◆第18話 春の夜桜と、ふたりの再出発(後編)
春の終わり、夜桜の下で互いの“再出発”を誓う二人。環境も心も変わりゆく中、10年積み重ねてきた絆は揺るがないと確認できた夜だった。だが、春の穏やかな空気の裏で、災害対策や不安の伏線が静かに張り巡らされてゆく。次に来る夏が、二人の人生を予想もつかない方向へ導くことを、このときの彼らはまだ知らない。
夕暮れの上野公園は、春の名残を惜しむ人たちでにぎわっていた。
昼間の鎌倉とは違い、夜桜はどこか切なくて、胸の奥をそっと締めつける。
私とおじさんは、公園のベンチに腰を下ろし、屋台で買った甘酒を手にぼんやり桜を眺めていた。
「なあ、お前」
「ん?」
「今年の春は…なんか、“区切り”って感じがしないか?」
おじさんは桜を見上げたまま静かに言った。
「お前も仕事変える準備してるし、俺も…家、引っ越そうと思っててな」
「えっ? 引っ越し?」
「駅から近いとこや。災害対策で耐震と非常用設備がしっかりしたマンション探してる」
その言葉に、私は胸の奥で何かがざわついた。
引っ越し。
新しい場所。
“災害対策”という言葉が妙に現実味を帯びて、春の空気を少し冷たく感じさせた。
「…なんか、寂しいね」
「せやけど、前に進むってそういうもんや。…お前も同じやろ?」
そう言って、おじさんは私の肩にそっと上着をかけてくれた。
ふっと視線を落とすと、桜の花びらがひらりと手元に舞い降りる。
私は小さく息を吸い、決心するように口を開いた。
「ねぇ、おじさん」
「なんや?」
「私、頑張るから。…逃げないで、ちゃんと立ちたいから。
だから――これからも、一緒に行こうよ」
おじさんは驚いたように目を丸くしたあと、小さく笑った。
「当たり前やん。お前が立ち止まる日も、走る日も。
…全部付き合ったるわ。10年もやってきたんや。今さら離れるかいな」
涙はこぼれなかったけど、頬が熱くなった。
春の夜風が吹き、桜が一斉に散り始める。
その光景はまるで、私たちの“新しい春”を祝福しているみたいだった。
――このときの私はまだ気づいていない。
数ヶ月後、東京を襲う巨大な地震が、すべての季節の匂いを変えてしまうことを。
けれど、今はただ、桜がきれいだった。
春の物語は、日常の優しい時間の中に少しずつ“未来への影”を落とし始める章として描きました。人の人生が大きく変わるとき、その前には必ず、こうした小さな決意や会話が存在します。夜桜のシーンでは、二人の関係が恋人でも家族でもない独特の距離感を保ちながら、強い相互信頼へと深まることを意識しました。また、地震やダンジョンの伏線を控えめに入れ、読者に「この春がどれほど大切だったか」を感じてもらえる構成にしています。次はいよいよ“夏”に入ります。大きな転換点となる季節の始まりです。




