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◆夏・第一話「陽炎のアキバと、揺れる心」

東京の夏は、心の迷いを隠せない季節だった。

仕事、恋、そしておじさんとの十年の絆。そのすべてが陽炎のように揺れ、主人公は自分の気持ちの輪郭をつかめずにいた。けれど、変化はもう始まっている。静かに、しかし確実に――。


梅雨が明け、東京の空が青を取り戻したのは七月の初旬だった。アスファルトが陽炎に揺れ、街ゆく人々が日傘や冷たい飲み物を求めて歩く季節。私の胸の内にも、外気のような熱が満ちていた。仕事、恋、そして“おじさん”との距離感。そのすべてが、夏の太陽に照らされて輪郭をくっきりとさせていくようだった。


 ――そして、その輪郭が崩れ落ちていく予兆もまた。


 その日の私は、会社を定時で上がることができた。久しぶりに気分が軽く、帰り道に上野駅の改札を出たところで、自然とスマホを取り出す。「今日はアキバ寄っていこうかな……」とつぶやきながら、母にメッセージを送りかけて、止める。用件があるわけじゃない。こういう時、話せる相手は本当は一人いる。それでも、連絡していいのだろうかと躊躇してしまう。


 なぜなら私は、今は彼氏と微妙な関係にあるからだ。

 優しい時は優しいけれど、機嫌が悪くなると突然冷たくなる。そんな不安定な彼との生活にずっと悩んでいた。母の家に一度帰って適度な距離を取ると決めたのに、まだ完全に割り切れない。


 改札前の階段を降りると、熱気が一層まとわりついてきた。

 息を整えながら、私はホームで立ち止まる。そして、まるで偶然を装うようにスマホを開いた。


「おじさん、今ひま?」


 送った瞬間、胸の奥がキュッと縮む。

 返事が来るまでの数十秒が、まるで砂時計の砂のように長く感じた。


 ……そして。


『ちょうど仕事終わったところだよ。どうしたの?』


 その一言だけで、肩の力がすっと抜けていく。

 おじさんは、いつもそう。必要な時にだけ優しさを差し出してくれるくせに、押しつけがましいところが一度もない。


『アキバに寄ろうかなって思って。それだけ』


『じゃあ、時間合わせるよ。暑いから無理しないでね』


 そのメッセージは、クーラーの冷気よりも心地よかった。


 ――結局、私は甘えてしまうのだ。

 彼氏に言われたら反発したくなるのに、おじさんだと素直に受け取ってしまう。


◇ ◆ ◇


 秋葉原の中央通りに着くと、風景は夏らしさをまとっていた。メロンソーダ色の空、熱波のように舞う電子音、人混みから立ち上る熱。昔から何も変わらない場所なのに、どこか懐かしく感じる。


「こっちこっち」


 おじさんは、相変わらず帽子を少し深くかぶり、カジュアルなシャツを着ていた。無駄に派手でもなく、地味すぎることもない。ただ、一緒に歩くと妙に安心する――十年もの時間が育てた“家族でも恋人でもない絆”がそこにある。


「今日、欲しいものあった?」

「んー、漫画の新刊と、ちょっと気になるフィギュアがあって……」


「ああ、あのシリーズか。じゃあ店のルート決めようか」


 いつものテンポで、会話が進んでいく。それが嬉しくて、同時に少しだけ苦しかった。


 彼氏と比べてしまう自分が、嫌だった。


◇ ◆ ◇


 ラジオ会館を出た頃には、紙袋が三つに増えていた。

 そのほとんどは私の買い物で、おじさんは「持つよ」と当然のように手を伸ばしてくる。


「ありがとう。でも、今日は自分で持つよ?」


「ん? 珍しいね」


「……なんか、甘えてばっかりだなって思って」


 おじさんは歩みを止めずに、ただ横目で私を見る。


「甘えたい時に甘えればいいんだよ。大人でも。

 むしろ大人のほうが甘える場所って限られるんだから」


 言い返せない。

 そんなふうに言われると、胸の奥に冷たい水が落ちてきたように静かに響く。


 ――どうして、この人はこんなに優しいの?


 そう思った瞬間、まるで夏の空気を裂くように、スマホが震えた。


 彼氏からのメッセージだった。


『今日どこいんの?』

『帰ってこないの?』


 胸が重くなる。

 まるで鎖をつけられたような息苦しさが押し寄せてくる。


 そんな私の表情を、おじさんは見逃さない。


「彼氏さん?」


「……うん」


「喧嘩した?」


「してない。でも……」


 言いかけて、飲み込んだ。

 こんな弱さをさらけ出していいのか。

 彼氏の悪口にならないだろうか。

 そもそも、私は何に怯えているのか。


 するとおじさんは、夏の風のように軽く言った。


「大丈夫。話したくないなら話さなくていいし、話したい時に話せばいい」


 その声が、まるで私の重荷をそっと下ろしてくれる。

 昔からそうだった。

 私の人生の節目に、いつもこの人は“丁寧な距離感”で寄り添ってくれる。


 だからこそ、私はふと不安になる。


 私が本当にこの人に甘えすぎたら――

 この関係は壊れてしまうのではないか、と。


◇ ◆ ◇


 夜のアキバを歩いていると、日中の熱気が少しずつ冷めていく。

 駅前で分かれる頃、おじさんがふいに言った。


「また行きたい場所があったら誘ってね。

 ……無理にじゃなくていいから」


 その「無理にじゃなくていい」が胸に刺さる。

 優しすぎると、逆に怖くなるという、あの感覚。


「……うん。ありがとう、おじさん」


 その日は家に帰っても、心の中で夏の熱が渦巻いていた。


 彼氏との関係はこのままでいいのだろうか。

 おじさんとの距離は、このまま変わらずいられるのだろうか。


 答えはまだ出ないまま、夏が本格的に始まっていく。

夏編は、わたしの「揺れる感情」を中心に描いています。子どもの頃から続くおじさんとの関係は、とても自然で安心できるものでありながら、大人になるにつれて複雑さが増していきます。恋人との距離、おじさんへの信頼、そして自立と依存の狭間。これらの揺れは、誰もが一度は経験する“大人の夏”の空気感とも重なります。次回は、さらにわたしの心の内側に踏み込み、夏の第二話へ。季節の移ろいが、この後の大きな運命へ向けて少しずつ歯車を動かし始めます。

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