◆春・第一話「桜の下で“これから”を考える」
宝くじの“余裕”が、二人の関係に小さな変化を運ぶ。
春の光の中で、わたしはおじさんの言葉に胸を揺らし、自分の気持ちと向き合い始める。
まだ形のない感情だけれど、確かに芽を出し、静かに育ちつつあった。
桜の季節は、二人にとって新しい扉の前触れだった。
宝くじ当選から数か月。
おじさんと私は、以前と変わらない距離感を保ちながらも、どこか少しだけ生活に余裕が生まれていた。
「お金の使い方って難しいね」
ぽつりとつぶやくと、おじさんはコンビニの袋を抱えたまま苦笑した。
「急に増えてもな。贅沢しすぎると感覚が壊れるし、ケチり過ぎても意味ないし」
「うん、分かる。なんか“今までと同じでいいや”ってなっちゃうね」
「それが一番安全なんだよ」
ほんの数か月前までは、週末にちょっとおいしいものを食べるだけで特別だった。
けれど今は、行こうと思えば高級店でも海外旅行でも行ける。
……だけど、そんなことをしようとは不思議と思わなかった。
(多分、一緒にいる時間のほうが大事だからだ)
その気持ちを自覚したのは、春の訪れが近づいたある日のことだった。
三月末。
桜のつぼみがぽつぽつと色づき始めた週末、おじさんから突然メッセージが届いた。
《花見行くか?》
短い言葉。でも、即答できる。
《行く!》
この「行く!」には、一緒にいたいという気持ちがそのまま込められていた。
上野公園は平日とは思えないほどの混雑だった。
花見客、外国人観光客、学生、家族連れ……。
桜はまだ五分咲きだったけれど、春の空気が全身を包んでいく。
「おぉ……すごい人だね」
「毎年こんなもんだよ」
おじさんは平然としていた。
けれど人混みが苦手なはずの私が不思議と落ち着いていたのは、多分おじさんが隣にいるからだ。
シートを広げ、屋台で買った焼きそばと焼き鳥を並べる。
桜の花びらが風に乗って舞い、カップのお茶にふわりと落ちた。
「ねぇ、おじさん」
「ん?」
「宝くじのことだけど……本当に、半分でいいの?」
「お前がいなかったら買ってないしな。二人で選んだ番号だし」
「でも……おじさんが全部持っててもいいのに」
おじさんは桜を見上げながら言った。
「お前が、ちゃんと生きていけるならそれでいい」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。
「そんな……私、一人じゃ何もできないよ」
「できるよ。お前は昔から、ちゃんと前に進んでた」
まっすぐな言葉に、思わず目をそらした。
この10年、ずっと見てくれていたのは、この人だった。
昼過ぎ。
少し日が傾き始めた頃、おじさんがスーパーで買ってきたイチゴ大福を手渡してくれた。
「甘いの好きだろ」
「うん。ありがと」
桜の下で二人きりの時間がゆっくり流れる。
(こんなの、幸せって言うしかないじゃん……)
そう思った瞬間、おじさんがぽつりとつぶやいた。
「……宝くじ、当たって本当に良かったな」
「うん。あれがなかったら、こうしてないかも」
「いや、それは違う。宝くじは関係ない。俺は多分、お前が連絡してくれたらいつだって来るよ」
胸の奥がきゅっとしめつけられた。
(どうして、そんなやさしいこと言うの)
まるで10年前の、私がまだ中学生だった頃みたい。
変わったようで何も変わらない、おじさんの優しさがそこにある。
夕暮れ時。
桜の木の影が長く伸びる頃、そろそろ帰ろうかという空気になった。
「春っていいね。なんか、リセットされる感じ」
「そうだな。新しいこと始めるには丁度いい」
その言葉に、ふと胸がざわつく。
「おじさん……なにか始めたいことあるの?」
「あるよ」
即答されたので思わず身を乗り出した。
「なに?」
おじさんは少しだけ笑った。
「秘密」
「えぇ!?ずるい!」
「そのうち分かるよ。焦らなくていい」
春風に乗った桜の花びらが、おじさんの肩に落ちた。
それをそっと払う仕草が、いつもより少しだけ大人に見えた。
その瞬間、私は気づく。
(あぁ、私……この人といる時間が好きなんだ)
まだ恋でも愛でもない。
でも、特別と呼ぶには十分すぎる気持ち。
春の日差しの中で、私たちは少しずつ変わり始めていた。
春イベントでは、冬の“奇跡”の後に訪れる穏やかで温かな変化を描きました。宝くじという非日常を経験しながらも、二人は派手に生活を変えるのではなく、むしろゆっくりと日常の中で絆を深めていきます。桜の下で交わした言葉の一つ一つが、これから訪れる夏の大震災、そしてダンジョン発生という非現実への対比として強い意味を持ちます。春は静けさと準備の季節。次回は春イベント第2話へ進み、夏の激変へと流れていきます。




