。
◇ ◆ ◇
夕暮れの街を歩いていると、ふと視界に古書店が入った。
おじさんとよく来ていた、懐かしい場所だ。
思わず足が向く。
ガラス戸を開けると、紙とインクの匂い、古いエアコンの風がふわりと漂う。
その空気だけで、身体の力がすっと抜けた。
棚を眺めていると、後ろで声がした。
「久しぶりだねぇ、こんなところで会うなんて」
知らない人。
でも、その声が妙に胸をざわつかせる。
振り返ると、四十代くらいの男性が立っていた。
目の奥が笑っていない。
汗ばんだシャツに、どこか粘ついた気配をまとっている。
「前も見かけたよ。可愛い子だなぁって思ってたんだよね」
身体がすっと冷える。
「え、えっと……急いでるので」
「連絡先くらい――」
手首を掴まれた。
その瞬間、心臓が跳ねる。
「困ってるみたいだね」
背後から落ち着いた声がした。
知っている声。
ゆっくり振り返ると――
おじさんがいた。
まるで夕陽を背負った影のように、静かで、それでいて鋭い雰囲気をまとっていた。
「その子、知り合いなんで。離してもらえるかな」
「な、なんだよ……!」
男は舌打ちし、私を突き飛ばすようにして去っていった。
私は肩を震わせながら、息を整える。
「……大丈夫?」
おじさんの声は相変わらず優しいのに、その手は微かに震えていた。
「ど、どうして……?」
「たまたまだよ。近くの店に寄ってて。君を見かけたから」
その偶然が、怖いほど嬉しかった。
胸の奥の何かがほどけていく。
涙が勝手に溢れそうになる。
「怖かったね。でも、もう大丈夫」
おじさんの手がそっと肩に触れ、私はたまらず涙をこぼした。
◇ ◆ ◇
その後、駅前のファストフードで落ち着き、ポテトをつまみながら話した。
「危ない人はどこにでもいるからね」
「……助けてくれて、本当にありがとう」
「ううん。間に合ってよかったよ」
おじさんは私の話を責めることも、説教することもなかった。
ただ、優しく寄り添ってくれた。
その優しさに触れるたび、心が揺れる。
きっと私は――おじさんを失いたくないのだ。
「また困ったら言ってね」
「……うん」
本当は、困っていなくても言いたい。
本当は、もっと一緒にいたい。
だけど、その気持ちを言葉にする勇気は、まだ私にはなかった。
夏第二話は、わたしが抱える不安や孤独が表面化する回です。人間関係の壁、職場での疲労、恋人との摩擦――こうした“現実の重み”は、誰にとっても避けられない試練です。しかし、その中で偶然のように現れるおじさんの存在は、主人公にとって確かな支えとなります。一方で、その支えが「依存」へ傾く危うさも同時に描いています。物語は少しずつ、大きな転機へ向けて伏線を積み重ねています。次回は夏の第三話。わたしとおじさんの距離が、さらに微妙に揺れ動く予感がします。




