◆夏の終わり ― 東京直下大震災と“ダンジョン元年” ―
暑さが少しずつ和らぎ始めた八月末。
千秋は職場で溜まった書類整理をしていた。外ではセミの声がまだ根強く鳴いているが、夕方になると秋の気配が混じり始めていた。
「今日も疲れた…」
デスクにへたり込むように座りながら、千秋はスマホを手に取った。
おじさんから「涼しくなってきたし、そろそろどこか行こう」とメッセージが来ている。
玲奈からも「9月になったらまた旅行しよー!」とLINEが届いていた。
夏の終わり。
季節の変わり目。
そして――この静かな日常が終わる直前。
その日は、昼過ぎから小さな地震が続いていた。
(ちょっと多いな…)
同僚たちも落ち着かない様子だったが、東京では珍しくないレベルの小刻みな揺れだ。
誰も本気で警戒していなかった。
──14時42分。
それは、まったく前触れなく訪れた。
■第一波 ―「縦に揺れる」恐怖
ドンッッ!!!
建物全体を下から突き上げるような衝撃。
机が跳ね上がり、天井の照明が一斉に揺れ始める。
「え……? 縦揺れ!?」「まずい!」
直後、猛烈な横揺れが襲ってきた。
壁が軋み、コピー機がゴロゴロと転がる。
「机の下に!!」
誰かが叫んだ。
しかし千晶は立つこともできず、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込むしかなかった。
揺れは、長い。
今まで経験したどの地震よりも。
(終わらない…終わらないよ…!)
天井のパネルが落ち、悲鳴が上がる。
窓ガラスがきしみ、割れそうな高音を立てて弾んだ。
ようやく揺れが収まった頃には、オフィスは半壊状態だった。
火災報知器が鳴り響き、外からはサイレンの音が重なってくる。
「外に出よう!」「怪我してる人いないか!」
千秋は震えた足で立ち上がった。
壁に手をつき、揺れる視界を必死で固定する。
(お母さん…大丈夫かな…! おじさんは…!)
スマホを取り出すが、すでに通信は途絶えていた。
■道路は割れ、地面は沈む
ビルから避難し、外へ出た瞬間、千秋は息を呑んだ。
道路が不自然にひび割れ、場所によっては数メートル沈み、あるいは持ち上がっていた。
信号機は傾き、電線が垂れ下がり、倒壊した建物からは黒煙が上がっている。
「なに…これ……」
まるで災害映画のワンシーン。
だが、これが現実。
周囲の人々は呆然と立ち尽くす者、泣き叫ぶ者、スマホで安否確認しようとして通信不可に焦る者で溢れていた。
千秋の胸が痛む。
(お母さん……! おじさん…どこ…!)
歩道橋が崩れ、車は横転し、街全体が混沌としていた。
千晶は駅の近くまで歩いてみたが、そこはさらに凄惨だった。
瓦礫。
崩落した高架。
地下鉄の入り口は封鎖され、水が噴き出している。
その時だった。
■地面の“割れ目”から、冷気が──
グラッ……
アスファルトが再び揺れ、地面に大きな裂け目が走った。
周囲が悲鳴を上げて逃げる中、千秋も後ずさる。
その裂け目から、黒い空洞が覗いていた。
しかしただの亀裂ではない。
そこから、ひんやりした風が吹き出している。
まるで洞窟の奥から流れ出してくるような冷気だった。
(なに…これ……?)
覗き込んではいけないと本能が叫ぶ。
しかし目を逸らせない。
次の瞬間――
地面の奥から、低いうなり声のような音が響いた。
ゴォォォォ……
「変な音がするぞ!」「離れろ!!」
警察官が人々を後ろへ押し戻す。
裂け目は光を放ち始め、まるで“呼吸をするように”脈動している。
(これは…ただの地割れじゃない…)
誰もそう言わなかったが、その場の全員が悟っていた。
――これは“何か”が生まれようとしている、と。
■東京各地に広がる“穴”
後に判明するが、この瞬間、東京全域で同じ現象が起きていた。
新宿、渋谷、池袋、秋葉原、浅草、そしてスカイツリー。
地下鉄の線路や地盤がえぐり取られ、その跡に“洞窟状の空洞”がぽっかりと開いていたのだ。
ニューススタジオも倒壊し、テレビは緊急速報の映像を繰り返し流すだけ。
SNSには、黒い洞窟の口を撮影した動画が次々投稿される。
『これダンジョンじゃね!?』
『中からなんか動いてる!』
『ヤバい声聞こえる、逃げた方がいい!』
人々が混乱し、恐怖と好奇心で騒ぎ始める。
そして、震災発生から一時間後。
政府は緊急会見でこう発表した。
「全国各地に“未確認の地下空洞”が出現。
危険のため、すべての地域で立入禁止とする」
この日の夕方、日本中が“新しい現実”に気付く。
――これは天災ではない。
――世界そのものが変化している。
■千秋の不安と、連絡のつかない“おじさん”
千晶はどうにか自宅へ帰り着いた。マンションは奇跡的に無事だったが、室内は散乱していた。
「お母さん…!」
家の中を探し回るが、母の姿はない。
しかし、テーブルの上にメモが置いてあった。
『買い物に行ってきます。すぐ戻ります。』
(うそ……このタイミングで!?)
外の状況を考えると、無事を祈るしかない。
千秋は震える手でスマホを握りしめ、おじさんに何度も電話した。
……繋がらない。
……LINEも既読が付かない。
(おじさん……どうして……)
気づくと、涙が頬を伝っていた。
その時、スマホが震えた。
震災から四時間後。
やっと一つの通知が届く。
『千秋ちゃん、無事? 今、こっちは何とか落ち着いた。
絶対に外に出ないで。迎えに行くから。』
胸が熱くなり、息が詰まった。
「……よかった……!」
安堵と共に、千秋は床に座り込んだ。
外では緊急車両の音が鳴り止まない。
遠くで黒煙が上がり続けている。
テレビでは“謎の空洞”の中から未知の生物の影が見えると噂されていた。
世界は、変わってしまった。
だが千秋の胸には一つの信念が芽生えつつあった。
(おじさんと一緒なら、きっと大丈夫)
そう信じて、千秋は震える手を胸に当てた。
春編は、主人公の日常に小さな幸福が積み重なりながら、物語全体の地盤が静かに揺れ始める位置づけとして描きました。宝くじ当選による生活の余裕と、家族や友人との時間は、後に訪れる激動とのコントラストを強めるための大切な要素です。春の穏やかな風景の中に、ニュースや違和感をさりげなく差し込むことで、読者に「何かが始まる」気配を感じてもらえるよう意識しました。次はいよいよ夏──物語は大きく動き出します。




