◆第19話 夏の気配と、不吉なざわめき(前編)
夏の気配は、楽しさと同時に不安を含んだ重い風を運んでいた。イベントの熱気の裏で、空は静かに異変を告げ、二人の胸に小さなざわめきを残す。おじさんの「備えよ」という言葉が、後に命をつなぐ伏線になるとも知らず、季節はゆっくり、しかし確実に“大震災”へ向かって動き始めていた。
六月の空は、どこか重たかった。
梅雨の湿った空気とは別に、胸の奥に小さな不安が引っかかるような、そんな季節の始まりだった。
私は新しい部署への異動準備で慌ただしく過ごしつつも、週末になると自然とおじさんに連絡していた。
宝くじの一件以来、金銭的な心配はなくなったが、逆に心は少し敏感になっていた。
ある蒸し暑い土曜日。
私たちは池袋のサンシャインシティで開催されるアニメイベントに出かけた。
「夏ってだけでテンション上がるな」
「わかる。イベント多いし、コラボも増えるしね」
会場の入り口は人で溢れていた。
その熱気は、梅雨の湿度を吹き飛ばすほど活気があった。
私たちは新作のグッズを見て回り、イラストレーターの展示を楽しみ、気づけば大きな紙袋が両手いっぱいになっていた。
「買いすぎた…?」
「買いすぎや。でも、ええんや。楽しむために生きとるんやから」
おじさんが笑って言うと、私は自然と心が軽くなる。
昼過ぎ、外に出ると空に不思議な重みがあった。
雲は薄いのに、晴れているようで晴れていない――そんな曖昧な灰色。
「なんか…変な空」
「お前も思うか。…昔からな、地震の前って独特の空模様になることがあるんや」
「地震…?」
その言葉に、胸の奥がわずかに締めつけられた。
もちろんこの時、夏に訪れる“あの瞬間”を私たちは知らなかった。
ただ、心のどこかがざわついた。
歩きながら、おじさんはふと真面目な顔をした。
「非常食とか、防災バッグとか…ちゃんと用意しとるか?」
「んー…最低限しか」
「なら買い足そう。夏は何が起こるかわからん」
イベント帰りだというのに、おじさんはそのまま防災用品店に寄ってくれた。
携帯充電器、水、非常食、医療キット、小型ライト、防塵マスク。
それらをカゴに入れるたび、胸のざわめきは強くなっていく。
「これって、本当に必要なの…?」
「“何もなかったら笑い話”で済む。
でもな、“備えとけば助かる未来”って確かにあるんや」
その言葉は、いつになく鋭く重かった。
私は思わず首をかしげながら、おじさんの横顔を盗み見る。
そこには、冗談も迷いもない、本気の表情。
――この人は、ずっと私を守ろうとしてくれている。
宝くじの時も、母が大変だったときも、私が彼氏で悩んでいた時も。
そして今も。
胸が熱くなり、小さな不安も少し和らいだ。
帰り道、夕方の空はさらに不穏さを増していた。
風は止み、蝉の声が異様に響く。
「ほんとに何か起きそうだね…」
「起きるかもしれんし、起きんかもしれん。
でも“感じる”ってことは、大事なんや」
その意味は、あの日――
20XX年7月11日 東京直下大震災が発生する瞬間に痛いほど理解することになる。
けれど今の私はただ、夏の始まりと、おじさんの隣の安心を信じていた。
夏編の前半では、日常の楽しさの中に“見えない不吉さ”を少しずつ混ぜながら進めました。アニメイベントの明るい空気と、不穏な空模様・おじさんの防災意識の高さを対比させ、地震前の違和感を自然に感じられるよう描いています。読者にとっては「まもなく来る」とわかる緊張感を、主人公はまだ知らない。このギャップが、後の大震災の衝撃をより強くします。次話では、夏の後編として“地震直前の日常”を描き、いよいよ物語は大きく動き出します。




