夏木となつき
ー第一章 なつきー
“俺が勝ったら、なつきちゃんを悠太の嫁にくれ”
なんて約束してくれたんだ!
悠太の父親とウチの親父は幼稚園からの幼馴染で、何かにつけて勝負をしては、“勝ったら〇〇”という約束をしていたそうだ。もし、本当に悠太の奥さんになったら、「夏木なつき」になっちゃうじゃないか。幼いながらにヘンだなと思っていたが、悠太はどうだったんだろうか。
以来、私はなんとなくだけど、いつも悠太の存在はあったんだ。色々な意味で。
「おぉい、なつきぃ!」
幼い悠太と私は同時に振り向く。そして、悪ガキどもが大笑い。私たちの幼い頃の思い出は、そんなことばかりだ。悠太にとって「なつき」は苗字で、私にとってはファーストネーム。おまけに私の苗字は「百々(どうどう)」というので、余計にややこしい。勇ましいなつきちゃん、頼もしいなつきちゃん。友達の親からもそんな風に言われて育って、今に至る。名前のせいにはしたくないが、可愛げなく育った気もする。一方、悠太といえば、頭が良くて、物静かで…。女子たちには大モテで私とは正反対のキャラクター。ウチの親たちじゃないけど、逆ならよかった。
「お前さ、なつきって呼ばれて同時に振り向くのいい加減やめろよ。」
「だって、小さい頃からずっとなんだもん。ついつい振り向いちゃうよ。」
「それは小学校低学年までのハナシだろ。さすがにこの年になって、そんなに親しくない女子に下の名前で呼び捨てはないだろ?」
「確かに…。」
「へっ…、めずらし。」
「何が?」
「素直に納得しちゃってさ。」
幼稚園から中学まで悠太とずっと一緒だったから、私はどうしても“なつき”と呼ばれると一緒に振り向いてしまう。でも、いつの間にか悠太は私より先に大人になっていて、こんなつまらない呼び名のことも、私みたいには気にしていない。
悠太と私は、幼馴染というより、家族の様に育った。悠太の母親は、悠太を産んですぐに亡くなってしまった。家も同じ団地の隣同士で、お互いの父親の関係もあって、悠太はよくウチでご飯を食べ、一緒に悠太のお父さんを待ち、時にはウチで寝てしまったりして、一緒に過ごした時間が長かった。母がボソッと、“悠ちゃん、ウチの子になればいいのに”なんて言ってたのを、寝たふりして聞いてしまったことがある。悠太の父親は私を猫っ可愛がりしていたので、何となく微妙な気持ちになった。
そんな悠太が、ある時期を境にウチで過ごす時間を徐々に減らすようになった。鈍感な私は全く気付いていなかったのだが、母が言うには、トイレで私の生理用品を見てしまったからじゃないか、とのこと。その時は、そんなことで…と思ったが、今となっては私の方が恥ずかしい。迂闊だった。ちゃんと見えないところにしまっておけば良かった。そんなことからも、悠太の方が私よりも敏感に物事を感じ取るのだなと思っていた。そう、何につけても、悠太は私より大人だった。私は年相応に天真爛漫で、早い話、バカだったんだ。
中学三年の時、初めて同じクラスになった。小学生の時はクラスが違っても帰り道は同じだったから、いつも一緒に帰っていた。でも、中学に入ってからは、文武両道の悠太と卓球部一筋の私は、親しい友達も含めお互いに自分の周りの世界が変わってしまった。だからなのか。同じクラスになった時は、妙な感じがした。何だか、居心地が悪い。気のせいか、悠太も居心地悪そうだった。そう、アレが復活しまったんだ。
「おぉい、なつきぃ。一緒に帰ろうぜ!」
ふたりして、振り向いてしまったのだ。
「えっ、ドド助には言ってないぜ?」
「あんたが紛らわしい呼び方すっからだよ。」
「ドド助?」
「あいつ、一年の時から私のことそう呼んでるから。」
「なら“なつき”で振り向くんじゃねぇよ。」
「あはははは!いいじゃん、ドド助。親父が聞いたら大笑いしそう。」
「お前ら、知り合いなの?」
「そ。幼馴染。」
「へぇ、初めて聞いた。」
「そりゃそうでしょ。わざわざ言うことでもないし。」
「ドド助、顔赤いぜ。夏木のこと好きなの?」
「何でそうなる!」
「吉田、行こう。ドド助はいいから。」
「ドド助も“なつき”だったの、すっかり忘れてたわ。はははは。」
もう、名前問題はイヤだ。悠太は気にしてないみたいだけど、私は正直トラウマだ。大体からかわれるのは、私。“えぇ、なっちゃん、夏木君と同じ名前なんだ”とか、“なっちゃん、夏木君のこと、好きなんじゃないの?”みたいな。私がムキになって否定するから、余計からかわれるんだろうけど。悠太は全く意に介さない様子で、からかい甲斐がないんだろう。
さっきの悠太と吉田とのやり取りを聞いていた女子たちが、ざわつき始めた。
「ドド助、夏木君と幼馴染なんだって?」
「うん…。そうだよ。言ってなかったっけ?」
「えぇ、いいなぁ。」
「そうかなぁ。そんな風に思ったことなかったな。」
「またまたぁ、そんなこと言っちゃって。」
「本当だよ。昔から知ってると、家族みたいなもんだし。」
「ドド助が羨ましいよ。夏木君、他のクラスの女子たちにも人気だしさ。」
「へぇ~、知らなかった。」
「ドド助は、その辺ちょっと鈍いもんね。」
それは否定しない。というか、出来ない。誰が誰のことを好きかとか、悠太が実はすごくモテるなんてこと、考えもしなかった。鈍いというか、興味がないんだ。きっと。小学生の頃はまだ幼くて、こんなこと考えなくても楽しく暮らせたのに。私はこういうハナシ、苦手だ。ましてや、悠太のそんな噂話を聞くのは、もっと苦手だ。
これまで、当たり前のように悠太と同じ学校に通っていたけど、中学を卒業したら私たちはどうなるんだろう。急にそんな思いが頭を過った。私は悠太みたいに頭良くないし、理系科目は苦手だし、きっと違う高校に通うことになるんだろうな。そしたら、もう二度と私たちの名前問題で悩むこともなくなるだろう。これで、このストレスからも解放される!いよいよ、思い描いていた素晴らしい青春を満喫できるんだ!
何、考えてるんだ、私。本当に楽しいのかな。悠太と違う学校に行くってこと、考えたことなかった。多分、というかかなりの確率で、悠太とは違う進路になる。これまで、悠太がいる生活が当たり前だったから、久々の“なつき”問題で、普段考えないようなことを一気に考えてしまった。
高校受験かぁ。そろそろ三者面談もあるよなぁ。悠太のことは別としても、私自身、進路なんてまともに考えてなかった気がする。いつかは部活も引退しないとだし、勉強モードに入らないと、受験、間に合わないかも。踏切の音が、自分の気持ちを追い立てるように鳴っている。こんなに足取りが重い帰り道は初めてだ。高校生になって、私は何をしたい?その先には大学もあるし、就職もあるよなぁ。他人のことにも鈍感な上に、自分に対しても無頓着すぎて、段々自分が嫌になってきた。ウチの親父や母さんは、私を奔放に育てすぎだ。絶対あのふたりは何かをお手本にした訳ではなく、単純に何をやっても褒めてくれた。というか、両親揃って楽天家だから、ちょっと失敗しても“そんなこともあるわよ”だの“そんな日もあるよ”と言って、大らかに育ててくれた。いやいや、だからと言って、この無頓着ぶりを両親のせいにしてはいけない。なんか今日は、自分の影がやけに長く感じる。
「あれ、なつき?」
この声は悠太だ。親父以外では、悠太だけが私をずっと“なつき”と呼ぶ。そして私も“夏木君”とは呼ばない。もう、考えごとが全部吹っ飛んでしまった。
「なんだ、悠太か。」
「なんだはないだろ?」
「中学の終わりにきて、まさか悠太と同じクラスになるとは思わなかったから、久々に振り向いちゃって自己嫌悪だよ。」
「まだそんなこと気にしてたの?なつきらしくないな。」
「私らしいとからしくないとかって、何よ?」
「そんなこと気にしないって思ってたからさ。あんなの、小学生のころまでだろ?」
「そっか…。悠太は私より大人だよね。」
「なんだよ。拗ねんなよ。」
「拗ねてなんかないよ。」
「ははは。ま、どっちでもいいけど。」
「…。悠太はさぁ…。」
「ん?」
「進路、どうすんの?」
「あぁ、そろそろ本気で考えなきゃだよな。なつきは?」
「それが…。今の今まで全く考えてなかった。」
「あはははは。それそれ!それがなつきっぽい!」
「何よ、さっきから。まるで、おバカちゃんみたいじゃん!」
「そうじゃなくてさ。なつきは大らかでいいよ。」
「それ、褒めてる?」
「褒めてるよ。一応ね。」
「ふん。」
「高校、今迷ってるんだよなぁ。」
「悠太はいいよ。優秀だから色々選べてさ。」
「なんだ、それ?嫌味か?ケンカ吹っ掛けてんのか?」
「そうじゃないよ。悠太は本当に優秀だから。好きなところどこでも行けるなって思ってるんだよ。」
「それ、褒めてる?」
「一応。我が家はみんな、悠太のこと尊敬してるんだから。」
「へー。それはどうも。」
「迷ってるって、なんで?」
「家のお財布事情を考えれば、公立じゃないと無理なのはわかってるんだけどね。なんだけど…。」
「悠太は優秀だから、公立余裕じゃない?」
「地元の公立じゃなくて、他県の高校に行きたいなって…。」
「えっ?」
しばらく、無言だった。地元から出ようと思ってたなんて、予想外だった。
「他県って言っても、通学圏内の他県ってことだよね?」
「いや、もっと遠く。」
「なんで?」
「俺、やりたいことあるんだよね。それが出来るのが、遠いとこの高校なの。」
「…。考えもしなかった。」
「そう?」
「悠太はもう、自分がやりたいことを見つけてるんだ…。」
「まあね。子どもの頃からの夢っていうか。」
「びっくりした…。」
「なんで?」
「悠太は、知らない間に色々考えてたんだね。私なんか…。なんかもう、情けなくなってきた。」
急に、悠太が真顔で怒ったような表情になって私を見た。私、何かまずいこと言ったんだろうか。
「私“なんか”なんて言うなよ!」
「…。」
「たまたま、なつきより早くにやりたいことを見つけただけだよ。」
「それはそうだけど…。」
「“なんか”って言うな!そんな言葉、俺は嫌いだ!」
帰り道の、それはそれは気まずいこと。こんな会話をしたのは初めてだった。というか、お互いの進路を話したことも、言葉遣いでしかられたのも、この日感じた気まずさも全て、これまで経験したことのなかったものだった。
それよりも、悠太が遠くの学校に行きたいと言っている。それが一番ショックだった。私がのほほんと過ごしている一方で、悠太は色々と考えていたんだな。
「で、悠太のやりたいことって?」
「人工衛星の設計者。」
「そんなこと出来る高校って、あんの?」
「高校っていうか、高等専門学校かな。」
あまりにスケールが大きすぎて、もう自分の理解を超えていた。確かに、ここ数年漫画やら人工衛星のニュースやらで宇宙熱は高まっているけど、こんな身近に宇宙に思いを馳せている人がいたんだ。
「多分、親父がダメって言いそう。」
「なんで?」
「そりゃそうさ。高校の学費だけじゃ済まないもん。生活費が倍になるんだぜ?」
「そうだね。」
「ウチはそんな余裕ないよ。」
「…。」
「だから夢なんだよ。」
子どもながらに、諦めて欲しくないと思った。よその家のお財布事情は分からない。だから、軽々しく口に出しては言えない。でも、諦めて欲しくなかった。心からそう思った。一方で、もし悠太の父親がいいよと言えば、悠太は遠くに行ってしまう。それは思いがけないことだけど、でも、悠太の思いが叶うなら、それは応援しなきゃ。
こんな思いが、ほんの一瞬の間にぐるぐると駆け巡っていた。多分、その時の私の顔は、悠太にはアホ面に見えたに違いない。だって、悠太は私のこと不思議そうに眺めていたから。
「なつき、大丈夫?」
「大丈夫…じゃない。」
「なんでさ?」
「たった十分ちょっとの時間に、あまりに多くの情報を聞きすぎた気がする。」
「なんだ、それ?」
「理解が追い付かないんだよ。」
「こんなハナシ、今初めてなつきにした。ってか、人に話したのも初めてだしな…。」
「悠太の夢は、叶えて欲しいよ。」
「うん。」
「早くから目指すものが決まってるって、すごいよ。」
「うん。」
「でも…。」
「でも?」
言葉が出てこなかった。頭も心もぐちゃぐちゃで、しかもなんで“でも”なんて言ったのかもわからなくて、自分でも困ってしまった。悠太は私の顔を正面から見つめている。こいつ、何言いだすんだって感じで。この表情は、遠い昔に見た顔だ。
“悠太は、エリちゃんの隣に座っちゃダメ”
“なんで?”
“なんででも!”
幼稚園のお遊戯の時のこと。悠太は理由がわからないと、私の顔をジッと見る。昔も、今も。私は、悠太を納得させられる理由をロジカルに言えない。昔も、今も。
「遠くに行っちゃうのはやだ!」
途端に、たまらなく恥ずかしく、自己嫌悪で、脱兎のごとく走り去ってしまった。私の背後で、悠太は呆気にとられているに違いない。そして、何でかもきっと分からない。あの時の、幼稚園の“なんででも!”の時と一緒だ。悠太は困ったまま、一人残される。そして、あえて理由を理解しようとはせずに、私を放っておく。でも、翌日は何もなかったかのように“おはよう”って言うんだ。これが、いつもの私たち。
でも、今回は違った。悠太はというと、別に私の後を追いかけることはなく、いつも通り同じ団地の隣の家に帰宅し、私はバタバタと部屋に閉じこもって落ち込んでいた。母さんの“もっと静かにドアを開けられないの”の小言、多分悠太には聞こえているはずだ。それも嫌だ。あぁ、なんか疲れたな。制服のまま、ベッドになだれ込んで、さらに落ち込んでいた。すると、スマホが光った。
「何で遠くに行っちゃうのが嫌なの?」
知るか、バカ!
ー第二章 悠太ー
幼馴染のなつきは、僕の隣人で、同級生で、けたたましい。おまけに親父の大のお気に入りで、それも困る。なつきの親父さんとのヘンな賭け事で僕の嫁に来いと言ったそうだ。僕の選ぶ権利はないらしい。
そもそも、僕たちの名前はややこしい日常の原因だ。特に、幼稚園の頃。
「おぉい、なつきぃ。」
と呼ばれると、ふたりで振り向いてしまう。友達はそれが可笑しくて、何度もからかわれる。そもそも、なつき、と呼ぶときは苗字だと思うのだけど、彼女はそうではないらしい。多分、あっちの親父さんがそう呼ぶからなんだろう。なっちゃんって柄でもないか。
僕には、母親の記憶がない。家に女性がいない。親父と僕の二人暮らしは、なんとも殺風景だ。親父は仕事柄出張や残業が多くて、隣のなつきの家にちょくちょくお呼ばれしていた。お互いの親父同士の仲が良いこともあって、そんな生活は僕にとっては当たり前に感じていた。なつきの家族とご飯を食べて、一緒に宿題したりテレビを観たり。なつきのお母さんに“あんたたち、双子みたいね”なんて言われたこともあったっけ。家に女性がいるっていうのは、やっぱり違う。上手く言えないけど、空気が柔らかく感じる。時々騒々しくもあるんだけど。
でも、こんな僕らにも徐々にだが変化が訪れることに気付いた。何となく毛深くなったかなと思ったときに、
“やだ、悠太、産毛みたいなヒゲがあるー”
となつきにからかわれたことがある。風邪かなと思ったら、声変わりだったことに気付いたりとか。親父にはニヤニヤされるし、なんとも言えない感覚だった。
変化といえば、なつきもそうだ。彼女は色々なことに大らか、というか無頓着で、ある日トイレを借りたとき、見つけてしまったんだ。彼女の生理用品を。自分の身体の変化よりも衝撃だった。あの頃はまだ、女子の生理のハナシとか、男子の変声期などといった思春期の身体の変化の話題はタブー視されていて、きちんと説明してくれる大人がいなかった。この手のハナシは、大抵友達同士のヘンな噂話で語られてしまい、“うそー”だの“やだー”という効果音付きで広まってしまう。
確実に、なつきも大人の女性になっているんだ。そう思った途端、これまでのようになつきのことを見られなくなってしまった。なつき本人はと言えば、僕の心の変化など全く分かっていない。と思う。なつきのお母さんはこういうことには敏感な人だから、きっとお母さんが説明していそうだ。それにしても、これまでよく一緒にはしゃいだり同じ布団で眠ったりしたものだ。色々な知恵がつくにつれ、いよいよなつきと一緒に過ごすことに居心地悪くなってきた。
幸か不幸か、小学校を卒業して中学に入ってからは、同じクラスにならずに済んだ。少子化の割に地元の中学はクラスがそこそこ多くて、なつきとの関係が薄まってくれていい。それに、部活や友達といった環境も僕らの距離を変えて行った。そのせいか、なつきと過ごす時間もどんどん減ってくれて、ある意味助かった。
なのに。なんで、中学三年で一緒のクラスになるんだ。別になつきを避けていた訳ではない。でも、あの日を境に自分から距離を取り始めていたのは確かだった。だから、今さら同じクラスになってどう接すればいいんだ。僕はこの手の対応が苦手だ。唯一救いなのは、なつきは良くも悪くも鈍感だ。自分が考えすぎさえしなければ、きっと大丈夫だろう。そう思っていた。
デジャヴ。
「おぉい、なつきぃ。一緒に帰ろうぜ!」
ふたりして振り向いてしまった。そして、案の定、からかわれてしまった。なつきが。だから前にも言ったんだ。幼稚園とか小学校の低学年ならまだしも、そんなに親しくない男子が女子を下の名前で呼び捨てになんかしないって。おまけに、彼女は“ドド助”と呼ばれていたことも分かって、僕には面白すぎた。誰がつけたか知らないが、楽しいニックネームを考えてくれたものだ。なつき自身は百々(どうどう)という苗字にコンプレックスを持っていて、どうしてもか弱い女子には見てもらえないと悩んでいた時期があった。いつまでなつきと一緒に過ごせるかはわからないけど、僕と離れれば、“なっちゃん”とか、“なつき”とか呼んでもらえる日がくるから、落ち込むなよって言ってやりたい。
多分、その離れる日というのは、高校進学だろう。実は、普通の高校ではなく、高等専門学校を密かに希望していて、それはなつきと同じ進路ではない。ただ、まだ親父にも相談していないので、親父のお許しを得られるかはわからない。志望校の高専は県外だから、高専進学は、経済的な負担を親父に掛けてしまう。それに、親父は地元の進学校を目指すものと思っているから、余計に話しにくい。
お前の夢は大学で目指せばいいだろうと言われてしまうと、それもそうかも知れない。いずれにしても、我が家の財布には痛い話だから、なかなか決められずにいる。
僕はなつきのように表情や表現が豊かではないから、こういう気持ちを誰かに伝えたり、ぶつけたりするのが苦手だ。彼女は、僕のことを冷静沈着な秀才のように言うのだけれど、決してそうじゃないんだ。ということをわかって欲しいのに、難しい。でも、だからこそ、なつきのある意味大らかなところに救われている。時々、意味不明なことを言って僕は困ってしまうのだけど、それはそれでいいかと思っていた。これまでは。
デジャヴの帰り道、呆然と歩いているなつきに出くわした。“おぉい、なつき”でふたり一緒に振り向いてしまったことを、殊の外悔やんでいるようだった。まだ、そんなことを気にしているのか。もう、中学三年だぜ?でもそれは、僕だけの理屈のようだ。その続きで言えば、僕だけの理屈は他にもあって、僕の中では“なつき”という名前で繋がっている関係に、何とも言えない特別なものを感じていた。アホな親父が「夏木なつき」になるんだぞ、素晴らしいことじゃないか、って酔っぱらってよく言っていたけど、ある意味的を射ている気もした。滅多にないことだと、僕も思ったから、面白いなって。普通、女子は結婚したら苗字が変わるけど、なつきはずっと“なつき”だ。こんなこと僕が思っているとは、到底想像もつかないだろうな。言うつもりもないけど。当のなつきは、どう思っているんだろうか。
唐突になつきから進路について訊かれたとき、正直驚いた。彼女からそういうハナシを振ってくるとは思っていなかった。なつきが、僕の進路に興味を持ってくれたなんて、思ってもみなかったから。そして、誰にも話せずにいた将来の思いを話すなんて。同時に、なつきの進路も気になった。でも、実際は僕自身の進路を話すだけに終わった。いや、正しくは、驚かせて不機嫌にさせて、結果彼女は逃げ出してしまった。なんだ、これは。ただ、僕にとっても自分の中で温めていた思いを初めて口にしたので、正直僕自身も動揺していた。思っているだけの状態と、それを誰かに伝えることとでは、こんなに違うものなのか。自分でも正直驚いた。
それでも、どうしても分からないのは、なつきが物凄い勢いで走り去ってしまったことだ。幼い頃から、なつきはいつも意味不明なことを言っては、話を途中でやめてしまう癖がある。そして僕は、いつも困惑してしまう。何でそんなことを言ったのか。ハッキリしないから、その日中ずっとモヤモヤしてしまう。そのうち、もうどうでもいいやと思って、諦めて寝てしまう。それが、これまでの僕らだった。
でも、だ。今回は諦めたくないと思った。「遠くに行っちゃうのはやだ!」
そう言い放って走り去った。僕はそれで放置状態だった。まだ、遠くに行くとは決まってない。親父が許してくれるかもわからないのに。そもそも、合格するかもわからないのに。もしかしたら、なつきが遠くに行くかもしれないじゃないか。こういう時のなつきは、いつも「なぜか」がない。理由が分からない。そして、僕はそれについて悶々として、消化不良になる。多分、なつきとは同じ高校には行かないだろう。だからこそ、今までみたいに悶々としたまま解決した風を装うのはやめようと思った。頭の中は不安でいっぱいなのに、態度だけは冷静だ。なつきの猛スピードには追い付ける自信はなかったし、どうせ隣に住んでいるのだから、いつも通りに帰宅すればいい。案の定、バタバタとにぎやかにドアを開けて家に入るなつきの音や、お母さんが注意する声は聞こえた。これもいつもの日常だ。自分の部屋で、なつきはどうしているんだろうか。隣に住んでいて、わざわざ呼び出すのもおかしいか。きっと、なつきのお母さんも好奇心満々で色々聞いてくるだろう。
散々逡巡して、ラインを送ることにした。
「何で遠くに行っちゃうのが嫌なの?」
僕にはこれが精いっぱいだった。
ー第三章 嵐ー
返事に困る。どうしたら、悠太が理解できるように伝えられる?返事するの、やめようかな。
「あんた、さっきから夕飯出来たって呼んでたのよ!」
母さんはいつも突然だ。こちらの都合はおかまいなしだ。
「急に部屋入るの、やめてよ。」
「だって、ご飯冷めちゃうじゃない。」
「わかったってば!行けばいいんでしょ?」
親父はこのところ残業が多くて、母さんとふたりの夕食が多い。親父がいたら、どうせ母さんと一緒になって不機嫌の理由を訊くだろうから、まだ二人飯の方がいいか。
「あんた、不愛想で感じ悪いわね。なんかあった?」
「別に…。何も。」
「そ。なら、いただきまぁす!」
母さんの能天気も、今日はいつも以上にイライラする。悠太の意味不明なラインも気になる。違う、意味不明なのは私の方だ。あぁ、やだなぁ。
「そういえば、あんた、高校、どうするの?」
「…。まだ、何も考えてない…。」
「えぇ、そんなので間に合うの?」
「わかんない。」
「わかんないって…。行きたい学校くらいはあるでしょ?それもないの?」
「そんなことないけど…。すごく行きたいかって言われると、そうでもないっていうか…。」
「何よ、それ。自分の将来のことよ。どうでもいい学校なんて選ばないでよ。」
「どうでもいい学校?」
「惰性で選ばないで欲しいっていう意味。まだまだ、この先いっぱい可能性があるんだから、自分が行きたいと思う学校に行って欲しいだけよ。」
「はぁ…。やっぱり悠太はえらいな。」
「悠ちゃん?」
「うん。もう進路も決めてるみたいでさ。」
「さすがは悠ちゃんね。優秀だし、悠ちゃんなら、好きな学校行けそうだもんね。」
「すみませんね、優秀じゃなくて。」
「バカね、何ひがんでるのよ。なっちゃんは、なっちゃんらしく、行きたいところに行きなさい。」
だから、その“なっちゃんらしく”って何なのよ!悠太にも言われたけど、私らしさって何か言ってみてよ!と胸の内ではものすごく怒りまくっていたけど、母さんにぶつけるのはやめた。なんでこんなにイライラするのか。母さんの能天気のせいではない。悠太のラインのせいだ。そうじゃない。私が走って逃げたせいだ。母さんとしゃべっていて忘れかけていたのに、あの妙な気持ちが蘇ってしまった。
返事、送るべき?放置しておくべき?悠太の顔見てちゃんと言えないから逃げたのに、それをラインなら上手く伝えられるのか?そんなわけない。
急にリビングの電話が鳴った。不意を突かれたので、必要以上に驚いた。
「なっちゃん、大変。」
「また、大騒ぎして!何なのよ!」
「お父さんから電話で…。とにかく、こっち来て!」
母さんはまだ受話器を持ったままだった。
「親父、何?」
「なつき…、悠太の親父さんが…。親父さんが、たった今亡くなったんだ。」
「えっ?」
「悠太に電話しても繋がらないから。悠太は帰ってないのか?」
「帰ってるよ。さっき、一緒にこっちに戻ったから。」
「じゃぁ、お前、悠太呼んで来い。電話、このままでいいから…。」
わけが分からないまま、靴も履かずに飛び出した。悠太の家の灯りは点いている。中にはいるはずだ。何でスマホに出ないんだろう?とにかく、ドアをドンドン叩いた。
「悠太!悠太いるっ?」
ちょっと不機嫌そうにドアが開いた。
「うるせぇな。近所迷惑になるだろ。」
「いいから、急いでウチに来て!」
「なんで?」
「いいから!」
悠太の腕を引っ張りこんで、保留の受話器を悠太に渡した。
「…。悠太です。…えっ?…はい…はい…、わかりました。今すぐ向かいます。」
「悠ちゃん、大丈夫?」
「おばさん…。とにかく、行きます。」
「みんなで一緒に行こう!ね、なっちゃん。」
「わ、わかった。行こう。」
多分、誰一人、状況を呑み込めていない気がした。悠太は、いつものように冷静にみえるけど、絶対に理解できなくて困ってるはずだ。三人でタクシーに乗り、悠太が行き先を告げて、ぎゅうぎゅうになりながらタクシーの中で無言だった。私には、悠太の父親が亡くなったことしか分かっていない。多分、母さんは大まかなことは聞いているだろう。それにしても、親父からの電話に悠太が冷静に答えていたのが気になった。私だったら、きっと大騒ぎするか泣きじゃくって、周りを困らせていると思う。ことの経緯を何となく聞きにくくて、病院の夜間入り口まで皆、無言だった。
入り口には親父が待っていた。
「悠太、こっちだ。」
親父に促されて、親父と悠太が先に医者のいるところへ行った。まずは、悠太が父親に会うべきだ。母さんと私は、落ち着くまで離れたところで様子を窺っていた。
「母さん、悠太のお父さんは…。」
「くも膜下出血だって…。」
「なんで親父は悠太のお父さんと…?」
「たまたま、駅で会ったらしいわよ。そうしたら、突然激しい頭痛を訴えて…お父さんが救急車呼んで…、それで…。」
「母さん、もういいよ。」
親父と悠太が処置室の様な部屋に入っていくのが見えた。嗚咽の様な、うめき声の様な…。でも、それは悠太ではなく、ウチの親父だった。悠太は大丈夫なの?母さんが私の背中に手を置いた。私たちも行こう、の合図だ。悠太は、本当に大丈夫なの?親父の号泣だけが聞こえてきて、バカみたいだと思った。本当に悲しいのは、悠太じゃないの!悠太に失礼じゃないの?病院の冷たい廊下で、私は得体の知れないイライラを抱いていた。
部屋に入ると、案の定、ドラマチックに泣いているのはウチの親父で、悠太はとても冷静だった。というか、冷めて見えた。ただ一点、悠太の父親の顔を見つめている。大泣きの親父とはあまりに対照的過ぎた。
「悠太…。」
「なつき…。」
「悠太、お父さんとふたりきりになりたいでしょ?」
悠太は無言だったけど、それが私には“うん”の返事だった。それは、今でもそう思っている。号泣する親父と母さんを押し出すように部屋から追い払い、悠太と父親との時間を作った。
どのくらいの時間が経ったのだろう。しばらくすると、悠太の静かな泣き声が聞こえた。悠太は、あまり感情を露にする方ではない。だからといって、感情がないわけではない。敢えて表さないのか、それとも感情表現が得意ではないのか。私は、傍目で見ていてあまりにも静かすぎるから、逆に悠太のことがとても心配だった。
誰に言われるともなく、悠太のいる部屋に入っていった。悠太の父親は、身体の大きな人だった。そんな人が、目の前で白いシーツに覆われている。気のせいか、悠太よりも小さく見えた。
「悠太。」
「突然で…。なんかまだ、分からないんだ。」
「うん…。」
「こういう時って、泣くものでしょ?」
「どうなのかな…。」
「俺、心がない人みたい?」
「何言ってるの!そんなわけない!」
思わず、悠太をハグした。悠太はされるがままで、でも、頭だけ、私の肩にあずけてくれた。親が亡くなって泣かない人なんていない。そんな決めつけ、したくない。悠太は、ただ突然のことに戸惑っているだけだ。そうなんだ。悠太は困惑すると、黙ってしまう。それはいつものこと。いつもの悠太なんだ。
しばらくすると、親父と母さんが入ってきた。
「悠ちゃん、今日はウチに泊まりなさいね。」
「でも…。」
「大丈夫。泊まりなさい。」
「悠太、そうしなよ。」
わざと強く言うと、黙って頷いていた。もう、喋ることもつらいだろう。医者に呼ばれて、悠太と親父は色々と説明やら手続きやらを進めていた。まだ十五なのに、ひとりで何もかも対応しないといけないなんて。もちろん、私たちも悠太を支えるけれど。ひとりにはしないけど。でも、二人家族だった悠太は、その大事な家族を失ってしまった。自分が生まれてすぐに母親を亡くし、そして今父親を失い…。そういう環境とか経験が、悠太を早くに大人にさせてしまったのだろう。そんな気がした。
私たちが住んでいる団地は、自治会がとてもしっかりしている。悠太の家のことも、同じ階の馴染みのおばちゃんたちや自治会長のおじさんがとても親切に対応してくれて、お通夜もお葬式もあれよあれよという間に無事に終わってしまった。私は母さんと一緒に受付やら弔問客のお茶出しなどを手伝っていて、悠太の相手をする間もなかった。ただ、受付の合間、親族席側を見ると、意外と親族が少ないんだなと、変なところに目が行ってしまった。
喪主の悠太は、とても大人びて見えた。私たちの同級生たちも来てくれて、本人よりも泣きじゃくっていた。“夏木君、かわいそう”、“悠太、大丈夫かな”などなど。悠太本人は冷静に弔問客に会釈しているのに。そう思うと、私まで妙に冷静になっていた。
「ドド助、受付手伝ってるんだ。」
「うん。同じ団地に住んでるから。お手伝い。」
「ドド助って、幼馴染なのに冷静なんだね。」
「どういう意味?」
「いや、あんたが一番泣いてそうだと思って。意外と平気なんだね。」
無視するに限る。泣かないと、冷酷な人間ってことなの?悠太と私の関係は、あんたたちには分からないから!本当にイライラする。
霊柩車の大きなクラクションが、色々なつまらない空気を一変させた。遺影を持つ親父と共に助手席に乗った悠太は、きちんと頭を下げ、団地の人たちや同級生たちの間を通り過ぎて行った。遅れて、母さんと私も火葬場へ向かった。小さなマイクロバスに、私たち家族と、高齢のご夫婦と…。空席が目立って、寂しい。そうか、悠太のお父さんも一人っ子だから、親族が少ないのかな。あの人たちは、悠太のおじいちゃんとおばあちゃんなのかな。勝手に想像を膨らませて、窓の景色を眺めていた。それくらいしか、やることがない。皆、無言だった。
荼毘に付すって、初めてだ。そもそも、誰かの死に立ち会うとか、お葬式や火葬に参列することが初めてだ。幸いなことに、私の両祖父母は健在だし、親戚関係にそんなことがあっても、参列するのは両親だけだったし。
「これが、最期のお別れです。」
そう言われて、皆柩の小窓に集まった。悠太が小声で“父さん”と呟くのが聞こえた。係員の人が、小窓を閉めてしまう。ガラガラと柩が炉へ収められてしまった。読経の声。湿っぽさを含んだ、すすり泣きの空気。私は少し遠巻きに皆を眺めていて、人の最期の呆気なさとか、人がいなくなることの寂しさ・悲しさが入り混じった色々なものが一気にやってきて、一筋、涙が流れてきた。待合室に案内され、ぞろぞろと部屋に入っていくのだが、何となく居づらくて、火葬場の庭に出て行った。部屋の空気がとても重たくて、私では処理できない。処理は違うか。空気の重たさを受けとめきれない。
すると、悠太もやってきた。ひどく疲れた顔の悠太は、私を見つけて少し笑った。
「なつきは、あんなの耐えられないだろ?」
「あんなのって?」
「重たい空気の詰まった部屋。」
「あぁ。そういう意味なら、当たり。」
煙突から、煙が風に吹かれて斜め上に流れて行くのが見えた。この日は、曇天。煙の灰色があまり目立たない。それはいいことなの?悠太と私は、ずっとあの煙を見ていた。
「あれ、親父かな…。」
「悠太のお父さん、どこ行っちゃうのかな。」
「母さんのとこに決まってるだろ?」
「そうだ。バカだね、私。」
「なつき…。」
「何?」
「俺、ひとりになっちゃうんだな…。」
「私たちがいるよ!いつでも来ればいいよ!」
「相変わらず能天気だな。なつきは。」
「なんで?」
「未成年なんだから。ひとりであの家に住めるわけないだろ。」
「あぁ…。」
「じいちゃんとばあちゃんの家に行くことになるからさ。」
「えっ?」
悠太が私たちの団地から引っ越してしまう。こんなことは、予想外もいいとこだった。そもそも、悠太の父親がこんなに呆気なく亡くなることも想定してなかったんだから。
「高校進学なんか、もう関係ないな。」
「どういうこと?」
「色々と整理したら、引っ越しだから。」
「どこに?遠いの?」
「福岡。」
「そんな遠いとこ…。」
「な、びっくりだろ。でも、同じ日本なんだし、会えなくはないよ。ただ、時間と旅費がかかるだけ。」
「こんな時も、悠太って冷静なんだね。」
「冷静なもんか!」
急に声を荒げたので、驚いてしまった。で、気まずい私たちは、しばし無言。本当に、遠くへ行っちゃうんだ、悠太。しかも、高校進学というハッピーな理由ではなくて。
「なんかさ、急にすんげぇ嵐が吹いてきて、別世界に吹き飛ばされた感じ。」
“嵐”というのは、私にもわかる。悠太にとって、初めて嵐に巻き込まれたんだろう。嵐には抗えない。気が付けば、全く知らない世界に飛ばされている。私にとっても、悠太の置かれた状況は正に“嵐”だ。悠太は、また私の顔を真正面で見つめている。きっと、私は相変わらずのアホ面をしていたんだ。
「そんな顔するなよ、なつき。」
「また、アホみたいな顔してた?」
「そうじゃないよ。俺とおんなじ目をしてるみたいな気がしたんだ。」
「同じ目?」
「なつき、ごめん。泣かせて。」
そう言って悠太は私に抱きつくと、初めて大声で泣いた。私も泣いた。悠太と一緒に、大声をあげ、父親の名前を叫び、悠太は“馬鹿野郎”とも叫び、とにかく思いつく限りの罵詈雑言を言いながら、ふたりで泣いた。
泣くだけ泣いたら、今度は知らないうちに大笑いしていた。なんで、火葬場で笑えるんだ?不謹慎だけど、ふたりで大笑いしていた。ここには誰もいない。大人たちのいる部屋に聞こえているかも知れないけど、私たちが気付いてなければ聞こえていないのと同じだ。
「なつきは、なつきのままでいろよ。」
「悠太は、どんどん大人になっちゃうのに、私だけおバカちゃんでいろってこと?」
「違うよ。大らかなままでいて欲しいってこと。」
「わからん。」
「あはは。いいんだよ。そのままで。」
「何で急に変なこと言うの?」
「いつか、久々になつきと再会したときに、なつきが変わってたらやだなって…。」
「悠太は、もう遠くに行っちゃった後のことまで考えてるんだね。」
「だってさ、現実にそうなるんだから。」
「悠太は、いつも私なんかより先のことを見てものを言うね。」
急に、怒った顔になった。
「だから、私“なんか”って言うな!俺はそういう言葉は嫌いだ!」
「なんで?前も言われたけど、なんで?」
「…。親父の口癖だったからだよ。」
「えっ?」
悠太はしばらく黙り込んでいた。悠太のお父さんの口癖?そんなの初めて聞いた。
「ウチの親父、なつきの親父さんに嫉妬してたんだよ。」
「えっ?なんで?」
「なつきの親父さんとウチの親父、同じ大学目指してたんだよ。で、ウチの親父はダメだった。多分そのことがあってから、なつきの親父さんには敵わないことがあると、“俺なんか”って言いだすんだ。」
「知らなかった。」
「そりゃそうさ。言わなかったんだから。ウチの親父が勝手に引け目を感じてたんだし。」
「悠太は、ウチの親父、嫌い?」
「そんなことないよ。俺はなつきの親父さん、大好きだよ。」
「なら、良かった…。」
「“なんか”って、卑下する言葉だろ?俺は嫌いなんだ。自分を卑下すること。」
「そうなんだ。」
「卑下する暇があるなら、努力しないとだろ?何の努力もしないで、“どうせ”とか“なんか”とかって、腹立つ。ウチの親父も悔しければ、努力すれば良かったんだ。それでも、なつきの親父さんに勝てなかったときは、それは仕方ないんだよ。自分のプライドが高すぎて、受け入れられないんだ。」
自分の父親が亡くなって火葬されている場所で、随分厳しいことを言うのに驚いた。悠太は、その思いをお父さんにぶつけたことはあるんだろうか。それとも、今まで言いたくても言えなくて、この瞬間に爆発させたんだろうか。いずれにしても、私は自分の両親にそこまで深い考えを抱いたことがなかったから、悠太の厳しさにただただ驚くばかりだった。今、私は悠太の横顔を眺めている。悠太が厳しい目になったり、変だけど頼もしい表情になったり、今までに見たことのない、少年ではない顔の悠太がいた。この瞬間が、私たちの“嵐”だった。私の知っている悠太は、嵐とともにどこかへ行ってしまった。
「悠ちゃぁん、なつきぃ、どこにいるのぉ?もどってらっしゃぁい!」
母さんの声だ。天の助けだった。どのくらい、悠太とふたりきりの時間を過ごしていたんだろうか。初めて聞く話、初めて感じる悠太への思い、何もかもがドラマみたいだった。母さんの声で安心する自分。ついこの間は、何かにつけてイライラしていたくせに、調子が良すぎる。悠太も、我に返ったように、いつもの悠太に戻っていた。ふたりとも、制服がしわくちゃで、不作法この上ない。
ご遺骨を納める。悠太と一緒に、お父さんのご遺骨を骨壺に入れた。あんなに大きな身体が、こんな風になっちゃうのか。
「悠太、まだしばらく面倒な手続きがあるぞ。大丈夫か?」
「はい。祖父母もしばらくいてくれるというので。何とか。」
「悠ちゃん、いつでもウチにいらっしゃいよ。ご飯もウチで食べたらいいからね。」
「はい、有難うございます。」
「悠太…あの…。」
「大丈夫。なつきも色々有難うな。」
終わってしまえば、あっという間だった。ご遺骨になったお父さんを抱いて、悠太とお父さんのご両親は先に団地へ帰った。一緒に帰るのかと思ったのに、親父が今日はそっとしておこう、と言う。
「呆気ないな。」
「急過ぎたわよ。私たちだって、心の準備が…。」
「なつき、どうする?」
「何が?」
「あいつが言ってたこと、本当に遺言になっちまったよ。」
「だから、何が?」
「“夏木なつき”にするんだ。って話。」
「こんな時にバカなんじゃないの?親父!」
本当にデリカシーが無さすぎる。この期に及んで、まだそんなこと言うか!と親父の方を振り返ると、親父は静かに泣いていた。
ー第四章 それぞれー
福岡は、なつきみたいなところだ。人が温かくて、大らかで。特に博多は、大昔から外国との交易が盛んな商業都市だから、色々な人を受け入れてくれる文化がある。と勝手に思っている。どこの国の人かなんてことは、関係ないよ、そんなことどうでもいいことだよって、思わせてくれる。この懐の深い感じが好きだ。
ただ、最初に福岡の街に着いて目に入った大弾幕『九州独立宣言』には驚いた。マジでそんなこと思ってるのか。でも、それはそれで面白いな。じいちゃんが教えてくれた。
「悠太、九州は日本じゃなか。アジアやけん。」
見つめている先が広い。日本じゃなく、アジア。そんな発想は持ったことなかったから、珍しく興奮した。これまではなつきとの団地と学校圏内が自分の世界だったから、本当に狭いところにいたんだな。親父の死については、正直気持ちの整理はついていないけど、このことがなかったら、福岡に来ることもなかったと思うと、変だけど親父に感謝だ。
福岡に越す前、なつきとふたりで別れを惜しむわけでもなく、団地最後の夜をただただ喋って過ごしていた。
「悠太のお父さんって、九州男児だったんだ。」
「いや、九州男児はじいちゃんだけだよ。」
「そうなの?」
「じいちゃんは、大学進学でこっちに出てきて、ばあちゃんと結婚。親父はこっちで生まれ育ったから、ほとんど福岡へは行ってないよ。」
「へぇ、そうなんだ。」
「もし、じいちゃんが福岡を出なかったら、親父となつきの親父さんは会えてなかったし、なつきにだって会えなかったんだから、ある意味奇跡じゃない?」
「そうだね。“名前問題”もなかったしね。」
「まだ、それにこだわってるんだ。もう俺もいなくなるから、解決じゃん。」
「それはそれで、なんか物足りないな。」
「意味不明。あんなに嫌がってたくせに。」
「いいよ、もう!悠太にはわかんないよ!」
でた、僕の困惑するやつ。なつきの得意な「なぜか」のないやつだ。でも、それも今日で終わりなんだな…。それはそれで、寂しいような。意外と僕にも感傷的なところがあったんだ。
「悠太、福岡行ったら、高校はどうするの?」
「また、一から考え直し。」
「高専進学は?」
「う~ん、今となってはないと思う。」
「そっか。」
「じいちゃんは地元の開業医だから、そういう意味では行けなくはないんだろうけど。せっかく俺を引き取ってくれるのに、ふたりをおいて遠い学校へ進学なんて、それはちょっと…だろ?」
「高専のこと、相談してないの?」
「してない。」
「なんで?」
「答えが分かってるから。」
「えっ、そうなの?」
「じいちゃんは絶対、俺の行きたいところに行けばいいって言うよ。」
「なら、高専も諦めなくてすむじゃない。」
「それはそうだけど、きっとそういう風に言ってくれるって分かってるから、俺は高専に行くのをやめるんだ。」
「う~ん…。」
「ははは、なつきにはわからないかもな。」
「私、思うんだけど。おじいちゃんは、自分のために悠太の夢を諦めて欲しくないんじゃないかな。もしそれが分かったら、おじいちゃんは“自分のせいで”って思うような気がする…。」
「それも、考えたさ。」
「悠太はさ、ちゃんとおじいちゃんと進路のこと話した方がいいよ!」
「なんだよ、急に。」
「悠太はね、頭で色々考えすぎて、行動を起こす前に結論出しちゃうじゃん!それって、悠太の良くないとこだよ。」
「なつきだって、いつも俺を困らせてちゃんと説明しないで逃げちゃうじゃないか!」
「それは…ちゃんと自覚してるよ。でも、今回は、私の方が正しい自信がある!絶対!」
「なんで?」
「なんででも!」
こんな時、僕はいつもなつきの顔を見つめてしまう。いつもなら、なつきも言い返せなくて意地になるのだが、今回は自信満々だ。相変わらず「なぜか」はない。でも、なつきの言うことにも一理あると、モヤッとだけど納得してしまった。
実は、高専を諦めるのにはもうひとつ理由があった。親父が期待してくれた「地元の進学校」とやらに挑戦してみるか、とも思ったんだ。それに、今回の福岡移住は、僕にとってある意味ワクワク感もあった。せっかく引っ越すんだから、それこそ新天地で頑張ってみたい。確かに、なつきたちとの生活から離れてしまうのは寂しいけど、もっと違う世界も知ってみたい。そして何より、親父の原点にも触れてみたいと思った。
親父の原点。それは、“どうせ俺なんか”を口癖にせしめたものを知ること。僕にとって、親父は最高の親父だったのに。なぜ、親父は自分を卑下することばかり言うんだろう。親父の田舎で暮らすことで、それが少しでも分かれば、何となく親父に近づける気がしていた。それが、例え嫌なもの、僕が知る必要のなかったものであったとしても、ある日突然いなくなってしまった親父の穴を、ちょっとでも埋められるんじゃないか。これは、なつきには言わないでおく。なつきの親父さんは、親父の幼馴染で、且つ嫉妬の対象だから。その理由も、どこかの過程で分かるんだろうな。
そうだ。今こそアレを訊いてみよう。
「なつきさぁ。」
「うん。」
「どうしてあの時、遠くに行っちゃやだ!って言ったの?」
「えっ?」
明らかになつきを困らせている。でも、僕自身、あの日勇気を出してラインまで送ったんだから、親父の一件で有耶無耶にしたくなかった。だって、本当に遠くに行くんだから。
「あ…あれは、咄嗟に出た言葉だから…。」
「うん。でも、どうしてやだって思ったの?」
「どうしてって…。」
「既読がついてたのに、返事くれなかったでしょ?」
「だって…あの後…。」
「それはそうだけど。俺としては、聞いておきたい。」
「なんで?」
「だって、本当に遠くに行くんだから。」
「…。」
「なつきは分からないと思うけどさ。俺、何でなつきがそんなこと言って走り去ったのか、本当にモヤモヤしてたんだ。いつもなら、もう放っておこうってそのままにしたんだろうけど、今回は、どうしてもその訳を知りたいって思ったんだよ。だから、俺なりに勇気を出して、ライン送ったんだ。」
「そうだったんだ…。」
「そんな珍しいこともあるんだよ。」
「確かに…悠太らしくないね。」
「聞かないと、後悔しそう。」
言うだけは、言った。これ以上は追い詰めそうだから、黙ることにした。なつきは言ってくれるだろうか。それとも、「なぜか」はやっぱりなしなんだろうか。そして、僕は何を期待していたんだろうか。なつきが答えてくれて、もし僕の期待とは違っていたら、僕はどうなるんだろう。
「悠太は…ずっとそばにいるもんだって思ってたから。悠太がいない生活が想像できなかった。」
「そっか。」
「それに…。」
「それに?」
「いなくなって欲しくなかった。」
「そっか。」
「うん。」
期待外れではないけど、お互いに何か核心を突くような言葉を避けているようだった。それが何かは、当時の僕らは分からなかった。いや、分かっていても、お互いのそれが違ったらどうしようと、きっと怖かったんだと思う。少なくとも、僕は。
「寂しくなるよ、なつき。」
「うん。」
「でも、これまでみたいに毎日じゃなくても、会えるじゃないか、いつか。」
「うん。」
「今度会えるとしたら、お互い高校生になってるかな。」
「私、本当に高校生になってるかなぁ…。」
「バカ、なってるだろ?」
「まだ、高校どうするか決めてないんだ…。」
「いつか、行きたい学校を見つけられるさ。」
「そうだといいんだけど…。」
最後の団地の夜は、雨のにおいがした。最近雨続きで、真夏前のこの湿度の高いジメッとした肌感が嫌いだ。夏休みには引っ越して、新学期を福岡の中学で、という予定だから、もう夏祭りをなつきと行くこともない。どうせ、夏休みは夏期講習だから、遊んではいられないんだし。中学三年は厄介だ。
「ねぇ、悠太…」
「何?」
「ライン、くれるよね?」
「あはは!そんなこと気にしてんの?大丈夫だよ。」
「電話もしていいよね?」
「それはいつも通りでいいって。」
「ただ、距離が離れるだけなんだもんね。それ以外は、これまで通りだよね?」
「そうだよ。」
なつきが、少し落ち着いたみたいだ。本当に離れてもこれまで通りかは、正直分からない。でも、僕自身も、その日はなつきと同じ思いだった。
「なつきさぁ。」
「うん。」
「日本中にいっぱい“なつき”がいても、俺にとっては“なつき”はなつきしかいないから。」
「え?」
今度はなつきが困惑している。ざまぁみろ!訳がわからない顔をすることが、どんなに心穏やかじゃないか、少しは分かったか?しかし、そんな勝ち誇りは束の間だった。
「“なつき”という男子がいても?」
なつきのトンチンカンに、僕がやられた。
「そうだよ。」
「そうなんだ…。」
「あはははは。やっぱ、なつきらしくてほっとした!」
「だから、何よ!“なつきらしい”って!」
「そういうとこだよ。」
団地最後の夜に、なつきと話せてよかった。
結局、じいちゃんと進路について相談することはなかった。なつきには悪いけど。引っ越した日から、実は博多の街を気に入ってしまったんだ。引っ越し業者のおにいさんたちが話している博多弁が、僕にはとても心地よくて、あんな風に僕もしゃべってみたいって、本気で思った。超クールだ!淀みなく博多弁を使いこなしたい!英語よりも博多弁でバイリンガルだ!なぜここまで僕が興奮状態なのか、自分でも分からない。とにもかくにも話せるようになりたかった僕は、「〇〇と?」と真似して喋っていたら、
「お前は語尾に“と”をつければ博多弁しゃべってると思ってるだろ!恥ずかしいから普通に話せ!」
とじいちゃんに笑われた。ばあちゃんはこちらが地元ではないから、方言は話さない。じいちゃんも、東京が長かったから、地元の友人知人そして患者さん以外には、あまり博多弁を使わない。つまらない。
「悠太は、高校はどうするんだ?」
「まだ、こっちの学校をよく知らないから、予備校の先生と相談してる。」
「将来、何になりたいと思ってるんだ?」
「う…ん。」
「まだ、決まっとらんのか。」
「そういうわけじゃないけど、今のうちから絞り込むのはやめておこうかと。」
「まぁ、選択肢が色々あるのはいいことだ。」
「うん。」
「太はなんか言ってたか?」
「親父?」
「あぁ。あいつと進路のこと話してなかったのか?」
じいちゃんに改めて言われると、確かに地元の進学校へ行けと言われた以外には、深い話はしてなかった。
「親父は、地元の進学校に行かせたかったみたいだよ。」
「ふん。太らしいな。」
「そうなの?」
「まずは、進学校に行く。そういうのが、太の考え方だったからな。」
「へぇ。そうだったんだ。」
「お前はとても優秀だって聞いてるぞ。」
「どうだろうな…。」
「太は…、お前の親父は自分で目標を立てるっていうよりも、親友の影響で学校を決めていたようだったから、悠太はちゃんと自分で決めろよ。」
「親友の影響?」
「ほら、あの…何って言ったか、変わった苗字の人だよ。」
「あぁ、百々さん?」
「そうそう。そうだった、そうだった。その百々さんと仲がいいのはいいんだが、太は百々さんに依存していた感じがあってな。」
「そうなの?」
「依存、ってのは言い過ぎか。影響されていたのというのかな。太の話を聞く限りでは、百々さんはとても自立していて、性格も頭もよくて、惚れ込んでいた感じだったな。」
「惚れ込む…。」
「男が男に惚れこむってこと。」
「へぇ。そんなハナシ、初めて聞いた。」
「じいちゃんにも、いたぜ。そんな存在の友人がさ。ああいう風になれたらいいなっていう、尊敬できる奴が。ただ、だからって、同じ高校・大学に行きたいとは思わなかったけどな。」
「百々さんとは、高校まで一緒だとは聞いたけど。」
「大学で失敗したんだろ?太が。」
「そう。」
「そもそも、百々さんと太では行きたい学部が違うんだから、別に同じ大学にこだわる必要はなかったと思うんだけどなぁ。」
「それはそうだね。」
今となっては、じいちゃんも僕も親父の本当の気持ちを知ることは出来ないのだけど、何とも言えない違和感を覚えた。
「じいちゃん、それって、幼馴染だから感じる気持ちかなぁ。」
「さぁ、どうだろうな。でも、幼い時からずっと長いこと親友っていうのは、他の友達関係とは違うんだろうな。多分。じいちゃんには、太みたいな幼馴染はいないから、太の気持ちは分からんかもな。」
この時、ふとなつきを思い出した。いつも一緒にいるのが当たり前の関係。なつきは女子だから、親父同士の関係とはまた違うんだろうけど、じいちゃんの言う“他の友達関係とは違うんだろう”ということは、何となく理解できた。福岡では、もう幼馴染なんてできないから、余計になつきとの関係は特別なものになるだろう。
「まぁ、とにかく、だ。悠太は自分で将来を決めなさい。行きたいところに行くんだ。誰でもない、自分の意志で行くんだぞ。」
「うん。ありがとう。」
悠太は、行ってしまった。ウチの隣が無人になるなんて、思ってもみなかった。静かすぎる。母さんも、つい夕飯に呼びに行きそうになったと言っていた。親父も母さんも、表札の無くなったドアに目が行ってしまうらしい。みんな、考えてることは同じなんだな。
悠太のお父さんのことがあってから、自分でも今後のことを色々考えるようになった。親父や母さんが急に“あぁなってしまったら”ということも含めて。悠太は、子どもの頃からの夢をリセットしそうだし。私は将来何をやりたいかな。悠太の影響で、自分のことをちゃんと考えなきゃと思った。母さんにも、惰性で進路を決めるなと言われたし。実は、将来これをやりたいという明確な意思がない。自分は、何となく理系ではないけど、かといって文系でもない気がしている。大学には行きたい。これだけは明確だ。で、だ。大学で何をやりたいんだ?そして、なんで大学進学だけは強い意志を持てるんだ。そこからして、自分自身に謎だ。
私の中の「大学」は、専門分野を深く学ぶところだ。学歴としての「大学」は、意識したことがない。自分の興味あることを深く学ぶことは好きだ。だから、大学には行きたいと思っている。問題は、何を深く学びたいか、だ。それを見つけるのが高校なんでは?と思うから、行きたい高校が見つからない。こんな発想、他の人に言ったら笑われそうでこわい。こんなとき、悠太がいてくれたら、と思う。変なこと言ってると思っても、悠太なら笑わずに、いやからかうことなしに聞いてくれそうな気がしたから。物理的には、電話やラインで伝えられるんだけど、そうじゃないんだなぁ。こういう話こそ、面と向かってじゃなきゃな、と勝手に思う。
私のこの「大学観」は、認めなくないけど親父の影響だ。親父は研究者。しかも薄給で。遺伝子関係の研究をしている。娘の目から見て、そんな親父は子どもの様にいつも嬉しそうなんだ。そして、何かを見つけた時には、どうせ言っても理解できない母さんと私に嬉しそうに話す。根っからの研究者なんだなぁ。そして、親父は勉強したいことがあって大学に進学した人だから、それこそ娘の私も惰性で大学へは行かないと心に決めている。
こんな親父と母さんはどこで知り合ったのか、そしてどこにお互い惹かれたのか、いまだに不思議だ。母さんは、お嬢様とは言わないが、のほほんと育った人だ。そんな母さんだから、親父の不規則な研究者生活に付き合えるんだろうな。研究の進み具合によっては家に帰れないこともある。ある意味、母子家庭の様な感じさえある。ほかの友達の様に、週末家族みんなでお出かけ、なんて日は滅多になかった。でも、親父が帰ってくると、母さんは嬉しそうに“おかえりなさい”と言って、ウキウキと楽しそうだ。私なら、絶対にキレている。“こんなに長いことほったらかしにして!”と。
「母さんさぁ。親父のどこが良くて結婚したの?」
「何よ、急に。」
「いつも不思議に思っててさ。なんか、訊いてみたくなった。」
「やだぁ、恥ずかしい。」
「なにそれ。乙女ぶっちゃって。」
「改めて娘に訊かれると、なんて言ったらいいのかしらねぇ。でも、これだけは言えるかな。お父さんは、本当に優しい人でね。母さんを安心させてくれる人だから。」
「安心?いつもいない日の方が多いじゃん。」
「それはそうだけど。でも、それは大好きな研究に打ち込んでるからでしょ?」
「浮気とかは疑ったことないの?」
「アハハハハハ!あるわけないわよ!」
あまりにけたたましい笑い声でびっくりした。
「お父さんはね、心が清らかだから。」
それは、分かる。
「そうだね。」
「お父さんが健康で、好きな研究に打ち込めて、なっちゃんを可愛がってくれて、ステキじゃない?ね、なっちゃん。」
「うん。そうだね。」
「なんだか、照れちゃうわね。こんな話するの。なんかあった?」
「ううん、別に…。」
「ま、お父さんがいたら、こんな話も出来ないしね。」
そうそう。親父の前でなんか、こんなこと絶対訊かない。恥ずかしい。変な話だけど、時々親父と悠太が重なる時がある。それは漠然とした思いで、何がと言われると答えられないけど、今日の母さんとの話で気付いた。悠太も、心が清らかだ。それは間違っていないと思う。悠太も、親父みたいに研究者に向いてる気がする。それこそ、私と悠太が逆だったら、親父は嬉しかっただろうなって、勝手に思ってしまった。
「そういえば、悠ちゃんもお父さんとおんなじ感じよね。」
「そうかなぁ…。」
「ふっ、自分だってそう思ってたんじゃないの?素直じゃないわね。」
「だから、悠太と親父、気が合ってたのかな。」
「そうね、そうかもね…。悠ちゃん、あちらの生活にもう慣れたかしら。」
「お母さんは、福岡って行ったことある?」
「ううん。大学時代に友達と湯布院に行ったことはあるけど、九州旅行はそれくらいよ。」
「ふうん。」
「お小遣いためて、遊びに行ったら?」
「受験終わったらね。」
そうだよ。悠太だって高校受験の準備があるんだからね。バイトだって、高校入ってからだよ。だから、福岡行きは、まだまだ先のハナシなの!母さんも暢気なんだから、困る。中学生のお小遣いじゃ、なかなか行けないところに行っちゃったんだなぁ、悠太。
ふと思った。高校って絶対行かなきゃいけないのかな。ベッドの上で大の字になりながら、高校って義務教育じゃないじゃん、と気付いた。母さんも言ってたじゃん。惰性で進路を決めるなって。今の私は、悠太みたいに、明確に行きたい高校が決まっていない。行ってみたいと感じる高校もない。友達は、明確に志望校が決まっている子も、制服で選んでいる子もいて、私みたいなのは少数派かも知れない。でも、大学には行きたい。海外みたいに、優秀で飛び級!なんてこともないから、高校は行かないけど大学には行きたいなんて言ったら、親父たちは卒倒しちゃうかな。もし、親父が夕飯までに帰ってくる日があったら、ふたりに相談してみようかな。ここ数週間、親父は研究室で居残り三昧だし、万が一早くに帰ることがあったら、その時は神様が相談しなさいってことだ。きっと。それまで、なんて切り出すか考えておこう…。
神様は、それは今日です!とお導き下さった。珍しく親父が早くに帰宅したのだ。げ。どうしよう。近々三者面談もあるし、きっと早い方がいいんだ。
「あのさぁ、夕飯が終わったら、親父と母さんに相談があるんだけど…。」
「なんだ?改まって。」
「なっちゃんの進路のことでしょ?三者面談があるのよ、お父さん。」
「あぁ、そうか。それはちゃんと話を聞かないとな。」
夕飯もあっという間に終わり、リビングで緊張してる私と、にこやかな両親がいる。私だけが、異常に緊張しているみたいだ。
「あのさ…。高校進学なんだけど…。」
「どこかいいとこ見つかったか?」
「なっちゃんなら、女子高かしら?」
「ちょちょっと、待って。…。先を急がないでくれる?どういう風に言おうか、頭整理中だから…。」
「いいよ。ゆっくりで。」
こういう時の親父は悠然と構えていて、好奇心旺盛な母さんとは違うので落ち着く。やはり、アカデミアが長い親父は、勉強とか進路という話題には、真摯だ。
「あのね、私なりに色々考えたんだけど…。大学には行きたいの。でも…でも、高校には行かないっていう選択肢を持つのはだめかな?」
「え?どういうこと?」
「高校へは行かないけど、大学へは行きたいって言ってるのか?」
「そう…。」
しばらく、ふたりとも黙り込んでしまった。母さんは、明らかに意味が分かっていないようだ。一方、親父は、親父なりに考えを巡らせているようだった。
「なつき、それはどういうことなのか、ちゃんと説明してくれないか。」
「ずっと前から、大学は行きたいって思っていたの。大学は学歴のためじゃなくて、自分のやりたい勉強を深く学ぶところだと思っていて、専門というか、自分の中で興味のあることを大学で勉強したいって。その“何を学ぶのか”を見つけるところが、高校だって思ってた。でも、その何かをまだ見つけられなくて、そんな状態でどこの高校に行きたいかって分からなくて…。」
「うん。」
「いつか、母さんが“惰性で進路を決めるな”って言ってたでしょ?それ、自分もそう思っているの。このままだと、“取り敢えず高校へ行っとくか”ってなりそうで、やなんだ…。」
「高校へ行かずに、どうやって大学へ行くんだ?」
「大検受ける。」
「ふうん。」
「なっちゃん、言ってることはお母さんなりに分かったつもりだけど、高校へ行かないで三年間何やるの?」
「そこなんだけどね。今まで食わず嫌いで避けてきたこととか、苦手意識があってやってこなかったこととかに、改めて挑戦してみようと思ってるんだ。」
「例えば?」
「ほら、私はすぐ“自分は理系なんか苦手だから”って言ってたでしょ?本当に苦手なのか、もう一度勉強というか取り組んでみて、それでも理系科目はやっぱり苦手なのかを考えてみたいとか…。」
しばらく目を閉じて考え込んでいた親父が、私の顔をジッと見ながら話し始めた。
「意外だったけど、なつきなりに色々考えてたんじゃないか。偉いぞ!」
「私、変なこと言ってないかな。」
「父さんは、それでもいいと思うな。高校は義務教育じゃないし、高校へ行くはずの三年間を使ってなつきが本当に学びたいことを見つけたいというのは、大賛成だ。」
「本当?」
「あぁ、本当だよ。」
「母さんはびっくりよ!でも、惰性で進路を決めて欲しくないって言ったのは本当。それをちゃんと考えてくれて、母さんは嬉しいわよ。」
「あぁ、なんかホッとしたぁ。ふたりにお説教されると思ってた!」
「それで、その三年間をどう過ごす?」
「まさか今日この話をすると思ってなかったから、ちゃんとした計画はこれから…。」
「何よぉ、それはまだなの?」
「ごめん。まだ。」
「でもなぁ…。なつきがこんなこと考えてたとは、本当にびっくりしたよ。」
「多分、悠太の影響かな。」
「悠太?」
「そう。悠太はね、子どもの頃からやりたいことがあって、それを実現するために高校の進路までちゃんと決めてたの。」
「悠太は何をやりたかったんだ?」
「人工衛星の設計者。」
「ほぉ…。そうだったんだ。」
「悠ちゃん、そんなこと考えてたのね。すごいわねぇ。」
「だから、お父さんのことがなかったら、県外の高専に行きたかったって言ってたよ。」
「高専かぁ…。」
「私ね、悠太と話すとき、“私なんか”とか“どうせ私は”って口癖になってたんだけど、それ言う度によくしかられてたの。“自分を卑下する言葉は嫌いだ、卑下するくらいなら努力するべきだ“って。その影響かな。私は努力しないで、卑下することばかり言ってたから。まずは、私も努力してみようって。」
「さすがは悠太だな。」
「なっちゃん、悠ちゃんは本当に貴重な幼馴染よ。そんなこと言ってもらえるなんて。」
「うん。私もそう思う。」
「悠太はあっちへ行って、進路どうするんだろうな。」
「諦めちゃうのかしら、高専。」
「それはどうだろう…。どうするかは、聞いてないから分からないけど、きっと悠太はちゃんと考えてるよ。」
「それはそうだ。」
確かに両親は私に驚いていたけど、逆に褒めてくれてこちらが拍子抜けした。特に、母さん。もっと驚いて大騒ぎするかと思った。
ただ、行くはずの高校三年間をどう過ごすか。それはまだ何も計画がない。
「なつき、イギリス行ってみるか?」
「えぇぇぇっ?イギリス?」
「あぁ、由美ちゃんのところ?」
「そう。あいつまだイギリスにいるから。どうせなら、海外に行ってみるのもいいかも知れないぞ?」
由美ちゃんというのは、親父の妹、つまり私の叔母だ。“叔母さんなんて言わせない”と言われて育ったので、小さい時「由美ちゃん」と言えず「ちゃーちゃん」と言っていた。今も私は「ちゃーちゃん」と呼んでいる。
「由美はレスターにいるから、下宿せてもらえばいいじゃないか。」
「英語、全然話せないんだけど…。」
「由美ちゃんのいるレスター大学に、語学コースかなんかあるんじゃないの?」
「レスター大学に留学しなくても行けるの?」」
「それは自分で由美に訊けばいいだろう。なつき、ヨーロッパを見てこい。イギリスは島国だが、ヨーロッパの他の国へのアクセスはいいぞ。この際だ。地元から離れて、色々見てこい!」
「う…うん。すごい展開でびっくりだけど。」
「その代わり、イギリスは一年だけだ。後の二年は大検の準備もあるだろうから、ちゃんと勉強しろ。」
「わかった。」
「なっちゃん、あんた恵まれてるわよ。高校へは行かなくていい、一年イギリスに行って来い、なんて普通のおウチじゃ許してくれないわよ?分かってる?」
「うん…。むしろ、贅沢させてもらってると思う。」
「その感覚があるなら、まともな証拠だ。周りの友達と比べなくていい。なつきは、なつきだ。自分が大学で学びたいものを、見つけてきなさい。」
「ありがとう、親父。」
「日本は狭いぞ。もっと他を知りなさい。ただ、日本以上に安全なところはないから、それはくれぐれも肝に銘じろよ。人種差別的なこともあるだろうし、今は世界情勢も不安定だ。いかに自分が恵まれた環境にいたか、他の国へ行けばきっと分かるだろう。自分探しに時間を使うなら、そんなこともわかって欲しいんだ。じゃ、由美には父さんから連絡しておくから、お前もちゃんと連絡するんだぞ。」
「親父、ありがと。」
「由美ちゃんも、もうイギリス長いわよねぇ。何年くらいになるのかしら?」
「十年はいるんじゃないか?」
「えっ、そうなの?すごいねぇ、ちゃーちゃん。」
「あいつこそ、日本には収まらない感じだったから、海外で正解だな。きっと、なつきのいい理解者になってくれるぞ。」
「うん。私、ちゃーちゃん大好き。会えるの楽しみにしてるよ。」
「なぁんだ、なっちゃんどこの学校の制服着るのか、楽しみにしてたのに。それにお父さんとふたりっきりの生活なんて、なんか寂しくなっちゃうわねぇ。」
「大丈夫だよ。親父と違って、ちゃんと連絡マメにするし。」
「ハハハハ。なんか、楽しくなりそうだな。なつきがこれから何を見つけるのか、とても楽しみだ。」
ちゃーちゃんと親父は、十程歳が離れているせいもあって、親父はとても可愛がっている。親父もちゃーちゃんも自立した人で、自分が何をやりたいかということを明確に持っている。ちゃーちゃんは、最初は企業のOLさんだったのだが、仕事をしているうちにやりたいことを見つけ、三十路にしてイギリスの大学に入り直した。専攻を変えたのだ。それで、これまでのキャリアを一変させ、随分遅れてアカデミアの人になった。そんな経歴だから、学歴経歴にある種の固定観念が強い日本よりも、海外で自分らしく生きることを選んだ人だ。ちゃーちゃんがイギリスに行ってから、直接連絡を取り合ってはいなかったけど、私の憧れでもあった。ちゃーちゃんは潔い人だ。失敗しても言い訳しないし、人のせいにもしないし。その分、頑張って成果を挙げた時は、“どうだ!”と大はしゃぎする。これが自慢に見えないのが、ちゃーちゃんの凄いところだ。久々に会える。何だか恥ずかしいなぁ。そうだ。これまで、両親には出来なかった話とか、ちゃーちゃんとなら話せそう。海外生活のことを色々教えてもらったり、相談にも乗ってもらおう。まさかの展開続きで、興奮状態だ。それにしても、親父の想定外の提案に、心から感謝だ。ありがとう、親父。
掲示板を見上げた。親と一緒に来ている受験生が多いからか、人だかりで酔いそうだ。僕はひとりで番号を探している。
“あった!”
生前の親父の希望通り、僕は“地元の進学校”への合格を果たした。しかも、ここはじいちゃんの母校だ。どんな生活が待っているのか。進学校だから、やはり勉強第一になるのかな。でも、見学に行った限りではそうでもなさそうだった。親父のモットー“文武両道”はこれからも守るつもり。とにかく、だ。クールな博多で高校生活を送れるんだから、ワクワクしかないに決まってる。
「ただいま。」
「おぉ、悠太。どうだった?」
こういう時は、わざと俯いてみるのもいいのかな。でも、じいちゃんにはバレそうだ。自分のキャラにないことはしないでおこう。
「受かったよ!」
「そうか!俺の後輩だな!」
「取り敢えずね…。」
「何ば言いよう!俺ん後輩なんやぞ。」
「そこから先は、どうなるか分からないよ?」
「よかよか。まずは祝いだ!」
ばあちゃんも、既に合格を見越して豪華なご馳走を用意してくれていた。
「すごいなぁ。もし落ちてたら、このご馳走はどうなってたんだろう?」
「何よ、そんなこと誰も思ってなかったわよ。」
「ははは…。有難う。」
「悠太は飲めんが、俺は飲む!」
親父のことがあってから、多分一番の明るい話題になった。そういう意味では、祖父母孝行が出来たんじゃないか。本当は、親父がこの高校に行ってくれていたら、じいちゃんはもっと嬉しかったんじゃないかな。でも、親父は福岡生まれ福岡育ちではないから、それは無理なことなんだけど。
「悠太、『博多祝い歌』を歌うぞ!
祝い目出度ぁの~、若松様よ 若松様よぉ
枝も栄ゆりゃ葉もしゅげる~
エーイショーエー エ―イショーエー
ショウエイ ショウエイ ションガネ
アレワイサソ エサソエー
ショーンガネ―
こら、悠太!博多手一本じゃ。
よぉ(パン・パン)
もひとつ(パン・パン)
祝うて三度
ずれとーぞ!悠太ぁ!」
じいちゃんが上機嫌で、嬉しい。“山笠があるけん、博多たい!”は、中学の友達にも教えてもらったので、この祝い歌と博多手一本は知っていたが、リズム感が悪いのか、いつも半拍ほどずれてるみたいだ。ばあちゃんも、こんなふたりを見ていて、大笑いしていた。ふたりが心から笑っているのをみて、何よりも僕が一番ホッとしている。じいちゃんたちと親父は何年も会わずにいて、久しぶりの再会があんな形だった。親父が僕を福岡へ連れて行ってくれたことは、実はあまりなかったんだ。
「来年の夏は、山笠行くぞ!」
そうだ。引っ越しが山笠の時期に間に合わなくて、本物を見ていない。友達から動画を見せてもらっただけだったから、何としても本物を見てみたい。そういえば、箪笥のずっと奥に、じいちゃんのものと思しき法被を見つけたことがある。
「そう言えば、じいちゃんは山笠の舁き手だったの?」
「なんで?なんか見つけたか?」
「あぁ…、箪笥の整理してたら、法被を見つけて…。」
「大学行く前までな。恵比寿流で、舁き手ばさせてもらってた。」
「法被、格好いいね。」
「だろ?悠太もやるか?」
「えっ、いいの?」
「そげん簡単に舁き手になれるもんやなかが、恵比寿流は舁き手が減っとーごたーし、若い男が増えたら喜ぶしな。本気でやりたかなら、知り合いに口ばきいちゃるぞ。」
「うん!やりたい!」
「悠太も、少しは博多ん血が流れとったか!あはははは。」
酔っぱらうと、じいちゃんも中途半端な博多弁が出る。僕がもっと博多弁を覚えたら、ちゃんとした博多弁で話してくれるのかな。じいちゃんは余程僕の合格が嬉しかったのか、早々に酔っぱらって寝てしまった。ばあちゃんの手伝いでもするか。洗い物がたくさんあるし。
「ばあちゃん、手伝うよ。」
「だめよ!男は台所なんか入っちゃいけないんだから。」
「今はそんな時代でもないでしょ。手伝うよ。」
「じゃ、かごの中の食器、しまってもらおうかしら。」
久々の感覚だ。なつきん家でご飯を食べた後、おばさんの手伝いをしていたのは、実はなつきではなく、僕だった。ご馳走になったお礼の気持ちもあるが、なつきはこういう家事を面倒くさがる。あいつ!
「ばあちゃんは、あっちで生まれ育ったのに、福岡に越してくることに抵抗はなかったの?」
「そうねぇ、九州は男性を立てなきゃいけないところだってずっと思ってたから、馴染めるかどうかの不安はあったわよ。」
「で、どうだった?」
「うん、あんたみたいに大興奮とはいかなくても、お世話になる人たちみんながあったかぁい人たちばかりで。すぐ、好きになった。うふふ、ここは不思議なところよね。でも、お醤油は甘いし、お出汁も違うし、そういうところは、慣れるのに時間がかかったかもね。」
「あぁ、何となくわかる。」
「博多は東京とあまり変わらないけど、ちょっと行くと海や山が近いから、お出かけが楽しくて。こう見えても、おばあちゃんは知らないところへ行くの、結構好きなのよ。」
「春休みになったら、どこか一緒に行こう!」
「そうね…。そうだ、高校行く前に、一度あちらへ帰ってみたら?」
「あちらって、団地のこと?」
「そうそう。ほら、お隣さんにもとてもお世話になってたし、合格の報告がてら、行ってらっしゃいよ。旅費はお祝いってことで。」
「うん、そうだね!久々になつきにも会いたいし。あいつもどこへ進学したか聞きたいから、ばあちゃんたちが良ければ、行きたいな!」
「おじいちゃんも許してくれるわよ!行ってらっしゃい!」
僕はすぐ、なつきの家に電話を入れた。
いよいよ明後日、日本を発つ。荷造りも、ほぼ終わった。初めてのパスポート、写真が気に入らない。撮り直したい。どうしていつも、写真となると仏頂面になるんだ。
「なっちゃん、なっちゃん!電話、電話!」
けたたましい母さんとも、あと数日だな。
「何よ、うるさいな!」
「早く出なさい!」
「誰ぇ?こんな時間に…。」
ぶつくさいいながら、受話器を受け取った。
「あははははは、相変わらずだな、なつき。」
“えっ?”
「もしもし、聞いてる?」
「…悠太?」
「そう。…久しぶりだね。」
「うん。どうしたの?」
「急な話だけど、明日そちらへお邪魔しようかと思って。」
「ええええええっ!」
「それで、おばさんに訊いたら、明日泊まってもいいって言ってくれたから。図々しくお邪魔しようかと。」
え、明日?泊まるだと?
「親父のことで、お世話になったお礼をちゃんと言えなかったからさ。入試とか色々片付いたから、こっちの都合でごめんだけど、いいかな。」
「母さんがいいって言ってるなら、いいよ。」
「なんだ、それ?なつきの都合は大丈夫なの?」
「明日なら、大丈夫。」
「そか、良かった!積もる話は、明日するよ。」
「うん、分かった。駅まで迎えに行こうか?」
「大丈夫だよ。ひとりで行けるよ。駅に着いたら連絡するから。」
「じゃ、楽しみにしてるね。」
そうだ。悠太には言ってなかった。私のイギリス行き。というか、高校へは進学しない話。どんな顔するだろうか。また、困惑して、私のことジッと見るんだろうな。そして、明後日には私はいなくなるから、間に合ってよかった。それも電話では言えなかった。
それにしても、急にこちらへ来るなんて、行動パターンが悠太らしくなかった。前は、もうちょっと計画的だった気がする。しかも、声が弾んでたし。余程いいことがあったに違いない。あ、そうか。高校、第一志望に合格したのかな。積もる話は明日、って言ってたから、明日は根掘り葉掘り訊いてやろう。悠太が引っ越してから、もう半年以上経つのか…。早いなぁ。半年も経つと、人って変わったりするのかな。
“なつきは、なつきのままでいろよ”
なんて言ってたけど、悠太は変わっちゃってたりしてね。でも、あんなことを経験したんだから、変わってしまったところがあったとしても、仕方ない。多分、悠太はもっと大人になっていて、私は追い付けないでいることは、変わってないだろうな。明日は、どんな風に話を切り出そう。そんなこと、気にしなくても、環境の変化が大きかった悠太の方が、ベラベラしゃべりだすかもしれないし。そんな悠太は見たことないから、本当にそうなったら大笑いしそう。
親父が帰ってきた。このところ、夕飯時には間に合うように帰ることが増えた。もしかして、可愛い一人娘が外国に行っちゃうからか?案の定、母さんが悠太からの電話を大騒ぎで報告して、親父が喜んでいる声が聞こえた。親父、悠太のこととても可愛がっていたから、会いたかったよね。
「よかったな、なつき。」
「何が?」
「またまた。悠太だよ、悠太。」
「あぁ、そのことね。」
「間に合って良かったじゃないか。」
「うん。でも、たった一日だよ。」
「一日でも、間に合って良かっただろ?」
「悠太も、もっと早くに言ってくれたらよかったのに…。」
「あちらだって、都合があるんだから。仕方ないじゃないの。」
「まぁ、私が相手できるのは明日だけだけど、親父たちが沢山相手してあげてよ。」
「なぁによ、その言い方!」
「いやいや、そうさせてもらうよ。悠太としみじみ話したいこともあるしな。それに、なつきの出発は早くに決まっていたんだから、変更も出来ないしな。」
「そう!変更が出来ない!」
「へぇ、お父さん、悠ちゃんとふたりで話したいことがあるんだ。」
「まぁね。男同士のハナシ。」
そう言って、親父はクスっと笑った。確かに、我が家には“息子”はいないから、こういう時間があってもいいかもしれない。二対一で、親父はいつも形勢が悪いからね。
「わぁ、なつきん家の匂いだ。」
悠太の第一声だ。団地あるあるだと思うけど、友達の家の匂いって、家ごとに違うなって思ってた。ウチがどんな匂いか自分は分からないけど、悠太には我が家の匂いの記憶があるんだな。
「悠太、久々に屋上行く?」
「行く行く!」
母さんにニヤニヤされながら、ふたりで屋上へ行った。何か大事な話とか、人には言えないような話をするときは、決まって屋上に行っていた。団地の屋上に行く人なんて、滅多にいないから。子供にとっては秘密基地みたいなものだった。
「なつき、久しぶり。」
「うん。悠太、ちょっと、背伸びたんじゃない?」
「伸びてくれなきゃ困るよ。もっと背高くなりたいし…。」
こんな挨拶っぽいものは、どうでもいい話だ。何をどう話したらいいのか。本当は話したいことがいっぱいあるのに。それは、悠太もでしょ?
この気まずい雰囲気を、どうにかしたい。
「なつき…。」
「うん。」
「親父のこと、色々有難うな。ちゃんとお礼も言えずにバタバタ引っ越しちゃったから、それはずっと気になってたんだ。」
「お礼なんていいよ。当たり前なことしただけだよ。いや…違う。してあげたいと思っていたことをしただけだよ。」
「その気持ちが嬉しいから、ありがとうだよ。」
「うん。」
また、気まずい間。
「そういえば、高校はどうした?」
「なつきには怒られちゃうかもだけど…、地元の進学校に行くことになったよ。」
「そっか。なんで私が怒るのよ?」
「高専のこと、じいちゃんに相談しろって言ってからさ…。」
「あぁ、そうだったね。で、相談したの?」
「ううん。しなかった。」
「そっか。」
「入学する高校、じいちゃんの母校なんだ。」
「へぇ、そうなんだ!じゃぁ、おじいちゃん、とても喜んでくれたでしょう?」
「うん。すごい酔っぱらってた。」
「あははは。それなら、おじいちゃん孝行で、いいじゃない。それに、悠太のことだから、ちゃんと考えて決めた学校なんでしょう?」
「うん。」
「なら、私が怒るわけないよ。悠太がハッピーなのが一番だから。」
「で、なつきは?ちゃんと行きたい高校見つかったの?」
“うっ…、何て言おう…”
「なつき?」
「あの…ね。あの…。」
「何だよ?」
「高校へは行かないの。」
“言ってしまった…”
予想通り、悠太は困惑していた。私を真顔でジッと見て、困った顔をしていた。だよね。そうだよね、悠太。
「もしかして…、受けたとこ全部だめだったの?」
「そうじゃないの。」
「そうじゃないって?」
ますます、困惑を深めているようだった。そりゃそうだ。“不合格”で高校に行けないのではないのだから。それを今から話すんだ。悠太は分かってくれるだろうか。
「私さ、悠太みたいにロジカルに話せるか自信ないんだけど。ちゃんと考えて決めたことだから、それは最初に言っておくね。」
「…分かった。」
「私、昔から大学は行きたいっていう思いがあって、高校は大学で学ぶものを見つけるために行くものって思っていたの。だけど、じゃぁどの高校へ行けば、自分が大学で学びたいものを見つけられるのかって考えた時、行きたい高校が見つからなかったの。お母さんに“惰性で進路を決めるな”って言われて、それは自分でもそうだって思って、じゃぁ高校へ行く三年間を使って、自分が何を学びたいかに向き合おうって決めたの。」
「高校へ行かずにどうやって大学へ行くの?」
「大検。」
「あぁ…。」
「それを両親に話したら、意外にも親父が面白いって褒めてくれてさ。そういう考え方もありだなって。母さんは、最初は驚いていたけど、惰性で進路を選ばずにちゃんと向き合う姿勢はいいねって、言ってくれた。」
「うん。」
「で、親父が私に一年だけチャンスをくれた。」
「チャンス?」
「そう。イギリスへ行って来いって。」
「イギリス??」
「親父の妹、私の叔母がイギリスにいるの。そういうことなら、いっそのこと海外に行って見聞を広げて来いって。でも、それは一年間だけ。後の二年は大検の勉強だよ。」
「…。」
明らかに、悠太は呆気に取られていた。ウチの家族は変わっている。でも、悠太はウチの親父と仲が良かったから、多分親父らしいとも思ってくれているかも、と淡い期待を抱いていた。
「なんか…話が壮大過ぎてびっくりした。」
「だよね。私もすごい展開になって驚いてるもん。」
「高校に行かないって選択…考えもしなかった。」
「うん。みんなに言われた。」
「で、いつあっちに行くの?」
「明日。」
「明日!」
「そう。すごいタイミングでしょ。悠太がまさか今日来てくれるなんて思わなかったから、今日を逃してたら会えてなかったんだよ。」
悠太は、ジッと私を見つめていた。幼稚園の頃から変わらない、困った時の悠太だ。
「親父が来させてくれたのかな…。」
「えっ?」
「そんな気がする。親父の大好きな“なつきちゃん”に会ってこいって。今、行って来いって。」
「そうかもね。すごいタイミングだもん。」
「なんだよ…。」
悠太が少し怒った表情に見えた。
「なんだよって、何よ?」
「なつきの方が、遠くに行っちゃうんじゃないか!」
「…。」
「それも、高校生の小遣いじゃ気軽に行けない距離のところに!」
「…。」
「俺が県外の高専に行くって言ったとき、なつきが言ったんだぞ!遠くに行っちゃうのやだって!」
「うん…。」
「なつきの方が遠いじゃないか!」
「うん…。」
「なんか、勝手だな。」
「それはひどいよ。そんな言い方ない!」
「なつきはいつもそうなんだ!意味不明なこと言って、俺を置いてけぼりにするんだ!」
「置いてけぼりって…。」
悠太はクルッと背を向けて、しばらくこちらを見てはくれなかった。悠太の背中は、もう私の目線の上にあって、変な話だけど、こんなに背が高くなったんだって。ふたりの会話は幼い頃の様で、そうではないという変化に改めて気付かされた。
しばらく気まずい間が開いてしまい、お互いどうしたらよいか分からずにいた。母さんはきっと、ふたりで話が弾んでるんだと思ってるに違いない。まさか、久しぶりに再会した幼馴染が、こんなに気まずくなっているなんて、誰も思ってないよなぁ。
「なつき…。」
「うん。」
「ごめん。怒鳴ったりして。」
「いいよ。悠太は悪くないよ。」
「短い時間に色々なことを訊きすぎて、理解できなくてさ。なかなか…。」
「うん、それもみんなに言われた。」
「なつきの発想って、なつきっぽいな。」
「なんなのよ、それ。」
「面白い。」
「それ、褒めてんの?」
「褒めてるよ。やっぱり、なつきはなつきだなって。」
「うーん、それがどう誉め言葉になるのか分からん。」
「はは。でも、せっかく面白い決断をしたんだからさ…。」
「うん。」
「途中で投げ出すんじゃねぇよ。」
「うん。分かってる。」
「で、だ。」
「うん。」
「何かあったら、いつでも連絡しろよ。」
「うん。ありがと。」
「俺は、いつでもなつきの味方だから。」
「えぇ、何ぃそれ?」
「自分で努力したことなら、それがどんな結果でも、俺はなつきの味方だ。」
「うん。」
思わず、悠太にハグしてしまった。悠太をがっかりさせないように、私、頑張るから。
「これ、イギリス式?」
「そうだよ。」
「うそばっか。」
やっと笑えた、ふたりとも。変な緊張感も解けたことだし、母さんのご飯を食べに戻ろう。今日は悠太もウチにお泊りだし、楽しい夕食になるだろう。親父もお待ちかねだ。
久しぶりに、四人で食卓を囲む。ただ、明日なつきはイギリスに行ってしまう。上っ面ではみんなの話を楽しそうに聞きながら、話の中身は全く頭に入ってこなかった。なつきが、ちらちらこちらを見てる。きっと、なつきには僕の気持ちなんか見透かされているに違いない。僕にとっては、あまりにも衝撃的過ぎた。イギリスか…、遠すぎるじゃないか、なつき。
「悠太は、もう少しこちらにいられるんだろ?」
「えぇ…まぁ。」
「あら、じゃあ、なっちゃんがいなくてもここに泊ってったら?せっかくだもの!」
「いや…それは…。」
「なんだぁ?だめか?」
「いや…そんなことは…。」
「悠太、親父がね、悠太と差しで話がしたいんだって。」
「差しで??」
「なつきは、言葉が大げさだな。悠太が良ければ、滅多にない機会だから男同士で話をしてみたいんだよ。どう?」
「僕で良ければ、是非。」
「そうそう、そうこなくっちゃ!」
親父さんは、なんだか嬉しそうだった。もう長いこと家族ぐるみの付き合いだったけど、なつきの親父さんとふたりで話すということはなかったな。どんな展開になるかは想像つかないけど、ちょっと親父のことも訊いてみたい気がした。
親父となつきの親父さんとの関係は、じいちゃんにも言われけど、何やら特別なものがありそうだ。僕やじいちゃんより親父のことを知っていそうだし。なつきと話すのと違って、親父さんとは落ち着いて話が出来そうだ。やっぱり、親父が僕を団地へ来させてくれたんだな。そんな気がした。
久々のなつきの家は、よく知っているはずなのに全く落ち着かなかった。子どものころのように一緒に寝るわけでもなく、なつきの衝撃的な話も聞いてしまい、どうにもこうにも寝付けない。天井ばかりを眺めていても眠れそうにないので、そうっとカーテンを開けてみた。そう、この夜景だ。この灯り。確かに人が生活をしている灯りだ。きらびやかではないけれど、僕にとってはきれいな…穏やかな夜景。なつきは一年もイギリスへ行くのか…。一年って、長いんだろうか。過ぎてしまえば短いのか?その間、僕自身も色々と変わっていくだろうな。なつきには人工衛星の設計者になりたいなんて言ったけど、もしかしたら違う進路を見つけるかも。なつきは、何を見つけてくるんだろう。こうやって、お互いの中で少しずつ変化が生まれて、遠い存在になってしまうんだろうか。ただ、僕にとって“なつき”はなつきだけだ。それだけは変わらない。なつきは、どうなんだろう…。
なつきの乗る飛行機はお昼頃だというので、朝早くから皆で空港へ向かった。寝不足で朝の弱い僕は、なかなか頭が冴えることなく、慌ただしく見送って、呆気なくバイバイ、となった。こんなのが、僕たちらしくていいのかな。
「悠太、今日は俺も休みをとったから、一日付き合えよ。」
「あはは、分かりました。」
改めて、なつきの親父さんと差しで話するなんて緊張する。おばさんの前では話しにくいことなのか?そんなことはないだろうけど、気になるな。
「悠太、俺の大学の近くでのんびりどうだ?」
「はい!是非。」
なつきのお母さんは既に心得ていて、先に団地へ戻っていった。なつきは母親似ではないな、なんて思ってしまう。電車に乗っている間は、差し障りのない話に終始した。高校はとか、福岡はとか…。よそよそしいのとは違うけれど、わざわざこんな話で僕を呼び出したわけでもないだろう。ただ、傍から見ると親子みたいに見えるだろうな、なんて妙な感じもした。死んだ親父には悪いけど、これはこれでちょっと嬉しくもあった。
親父さんの大学の近くの公園。こんなところが東京のど真ん中にあるなんて。知らなかった。キッチンカーで飲み物を買って、空いているベンチに、二人ぎこちなく腰かけた。
「自分から誘っておいてなんだけど、なんか緊張するな。」
「それは僕もです。」
「あいつの息子なのに、時々俺の息子みたいにも思っててさ。」
「あはは、うちの親父もなつきを自分の娘みたいに思ってましたよ。」
「そうだ、そうだったな。」
そうそう。あの“変な”賭け事もね。
「あいつの最期に一緒にいたのが俺で、申し訳なく思っていたこともあったんだ…。」
「そんなこと!そんな風に思わないでください!」
「あいつも、今際の際には悠太にいて欲しかったんじゃないかって思ってさ…。」
「親父は…幼馴染の親父さんがいて良かったと…思ってますよ。」
「悠太はあいつの自慢の息子だったんだ。それこそ、高校進学のことはずっと気にしていたんだよ。自分は地元の進学校へ行けと言ったけど、悠太はどんなところに行きたいのか、ちゃんと聞けてないんだって、よく俺に話してたんだ。」
「確かに…。そういう話はちゃんとしていなかったです。」
「なつきが、今回みたいな突拍子もない進路を打ち明けた時のことだけどね。なつきなりの考えもあったけど、悠太の言葉に影響されたみたいなことも言っていて…。その流れで、悠太が高専を目指していた話を知ったんだ。」
「そうなんですか?」
「うん。その話、あいつは知らないんだろ?」
「えぇ。…、でも結局高専にはいかずに、福岡の地元の進学校になりました。」
「そう。」
「はい。祖父の母校なんです、進学先。」
「そうなのか!じゃぁ、おじいさんも喜んだだろう?」
「はい、とても喜んで、酔っぱらってました。」
「あはははは。太みたいだ!」
「そうなんですか?」
「うん。なんだか、目に浮かぶな。」
「あの…。」
「うん?」
「あの…、せっかく親父さんとお話しできるんで、聞いてみたいんです。うちの親父とのこと。」
「いいよ。」
「うちのじいちゃんは、親父と親父さんとの関係を、ちょっと特殊だと言ってました。まぁ、じいちゃんには、そもそも幼馴染がいないので、想像がつかないだけかも知れないんですが…。」
「へぇ、そんなこと言ってたんだ。」
「はい。実は、僕自身も、そう感じることがなくはなかったんです。」
「そうなの?なんで?」
「親父、酔っぱらうといつも親父さんの話になるんです。そして決まって“俺なんか…”って。それが僕は嫌だったんですよ。どうして“俺なんか”って自分を卑下するんだって。」
「それは知らなかった…。」
「僕には、親父さんと自分を比べて卑下しているようにしか思えなくて…。親父さんに嫉妬してるんじゃないかって…。」
「それは違うな。」
「えっ?」
「もし、あいつが誰かに嫉妬していたんだとしたら、それはあいつの親父さん…つまり悠太のおじいさんにだよ。」
「え?そうなんですか?」
「悠太のおじいさんは、進学校に行って、最高峰の大学の医学部出て、医者になったろ?」
「はい…。」
「俺も医学部には行ったけど、基礎研究者でいわゆる医者とはちょっと違う。あいつは、臨床医になりたかったんだ。親父さんみたいにさ。」
「…初めて聞きました。じいちゃんも、そんなことは言ってなかった…。」
「やっぱりな。」
「やっぱり?」
「お前だって、太に話してなかったろ?何やりたいかって。おんなじだよ。」
「…それは…。」
「ただ、太にはどうしても不得意な科目があって、途中から進路を変更したんだ。」
「そうなんですか。」
「高校二年の終わり頃かな、“お前、研究者になるんだろ?俺、お前のために弁理士目指すことにした!”って言われてさ。」
「…なんか、発想がなつきみたいだ…。」
「あははは。ホントだな。最初は、はぁ?みたいに思ったけど、俺が新しいことを発見したら、その知的財産を守ってやるんだって。だから弁理士を目指すって。そう言われたんだ。そんなこと、どこでどう調べたんだかな。そんな熱弁聞いたら、こりゃ、絶対に第一志望合格してやるって思ったさ。」
「…、実は僕、人工衛星の設計者を目指したのは、親父が弁理士で、親父に僕の設計したものの知的財産を守って欲しくて…、親父と一緒に仕事をしたいと思って…でも…でも…結局それを伝えることは出来ませんでした。」
堰を切ったように泣いてしまった。後悔だ。大後悔だ。僕はなぜ、親父と一緒に仕事をしたいって言わなかったんだろう。親父は僕の気持ちを知らぬまま、逝ってしまった。心の底から後悔だ。
「太も悠太も一緒だな。本当になりたいものを父親に言わなかったなんてな。まぁ、あいつは、臨床医になりたかったけど諦めた、って父親に言いにくかったんだろうな。だから、弁理士を目指すことになって、そこだけを伝えたんだろうよ。ただ、大学は俺や悠太のおじいさんと同じ大学に行きたい、っていう太なりのこだわりはあったと思う。結果として大学は別になったけど、でも、あいつ本当に弁理士になって、俺のことを随分助けてくれたんだ。おじいさんが言うように、普通の友達とは違った特別なものはあったかも知れないな…。」
「友人を超えた何かが…ってことですか?」
「あぁ。ただ、それが具体的に何かって訊かれると、明確な答えは持ち合わせてないな。あくまで、俺の感覚的なことだからね。」
わかるような、わからないような。ただ、なつきみたいに“どうしても”という答え方をしないのが、なつきの親父さんの好きなところだ。
「悠太。誤解しないで欲しいのは、太は確かに進学校へ入って欲しいとお前に望んでいたかもしれないが、決して押し付ける気はなかったんだぞ。そして、大学はどこでも好きなところへ行って、好きな勉強をして欲しい。それは、いつも言っていたんだ。お互いの息子・娘には、好きなことをさせてやりたいってね。太は、悠太が望むなら、留学もさせてやりたいって言っていた。で、ここからはとても現実的な話になるが、太の年収なら、あの団地に住まなくてもいいくらい、高給取りだったんだよ。でも、もし悠太が留学や大学院に…っていう時に備えて、あいつなりに節約して資金を蓄えていたんだ。その話は、福岡のおじいさんには伝えてある。だから、これから先の進路が決まったら、ちゃんとおじいさんに相談するんだぞ。」
「…。」
「びっくりしたか?」
「えぇ…まぁ。でも、あの団地に住み続けたのは、それが理由ではないと思いますよ。」
「そうか?」
「えぇ。ずっと、親父さんと幼馴染のままでいたかったんだと思います。僕も、そのお蔭でなつきとずっと幼馴染でいられましたから。」
「ふふ…、知らない間に悠太も大人になったな。なつきとは大違いだ。」
「僕は…。なつきにはなつきのままでいて欲しいです。」
「へぇ…。それはそれで、なんか複雑だな。」
「え?」
「いや、こっちのハナシ。」
知らない話ばかりだった。でも、そうか。そうだったんだ。親父も僕も、父親不孝だったんだな。いつかなつきに言われたっけ。僕は頭の中だけで色々と考えて答えを出してしまうって。そしてそれを相手に言わないって。親父も僕も、大馬鹿野郎だ。
親父は、じいちゃんに嫉妬していたのか。それがわかって、僕はちょっと嬉しかった。
ー第五章 レスター ー
ちゃーちゃんは、本当にカッコいい。今日は、ちゃーちゃん自慢のゴルフのカブリオレでドライブだ。オープンカーとは言わないんだな。
「どうよ!なっちゃん!気持ちいいでしょ?」
「ちゃーちゃん、最高ぅぅぅ。」
オープンカー、もとい、カブリオレは風の音がすごくて、正直何言ってるのかよく聞こえない。それに、寒い!だから毛布…いやブランケットをくれたんだな。ダメだ。まだ、英語に慣れない。イギリスと言えばロンドン!と思っていた私は、それ以外の場所を全く知らなかったから、こんな素敵な場所があることに大感動だった。親父、本当に有難う。
レスターは、遠かった。私には。空港からもっとすんなり行けるかと思っていた。やはり、日本と同じように考えてはいけない。ヒースロー空港だと迷子になるかも知れないから、バーミンガム空港に来いと言われ、初めて聞く空港で全く分からないまま右往左往していた。ちゃーちゃんは、大笑いしながら私にハグしてくれて、このカブリオレで迎えに来てくれたんだ。この日のレスターまでのドライブは、申し訳ないけど、眠り込んでしまい、途中の景色を楽しむこともなかった。ちゃーちゃん、ごめんね。
レスターでは、レスター大学の語学コースでまずは英語を学び、そこから先はまた考えることにした。コースを終えたら、また別の大学の語学コースに行くのもいいんじゃない?とのこと。レスターは、ミッドランドと言われるエリアだ。日本でいうところの長野とか岐阜なんかになるのだろうか。いわゆる“海なし県”だ。でも、この適度に都会で適度に田舎…じゃないか、品の良い郊外というのが一番しっくりくるかな。ちょっと悠太っぽい街だ。イギリスならではの曇天も、悠太を彷彿とさせる。決して悠太が根暗ということではない。この落ち着いた大人な感じが、悠太なんだ。ノーブル!こんなことを思ってたことは、誰にも内緒。
「で、自分探しはどうなの?」
ちゃーちゃんは、いつもこんな感じだ。ズバッと来るんだ。まどろっこしい前置きはなし。
「着いたばかりだよ、ちゃーちゃん。自分探しはこれから!」
「だね。そうだった、そうだった。あはは。」
「レスター、いいところだね。」
「気に入った?」
「うん、気に入った!」
「良かった。私ね、ロンドンよりこっちの方が大好きなの!あと、エジンバラとかね。」
「へ~、そうなんだ。海外はこれが初めてだから、他は全然わからないけど。」
「いつか連れてってあげるわよ。」
「ありがと、ちゃーちゃん!」
とても歴史のありそうな古い教会だとか、絵本に出てきそうな可愛らしいおウチとか…。日本にはない雰囲気を感じて、これからの日々が楽しみになってきた。私は、夏生まれで“なつき”と名付けられて、日の光をたくさん浴びて育ったように思われがちだけど、他人が思うほど眩しい内面ではない。実は、色々ぐちゃぐちゃ面倒くさいことを考えていたりする。だから?とは言わないが、このイギリス…というかヨーロッパ独特の雰囲気がとても落ち着く。私と悠太が生まれ育った団地は、東京のど真ん中のような喧騒はないけれど、通勤・通学の人たちやら、自転車に子どもを乗せて慌ただしく保育園へ向かうお母さんたちを見ながら、郊外に住んでいても追い立てられているような忙しなさを感じていた。それが、どうにも落ち着かなかったんだ。
ちゃーちゃんもそうだけど、みな、自分の時間をゆったりと過ごしているように見えるのは気のせいか。ひとりひとりが自立して、自分のために時間を使っているように感じる。時間の流れ方が、日本とは違う気がした。これはあくまで、私の感想。
「兄貴から聞いたけどさ。なっちゃん、高校行かないんだって?」
「うん。高校“は”行かないの。」
「そうだった!失礼しました。私ねぇ、それ聞いて感動しちゃったよ!」
「なんで!?」
「そういう風に考える子もいたんだなって。」
「まぁ…普通はいないよね。」
「ってか、そういう考え方をすることも、それをちゃんと受け入れる親も、ね。やっぱり、兄貴の娘だったんだなぁって…。」
「ちゃーちゃん、楽しんでるね。」
「だって、嬉しいじゃない!からかってるんじゃないから、誤解しないでよ?我が家は、父と兄貴はリベラルだけど、母はそうじゃなかったから、なっちゃんみたいなこと言ってたら、大泣きされてたわよ!お義姉さん、さすがだなぁって。そういう意味では、兄貴は見る目があったのね~。」
「見る目?」
「いやいや、こっちのハナシ。」
「なんかよく分からないけど…。ちゃーちゃんは、彼氏はいるの?」
「うん、いるよ。なっちゃんが来るから、ウチから追い出したけど。」
「えぇぇぇぇっ!ごめんなさい。」
「いいのいいの。元々、向こうもフラット借りてて、お互いの家を行き来してたんだから。段々ウチの方が居心地よくなったらしくていついただけだし。気にしなくていいわよ。」
「でも…。」
「だから、時々ウチに来るけど、気にしないでね。」
「うん。私は大丈夫だけど、彼氏はいいの?」
「大丈夫!ちゃんと話してあるし、私の姪なら会ってみたいって。」
「え~~~、緊張する~~。」
「アレックスって言うんだけど、とっても楽しい人よ。英語が下手でも気にしないから、安心して。」
「あ…。そうなんですね。」
ちゃーちゃんは、大笑いしていた。大人の女性の彼氏に会うなんて、想像もしてなかった。私みたいな幼い日本人なんて、実齢よりもっと幼くみられるだろうな。英語コースの願書をもらいに行った時も、周りの学生たちがとても大人びて見えたし。またこんなことを言うと悠太に怒られそうだけど、初めてのイギリスで感じた、正直な気持ちだ。
ちゃーちゃんがイギリスに来たときは、まだ日本は今よりも経済的に余裕があって、日本人は主張もしないけどクレームもつけないなんて思われていたらしい。だから、ホームステイ先で食事代込みの家賃を支払っていたのに、大家の女性が残業の時は夕食を自分たちでどうにかしろと言われた時、それなら夕食代を返せと主張して、大家に嫌われたと言っていた。“今までそんなことを言ってきた日本人はいなかった”と。でも、“私は間違ったことは言ってないし、私は今までの日本人とも違うから、一括りにするな!”と当時は下手な英語で主張して、ちゃんと返金してもらったという。そんなちゃーちゃんを、私は正しいと思った。でも、自分じゃ多分言えないよなぁ、と弱腰な私。
「なっちゃん。人は色々な考え方を持っているから、それは肝に銘じておいてね。イギリスだろうが日本だろうが、そこは変わらない。心の広い人も狭い人もいるし。それに、言葉の壁もあるから、余計につらいこともあるかも知れない。でも、言葉が出来ようが出来まいが、理解しあうことは大事。それも、どこにいようが変わらないよ。相手のことを分かろうとしないと、自分のことも分かってもらえない。少なくとも、私はそう信じてるんだ。」
「うん。」
「なっちゃんがどのくらい英語が出来るか知らないから何とも言えないけど、でも、語学アレルギーみたいなものを感じないといいなって。私だって、最初はすんごい苦労したんだから。でも、ある時から段々コミュニケーションが取れるようになってきて、話せる言葉が増えるのって楽しいなって…。なっちゃんは一年っていう期限付きだけど、私は沢山楽しんで欲しいよ!」
「うん。ありがとう!ちゃーちゃんは、私の憧れなの。かっこいいお手本がいてくれて、すごい恵まれてるよ。」
「あははは!私みたいになったら、兄貴が困るんじゃない?」
「そんなことないよ。困るんなら、イギリスに行かせてなんかくれないよ。ちゃーちゃんだから、私を預けてくれたんだよ。」
「そっか。そういうことにしとこか。」
ちゃーちゃんと親父の関係、私はとても好きだ。年の差があるせいか、友達の会話によく出るべったりとした兄弟・姉妹関係とは違う気がする。で、私は一人っ子だから、兄弟葛藤を経験することはないし、優しいお兄ちゃんとか、可愛い妹や弟を持つこともない。そういう意味で、悠太は私にとって、友達で双子の片割れで…。それが幼馴染なんだろうか。やっぱり、特別な存在だ。
唐突にイギリス行きを伝えた形になったこと、いまだに尾を引いている。後味が悪い。“俺なんかよりなつきの方が遠くへ行っちゃうじゃないか”と言われた時は、正直驚いた。どんな気持ちでそんなことを言ったのか。悠太に福岡へ引っ越すと聞いた時は、私の方がショックだった。だけどそれは、悠太の置かれた状況から仕方のない話だった。でも、私の場合は…。悠太は、私はずっと変わらないって思ってたんだろうか。私の方に大きな変化が起こることはないって。いつも“ただいま”って団地に来れば私がいるって。変わるのは、悠太だけじゃないんだよ。それに、悠太だって、高校生になれば、高校で今までとは違う友達も出来て、もしかしたら彼女だって出来るかも知れないし…。私には私のままでいてくれって言ってたけど、私だってそれなりに変わっていくんだからね…。
「なっちゃん、話が聞こえてないのは、車の風のせい?それとも何かあった?」
しまった。考え事をしていたら、何も聞こえてなかった。
「ごめんなさい。…イギリスに行く前の日のことを思い出しちゃって…。」
「え~、まだ何日もいるわけじゃないのに、もうホームシック?」
「そうじゃないの。」
「帰ったら聞こうか?ハナシ。いやじゃなきゃね。」
「ありがとう、ちゃーちゃん。」
カブリオレのせいにしときゃよかった。
ちゃーちゃんには、母さんと違って、これまで思っていたあれやこれやを一気に話した。悠太のモヤモヤが、そのほとんどだったんだけど。ちゃーちゃんは、ふんふんと親父みたいにしっかり話を聞いてくれて、親父みたいに目を閉じながら少し黙り込み、そしてこう言った。
「好きなんじゃないの?悠太君のこと。」
「えっ?」
「え、じゃないわよ。自分でもわかってたくせに!」
「あ…えっと…。」
「多分、悠太君もそうだと思うけどなぁ。」
「それは…さすがに…。」
「ないって?これって、幼馴染の面倒くさいとこね。お互いの気持ちを分かってるくせに、気付かないフリしちゃってさ。」
「フリはしてないよ!」
「お互いが離れるって、ある意味いい機会なのかもよ。ふたりとも。」
「いい機会?」
「そ。これまでは、お互いに近くにいて当然だったでしょ?でも、事情はあったにせよ、お互いに離れることになったわけで、もうお隣さんなのが当然じゃなくなったんだから。それでも気持ちが変わらないのか、はたまた気持ちが変わるのか。これでハッキリするんじゃない?」
「うぅ…。そうですね。」
「ふふふ…。いいなぁ、なっちゃん、青春してて。人はさ、成長すれば変わるわよ。でも、変わらないものもあると思う。それが何かは、私には分からない。悠太君のいう“なつきはなつきのままでいて”っていうのは、なっちゃんの中の良いところ…うまく言えないけど、なっちゃんがなっちゃんたる良いところは、変わらずに持っていて欲しいってことなんじゃないかなぁ。なっちゃんは気付いていないけど、悠太君は気付いているところっていうのかな。」
「よく、悠太は“なつきらしいな”って言うんだけど、その“らしい”ってなんなのよ、っていつも思ってた。悠太は優秀だけど、私は天真爛漫でおバカみたいで、いつもその“らしさ”が分からないでイライラしてたんだ。」
「あははは。そうだったんだ。そうね、確かになっちゃんの言うことも一理あるわ!私も“由美らしく”って言われたら、イラっとするかも。」
「でも、それが”私は気付いてないけど悠太が気付いているもの”ってこと?」
「かもね。」
「う~ん…ますます悩んじゃう。」
「こうなったら、とことん悩んじゃえば!だって、イギリスには自分探しに来たんでしょ?悩め、悩め!」
もう、ここまでくると他人事にしか聞こえなかった。でも、ちゃーちゃんは、言葉は軽く聞こえるかもだけど、ちゃんと私のために言ってくれているのはわかる。だって、私にしか出せない答えだから。私が考えて、私が答えを出すべきなんだから。こんな子どもの与太話に付き合ってくれること自体、感謝だ。
“悠太君のこと、好きなんじゃない?”
言葉にされるとドキッとする。しかも、ちゃーちゃんに。私はずっと、この言葉を避けてきたのかもしれない。
《ナッキー、イギリスには慣れた?》
ちゃーちゃんの彼氏、アレックス。時々週末に遊びに来る。そして、まずは“ハーイ、ナッキー”と両頬にチュッとしてくれて、頭をワシワシっと撫でてくれる。もう、まるで子供扱いだ。ちゃーちゃんより、ちょっと年上で、メガネかけて、ぱっと見どこぞの教授風。こんなこと言ったら親父が喜びそうだけど、ちゃーちゃん、親父に似た感じの人、選んでるね。そんな私たちを横目に、ちゃーちゃんは手作りのミートパイを振舞ってくれる。こんなこと言ったら怒られちゃうけど、ちゃーちゃん、意外と料理上手なんだな。私なんて母さん任せで、料理は苦手だ。
《自分探しは上手くいってる?》
《全然ダメ!》
半年経って、やっと耳は英語に慣れてくれたけど、やっぱり喋るのはまだまだ上達しない。困るなぁ。だから、もっと内容のある会話をしたいのに、イエス・ノーみたいなぶっきらぼうな返事になってしまう。でも、アレックスはそれを分かってくれているのか、というかむしろ面白がっているのか、大笑いしてくれる。と、好意的に受けとめることにしている。
語学コースでは、色々な国の留学生がいて、最初はちょっと怖気づいてしまった。ヨーロッパの人たちがアジア人の見分けがつかないように、私もみんなイギリス人に見えていた。でも、ディスカッションのクラスでは、みなが政治や環境問題、経済などなど自分の国の状況をきちんと理解していて、“あなたの国はどうなの?”と興味を持って訊いてくる。正直、まともな答えを返せない自分がとても恥ずかしかった。“あなたの住んでいるエリアの人口は?”と訊かれた時は、こんなこと訊いてくるのか、というのと同時に、その答えを知らない自分に赤面した。ヨーロッパは、国境を隔てて違う国になるけど、地続きだ。自国のことは勿論、隣国のことも良く知っている。それが当たり前なんだ。親父が言っていた、もっと広い世界を見ろというのは、こういうことなのか。いかに日本でのほほんと育ってきたかを思い知った。
《どうしたの?まだ、学校は慣れない?》
アレックスはとても穏やかで、優しい人だ。ちゃーちゃんがズバズバ物を言う人だから、こういう人が彼氏なのが、なんとなくわかる気がした。何でも受けとめてくれそうな、大きな人なんだなぁと…。
《そうじゃないの。自分が恥ずかしくって》
《恥ずかしい?なんで?》
《ディスカッションのクラスで、ちゃんと自分の考えや意見を言えなくて…。それに、私何にも知らなかったんだなって思ったら、周りのみんながとても大人に思えて…。》
《知らなかったのなら、知ればいいさ。誰でも、最初は何も知らないよ。》
半泣きになりそうだった。ちゃーちゃんは、私たちの会話を黙って聞いていて、割って入ったりしない。私は、下手くそな英語で話しているけれど、それを助けることもしない。そして、アレックスは辛抱強く聞いてくれる。でも、この状況は決してつらいものではない。とても優しい空気を感じる。自分の言葉で伝えることの大切さを教えてくれているんだと思った。
《ナッキー、君に興味がなかったら、誰も質問なんてしてこないよ。みんな、君のことを知りたいんだよ。君はみんなのこと、知りたくない?》
《知りたい!》
《なら、話は簡単だ!ナッキーも、質問して、そこから学べばいいんじゃない?ね?》
オトナぁぁぁ。そうか、学ぶって、いわゆるお勉強だけじゃないもんね。人から学べることもたくさんある。そうやって、コミュニケーションを重ねて、教科書では学べないことを増やしていければいいのか…。
《アレックス、そう言えばね、この間、教会の裏道のお店で、窓ガラスに手書きでお店のロゴを書いている男の人たちを見たの。》
《へぇ、そうなんだ。》
《ロゴを書いていたのは、若い人だったの。親子か、お弟子さんなのか分からないけど。特に下書きもなく、フリーハンドでキレイな文字で、すごいなぁって、感動しちゃった。》
《今はもう、手書きの看板作る職人は減っているけど、その技術はまだ受け継がれているんだよ。僕も時々見かけるけど、あの人たちは芸術家だって思ってる。》
《受け継がれるって、すごいよね。昔からの技が今も生きているんだもんね。》
急に、アレックスが、頭をワシワシっとして、にっこり微笑んだ。
《ナッキー、ちゃんと自分が感じたことを僕に伝えられたじゃないか。知識だけが大事なんじゃない。君自身がどう感じたかを伝えることも、とても大事なんだよ。それで、みんな君を知ることが出来るんだから。》
ちゃーちゃんは、微笑んで聞いていた。イギリスの夏は、夜遅くても昼間のように明るい。今が夜であることを忘れそうなくらいだ。こんなゆったりと、どこか大人な週末を過ごせるなんて、本当に私は恵まれている。高校進学をやめた自分の選択は、正しかった。ちゃーちゃんはいいな。アレックスみたいな彼氏がいて。きっと私がいなければ、こうしてオトナな会話をずっと楽しんでいるんだろうな。悠太によく怒られた“なんででも!”なんてことは、きっと言わないだろう。いつか、私も悠太にちゃんとした会話が出来るようになっていたい。イギリスで学んだこと、その一。感じたことを感じたまま伝えること。
ー第六章 向日葵ー
福岡の夏は、“痛い”。もはや「暑い」を通り越している。日差しが強すぎて、参ってしまう。ただ、あっちにいた時よりは、夏の不快感は少ないように思った。福岡生活も、もう三年になる。僕は、相変わらずクールな博多弁は話せずにいる。ただ、じいちゃんが、段々僕にも博多弁で話してくれるようになった。親父のことがあるまで、あまりじいちゃんたちと過ごす機会がなかったから、お互いに微妙な距離感があったのは気付いていた。その距離が縮まってきたってことなのか。今でも鮮明に覚えているのは、親父の葬儀の時、十数年ぶりに再会したじいちゃんとばあちゃんの戸惑った表情だ。親父は僕をなかなか福岡には連れて行かなくて、あんな形での再会にどう接していいのか、お互いに分からなかった。だから、僕にとっては素のじいちゃんで接してくれることが嬉しい。じいちゃんは、東京が長かったとはいえ、やはり博多の人だ。なんてクールなんだ!
「夏木く~ん、なんしようと~?」
廊下の遥か彼方から自分を呼ぶ声がした。福岡版の“なつき”だ。でも、当然ながら名前は違う。
「何って、帰る支度してたんだよ。」
彼女は、同じクラスの紺野さん。うちのブラスバンド部でトランペットを吹いている。自慢じゃないけど、うちのブラスバンド部は市内ではまあまあレベルが高くて、現在コンテストを控えて猛練習中だ。
「いいなぁ。もう帰るとー?こっちは、まだ練習があるけん。まだ帰れん。」
「ってか…その向日葵、どうしたの?」
「あぁ、これ?ウチの庭に咲いとーを持ってきたとー。夏と言えば、向日葵!きつい練習を乗り越えるには、綺麗な花で癒されな頑張れんもん。でも、ま、それも今年の夏が最後になる…。」
「こんなに沢山の向日葵、久々に見たなぁ。」
「あぁ、そうね。じゃ、夏木君も一輪持って行きー。高三夏の記念に!」
と、本当に大きな向日葵を一輪、僕にくれた。花をもらうなんて、いつぶりだろう。それこそ、幼稚園くらいの頃に、なつきからチューリップをもらったくらいかも。それもなんでもらったかなんて、もう忘れた。
向日葵一輪を持って帰ると、ばあちゃんがびっくりしていた。
「まぁ、立派な向日葵!どうしたの?」
「クラスの女子がくれた。」
「悠太にこんな綺麗な向日葵くれる子がいたんだぁ。へ~。」
明らかにいじられている。当然、じいちゃんもニヤニヤして、面白がっている。
「よかあー、悠太。向日葵か…。」
「う…うん。」
「よかやんか、悠太も年頃なんやけん。」
「年頃って…別にそういう意味じゃ…。」
「そん年頃で女っ気がなかとも寂しかやろ。」
「だから、そんなんじゃないって!」
「悠太、これだけは伝えとくぞ。我が家は、どげん愛の形でも受け入れるー。相手が男性でも女性でも、自分が大切な人は大切やけんな。」
「いや…それは話が飛躍しすぎてるよ、じいちゃん。」
「あなた、何言ってるんですか。向日葵をもらってきたくらいで…。」
「ま、年頃なんやけん、好きな人でもおらんとな、悠太。わはははは!」
早く自分の部屋に戻るに限る。そそくさと夕飯を済ませて、部屋へ逃げ込んだ。こういう時のじいちゃんは、ややこしい。紺野さん達ブラスバンド部は、結構遅くまで練習しているので、僕がいる陸上部の練習終わりが遅いと、たまに教室で会うことがある。お互いに練習がハードだから、“お疲れ、そっちも大変だね”程度の挨拶をするくらい。随分前に、ある芸人さんの「放課後のトランペット練習の真似」なんて言うのをネットで見たことがあった。妙にツボに入ってしまい、友達と大笑いしていたら、紺野さんに激怒されたことがあった。まぁ、それだけ、彼女たちは真剣に練習をしていたということなんだけど。
僕が紺野さんを“なつきの福岡版”と思ったのは、なつき同様、理由が分からない会話が多いのだ。例の、大笑いで激怒の時も、なんであれくらいで?と思ったけど、
「なんなん、あんたたち!」
の凄まじい一言で打ちのめされた。後々になって、紺野さんの友達がその理由を説明してくれたんだけど、ここにも“なつき”がいたんだなぁと思った。あの“なんででも!”がフラッシュバックしてしまった。女子ってみんなこうなのか?とは思いたくないが、僕はその手のタイプを引き寄せてしまうのだろうか。
そういえば、最近、なつきから連絡が来なくなった。もう、イギリスからは戻っているだろうから、大検の準備で忙しいのだろうか。普通に高校へ進学せずに資格を取らないといけないわけだから、それはそれで大変なんだろうな。部活なんてするわけもないから、どうやって勉強以外の時間を過ごしてるんだろうか。いわゆる“普通の”三年間を手放して、なつきは自分らしい挑戦をしているのだから、僕は変わらずに応援している。言葉にするしないは別として。
三年前のあの頃みたいに、「進路」を決める時が来た。近く三者面談があるので、じいちゃんが一緒に行くという。あの時は、親父には何も相談しないまま、あんな形になってしまったが、なつきの親父さんとの約束がある。じいちゃんには、ちゃんと進路の相談をすること。
今日はいつもより患者さんが多くて、じいちゃんの晩御飯が遅くなった。僕は学校もあるから寝ようと思ったのだが、じいちゃんにつかまってしまった。
「おい、悠太。もうじき三者面談やろ。もう進路は決めたんか?」
「あぁ…漠然とは。」
「漠然とぉ?」
「うん。」
「選択肢がいくつかあって迷とーってことか?」
「う~ん…。」
「なんや、なんや。煮え切らんな。」
「こっちに越してから、考えが変わったというか、それでいいのか、自分でも分からないんだ。」
「考えが変わった?」
「うん。親父が死ぬ前は、人工衛星の設計者になりたいって思ってて、本当は高校も高専に行きたかったんだ。でも、福岡に来てからは、それがガラッと変わって…。それと、今目指そうとしていることが本当にやれる資格があるのかどうかとか、色々考えちゃって…。」
「やれる資格?」
「うん。」
じいちゃんは、しばらく黙り込んでいた。ばあちゃんは、敢えてこの会話には加わらないようにしているのか、違う部屋に行ってしまった。
「因みに、何ばしたかと思っとーとか?」
「医者。」
「医者?」
「うん。」
「そりゃまた…。人工衛星の設計者とはかけ離れたもんになったな。」
「そう。それで、ちょっと自分でも驚いているんだ。」
じいちゃんは、しばらく黙り込んでいた。僕から「医者」という言葉が出てきたのは、やはり意外だったのだろうか。正直なところ、もはや人工衛星の設計者の選択肢はほぼなかった。ただ、自分が「医者」になるのにふさわしいかどうか、誰かに背中を押してもらいたかっただけなのかも知れない。
「なして、医者になりたかとか?」
「それは、じいちゃんの背中を見てそう思ったんだよ。」
「自発的な意思、ちゅうこととは違うんか。」
「いや、そんなことは言ってないよ。ただ、じいちゃんみたいな医者になれるかどうかは、分からない。」
「なして、じいちゃんみたいな医者になりたいとか?」
「ただ単に、病気で苦しんでいる人を助けたいって言うのとは違うんだ。それはもちろん、根っこにあるものだけど、時々、じいちゃんの外来を覗いていたことがあってさ。皮膚病って、どうしても目に見えてしまう場所にあるでしょ?だから、患者さんがそれにコンプレックスを持って、日常生活が制限されてしまう、気持ちが落ち込んでしまう…。そんな患者さんに寄り添って治療をしているじいちゃんを、僕はすごいって思ったんだ。僕だって、たかがおでこに出来た小さいニキビがものすごく気になるんだから、患者さんはなおさらだよね。皮膚科って奥が深い領域だと思って。患者さんも、皮膚病そのものも。だから、じいちゃんみたいになれなくても、じいちゃんみたいになれたらって、思うようになったんだ…。」
「ふん…。」
「あとね。高校入学前に団地へ行った時、百々さんと話したんだ。親父のこと。」
「太んこと?」
「そう。僕は、てっきり親父は百々さんに嫉妬していたところがあったんじゃないかって思ってたんだけど、親父が嫉妬していたのは、いや、憧れていたのは、じいちゃんなんだよ。」
「…。」
「百々さんが教えてくれたんだ。親父は最初、じいちゃんみたいな臨床医を目指していたんだって。」
「太がか…?初耳や。」
「でも、どうしても苦手科目を克服できなくて諦めたって言ってた。それで、研究者を目指していた百々さんが、将来新たな発見をした時のために、知的財産を守ってあげるために弁理士を目指すって…。面白いよね。でも、親父は本当にその約束を守ってくれたって言ってたよ。」
「なんで太はゆわんやったんやろうな。医者ば目指しとったなんて、全く言うてくれんやったぞ。」
「その点では、僕も親父と一緒さ。人工衛星の設計者になりたかったのは、子供のころから宇宙に興味があったこともあったけど、僕が何か新しい発明をしたときに、親父に知的財産を守って欲しかったからなんだよ。つまり、親父と一緒に何かをしたいって。それで高専を目指そうと思ったけど、それを伝えられずに、親父は死んじゃったから…。百々さんに言われた。お前の親父もお前も“父親不幸だな”って。」
「ほぉ…。随分ハッキリ言うたもんや。」
「でも、本当にそうだよ。僕も後悔しっぱなしだ。親父に、一緒に仕事したかったって言えなかった。だから、大学への進路が決まったら、じいちゃんにちゃんと言おうと思ってたよ。ただ、自信がなくてさ…。」
一気に思っていたことを吐き出したら、じいちゃんも僕も黙ってしまった。頭が空っぽになった感じだ。息も上がっている感じがした。喉がカラカラだ。
「悠太。」
「うん…。」
「じいちゃんば見て、そげん風に思ってくれたことは嬉しかぞ。こりゃ本当や。だが、もし真面目に悠太が医者ば目指すなら、悠太がなりたか医者になれ。じいちゃんみたいな医者、とか言うんやなか。」
「じいちゃんみたいになれるわけないよ。」
「そうやなか。医者て言うたっちゃ、色々な医者がおる。最初は、誰かに憧れたとか、目標にするお手本はあるかも知れん。だがな、悠太。悠太は、悠太や。きっかけはじいちゃんやったとしても、悠太にしかなれん医者ば目指せばよか。」
「…うん。」
「そして、皮膚科に拘ることもなかぞ。興味ば持った分野ば、自分の専門にすればよか。皮膚科は確かに面白かし奥が深か。じいちゃんには、合うとったて思う。どげん勉強しても、いまだに正解に辿り着けたとは思えん。」
「じいちゃんでも、そう思うの?」
「そりゃそうたい。教科書通りの患者なんて、実は滅多におらんもんだ。患者の数だけ、病気があり、悩みがある。少のうとも、じいちゃんはそう思って、いつも診察ばしよったい。」
「僕は…医者になるだけの資質があるかなぁ。」
「そりゃ、わからん。別のハナシや。」
「え、あるって言ってくれないんだ。」
「真剣に目指すなら、まずは挑戦すればよか。資質云々を判断するは自分やなか。そもそも医学部に合格して、医師免許もたな医者にもなれん。」
「そりゃそうだね。」
「太がなぁ…。臨床医ば目指しとったか。何で言うてくれんかったんかなぁ。」
「それは、同じ“父親不孝”をした身としては、何となくわかる気がする。」
「じゃ、なしてや?」
「何となく…、だよ。」
夏休み前に、僕は陸上部を実質上離れることにした。そもそも、インターハイ予選前に僕は自転車で転倒して左足靭帯を損傷してしまい、候補は絶望的だった。それに、医学部を目指すとなったら、今のままじゃ時間が足りない。僕は、意地としてどうしても現役合格を果たしたいと思っていた。
顧問の先生と話を終えて教室に戻ると、紺野さんがいた。
「あ、夏木君!」
「やぁ。まだ練習してたの?」
「そう。でも、もう帰るとこ。夏木君は?」
「陸上部の顧問の先生と話しててさ。三年生の引退時期より前に、部活を離れるって言ってきたんだ。」
紺野さんがすごい驚いた顔をしていた。
「えぇぇぇ、なんてこと言うと~!うちら、インターハイで応援団の演奏で行くとに、夏木君は行かんってこと?」
「うん…。ごめん。」
「ごめんて…。なぁんだ、しけとー。」
「なんだよ。紺野さん達は応援で楽しんでくればいいじゃないか!」
「だって、夏木君がおらんなら…。女子たちはみ~んながっかりする。」
「何言ってんだ。山内とか、芝とか、エースどころがいるじゃないか。」
「わかっとらんな…夏木君は。」
ハイ、僕は何もわかりません。この手のハナシ、やっぱりダメだ。
「そうだ。向日葵!ありがとう。特にばあちゃんが喜んでた。」
「ほんと?良かった。向日葵って、お日様みたいやろ?気に入ってもらえてよかった。」
「家に花があるって、なんかいいね。」
「そう思う?」
「うん。」
「夏木君さぁ…。訊いてもよか?」
「何?」
「夏木君って、好きな人おる?」
「えっ?」
どストレートに訊かれて驚いた。好きな人?好きな人…。
「間が空くってことは…おるったい!」
「いや…そんな…。」
「じゃあ、おらんと?」
「…なんでそんなこと訊くんだよ?」
「うちね、部活の引退とインターハイが同じ時期やけん、それが終わったら言おうて思うとったと。」
「何を?」
「夏木君て、鈍か?それとも…わざと?」
「わざとって、何が?」
「わざとっていう感じでもないか。」
「だから、何が?」
「好いとうと…。」
“え?”
「気持ちを伝えたいと思ったと。」
びっくりした。それも、紺野さんから言われるなんて。突然すぎて、びっくりして、僕はしばらく何も言えなかった。教室には僕らふたりきり。ドアも開け放ち、窓も開いていて…。ただ、こういう時に限って、学校で誰かが何かをしている音がしない。時々窓から吹いてくる熱気を帯びた風の音だけが聞こえる。僕にとっては衝撃的な告白で、時間が一瞬止まったように感じた。随分長いように感じたが、きっと数分くらいの出来事だったんだろう。
「びっくりさせちゃったね。」
「…あぁ、びっくりした。」
「夏木君は?」
「へ?」
「へ?じゃなくて。」
「あ…あぁ…。」
「やっぱり、おるっちゃろ?」
「…。紺野さんが言ってくれたこと、嬉しいよ。だから僕もちゃんと言わなきゃね。…。僕には、幼馴染の女の子がいて、彼女じゃないけど、特別な存在なんだ。だから、他の誰かと付き合うってことは、まだ考えられないし、今は勉強に専念したいと思って…ます。」
「夏木君、バカやない?」
「バカ?」
「そう!大バカ!そういうのを、好きって言うっちゃん!そん子に言うとらんと?好きって。」
「いや、言うも何も…。あっちだってどう思ってるか…。」
「あぁ、これやけん頭のいい男子は…。絶対そん子は、夏木君のこと好きっちゃん。」
「なんで?」
「なんででも!」
でた!でた、でた!例のやつだ!僕の分からなくなるやつだ!やっぱり、紺野さんも“福岡版のなつき”だった。理由がないんだ。でも、なぜか説得力がある。僕の理解不能なやつだ。ただ、なつきと紺野さんとの違いは、なつきは紺野さんのような押しの強さはない。多分、小さいころからお互いを知っているからか、お互いの距離感というか、僕の間の取り方を分かってくれている安心感がある。
僕は、多分なつきに対してと同じように、紺野さんの顔を凝視していた。…みたいだ。
「なん?」
「え?」
「なんで、じっと見ると?」
「あ…いや…その…。」
「こっちに越してくるときに、夏木君、言ったと?好きって。」
「そんなこと!」
「あんた、今度会ったら、言ってあげてえ?そん彼女、絶対夏木君んこと、好きって。」
その時は、思わぬ形でやってきた。なかなか連絡がなかったなつきから、久々に電話があったんだ。
「悠太、久しぶり。」
「あぁ。元気にしてた?」
「うん…。今、話しても大丈夫?」
「あぁ、いいよ。」
「…。」
なつきから、溜息のような息遣いが聞こえた。こんな電話は今までになかった。
「どうした?」
「あの…、あのね…。」
「うん。」
「親父、がんになったの。」
「えっ?」
「告知を受けたのは、数か月前で…。」
あぁ、だからなつきは最近連絡してこなかったのか。
「うん。」
「ここにきて、急に体が弱ってきたから…。もし迷惑じゃなかったら、親父に会いに来てくれないかなと思って…。」
「行くよ!行く!」
「本当?」
「もちろんだよ。じいちゃんに話して、明日にでも行くよ!」
「そんな急になんて、無理しなくていいよ。来られるときに来てくれれば…。」
「バカ!電話してくるくらいなんだから、時間がないんだろ?明日行くよ!」
「ありがと…悠太。」
「しっかりしろよ、なつき!」
今度はなつきの番か。僕の親父が亡くなった時、なつきは本当に僕の気持ちに寄り添ってくれた。静かに。穏やかに。優しく。だから、今度は僕の番だ。事の次第をじいちゃんに伝えると、“それは早く行ってこい!状況次第では、じいちゃんも行く”と言ってくれた。
百々さん。なつきの親父さんは大好きだ。親父の次に大好きな人だ。そして、僕とじいちゃんは、百々さんにお礼を言わなくてはいけないんだ。僕らが知らなかった親父の気持ちを、唯一教えてくれた人だったから。親父の、かけがえのない幼馴染で恩人だ。こんな形で、また団地に行くことになるとは思わなかった。うちの親父もそうだけど、なつきの親父さんも早すぎるよ。がん…か。なつきのお母さんもさぞかしショックを受けていることだろう。なつきのご両親は、とても大らかで穏やかなご夫婦だったな。だった、なんて思っちゃだめだ。まだ、親父さんはいるんだから。
病室っていうのは、独特のにおいがする。消毒液?それとも患者さんが発するもの?よく分からないけど、親父の時も、何となくにおいの記憶がある。なつきの親父さんは、勤務先の大学病院にいた。なんでも、ご自身の体を研究に活かしたいので、今も研究参加者として何らかの研究に協力していて、亡くなった後も御献体されるのだという。
「なんだ、悠太。なつきに言われたのか?」
「親父さん、ご無沙汰です。」
「悠ちゃん、すっかり大人びてびっくりよ。」
「おばさんは、全然変わってませんね。」
「やーだ。口ばっかり。どこで覚えたんだか。」
「あれ、なつきは?」
「今ね、売店に行ってる。もう戻るんじゃない?」
「そうですか。」
親父さんは、目に見えて痩せてきている。これじゃ、なつきもつらいだろうに。僕の場合は、もう既に親父は亡くなった状態だったから、衰弱していく親父を見ずに済んだ。おばさんも、気丈だな。団地の時と全く変わらないや。そして、研究者である親父さんは、一番自分自身を分かっているだろうから、よくあれだけ冷静さを保っていられるなと、僕はただただ驚くばかりだった。
「あ、悠太!来てくれたんだ!」
「あぁ。なつき、久しぶり。」
心なしか、なつきもやつれてみえた。そりゃそうだ。親父さんが日に日に弱っていくのを見ているのだから。おばさんの手前、感情を露にすることも抑えているのかも知れない。
「親父、良かったね。悠太が来てくれて。」
「わざわざ遠くから呼びつけなくても…。なぁ、悠太。」
「いえ、そんなこと。僕は親父さんに会いたかったですよ。そうだ、良かったら、男同士のハナシ、いかがです?」
「へぇ、悠太がそんなこと言うようになったか。」
「親父さんが良ければ、ですけど。」
「もちろんだ。…じゃ、ふたりとも、そういうことで。」
「はいはい。男同士のハナシね。じゃ、なっちゃん、上のカフェに行こうか。」
「うん。じゃ、悠太、親父よろしく。」
そうそう、かしましい女性軍は追い出しておいて。僕はちゃんと話したいことがある。
「どうした、悠太。なんかあったか。」
「僕、親父さんにお礼を言わないといけないんです。」
「そんなこと、俺したかな?」
「もちろんですよ!三年前、親父のこと話してくれて。有難うございました。」
「あぁ、そんなことか。礼を言われるまでもないよ。」
「じいちゃんとも話しました。とても驚いていましたよ。まさか親父がじいちゃんみたいになりたいと思ってたなんて、って。親父さんの言う通り、僕も親父も、本当に“父親不孝”でした。」
「でも、良かったじゃないか。おじいさんにも太の思いが伝わって。」
「はい。」
「…それで、悠太は将来どうするんだ?」
「はい、医者を目指そうと思って。」
「ほぉ…。人工衛星の設計者から随分変わったじゃないか。」
「えぇ、それを言われちゃうと…。」
弱弱しい掌が、僕の頬に触れようとした。僕は、まるで息子のように、親父さんの掌に届くように、顔を寄せた。
「なりたいものが変わったって、いいじゃないか。悠太が決めたことだろ?」
「はい。じいちゃんの背中を見て、医者になりたいなって。でも、僕にその資質があるかどうかは分かりませんが…。」
「そういう考え方が出来るんなら、大丈夫だ!ただ単に、頭がいいから医学部に行く、なんて奴らもいるんだから。悠太はいい医者になるぞ!俺が保証する!」
「へへへ、有難うございます。嬉しいです。」
「太には、俺が伝えとくよ。」
「えっ?」
「もう、近いからさ…。お迎えが。」
「そんなこと!そんなこと、言わないでください。」
「いやいや…さすがに俺だって医学研究をしてきた人間だから、それくらい分かるさ。そこでだ、男同士バナシのついでになんだが、俺からも悠太に頼みたいことがある。」
「はい。」
「なつきのこと…頼むよ。」
「えぇ。わかっています。」
「あのな、太との“賭け事”を実現してくれというわけじゃないぞ。もちろん、そうなってくれれば、それはそれで良しなんだがね。そんなことは、悠太に強制したくないから、気にしないでくれ。俺が言いたいのは、なつきが困ったときに、心の支えになってやって欲しいんだ。結婚相手は、悠太が自由に考えろ。ただ、俺と太みたいに、悠太となつきも特別な幼馴染だからな。」
「大丈夫です。安心してください。なつきは僕にとって、大切な幼馴染ですから。」
親父さんは、僕の頭をくしゃくしゃっと撫でながら、頬の削げた顔でニコッと笑った。
「お前、俺の息子みたいだなぁ。悠太がなつきの幼馴染で良かったよ。」
「えぇ。僕もです。」
親父が逝ってしまった。正しくは、“逝ってしまっていた”。朝、親父の洗顔を手伝おうとしたら、冷たくなっていた。顔が穏やかで、本当に眠るように静かに逝ってしまっていた。誰も気づかなかった。だから、ドラマでよく見る、なんちゃらを挿管だの、点滴をどうのだの、心臓マッサージで大騒ぎみたいなことはなかった。私より先に気付いた母さんが、既に主治医を呼んでいた。看護師さんと脈を確認して、「ご臨終です。」と静かに言われただけだった。心の準備はそれなりにしていたけど、覚悟も出来ていたと思っていたけど、やっぱりダメだった。母さんは静かに親父の隣に佇んでいて、私だけが大泣きしていた。でも、ずっと苦しい治療を続けていたんだから、もうこれで痛くてつらい思いからも、副作用の強い薬ともサヨナラ出来るんだよね、親父。
悠太が会ってくれた二日後だった。悠太はしばらくいてくれると言って、ウチに泊ってくれていた。親父の代わりに、男性の存在があるのは心強かった。悠太の時もそうだったけど、これから事務的な手続きの説明がある。しかも、親父は大学に献体することになっているから、遺骨が戻ってくるのは、だいぶ先になる。すぐに悠太に連絡をし、最後のお見送りとして、親父の遺体を納める部屋に行くまでの短い間、ずっと付き添ってもらった。
「親父さん、大学に献体なんて偉いな。」
「最後まで、研究に貢献したいって言ってたから。親父らしいよ。」
「でも、ご遺骨はすぐには戻らないんだろ?」
「そう…。だから、葬式らしい葬式もしないし。なんだか変な感じ。」
「そっか…。」
母さんと悠太の三人で団地に戻ると、母さんは疲れたと言って、部屋に入ってしまった。
「なつき、屋上、行くか?」
「うん。」
団地の屋上は、私たちの秘密基地。色々な話を、悠太とした場所。
「ここは、変わらないね。」
「そう?まぁ…そうだね。」
変わったと言えば、高層マンションが増えたくらいか。団地の住民も徐々に世代交代してきて、ウチのお隣さんも新しい家族が越してきた。もう、悠太の家ではなくなってしまった。
「なつき、大丈夫か?」
「う…ん。なんていうか、まだ実感がないんだ。遺体は帰ってもないし、お葬式もしないし。悠太のお父さんの時は、大変だったけど、なんか区切りみたいなものがあったじゃない?ウチはそれがないからさ…。」
「そう言われれば、そうかもな。あぁいう儀式みたいなのって、仰々しいけど、気持ちを整理するには、必要なことかも知れないな。」
しばらくの間。でも気まずい間ではない。お互いに、ウチの親父のことを思う時間のような。しみじみとした時間だった。
「ありがとね、悠太。」
「何が?」
「すぐに来てくれて。」
「あぁ、当り前じゃないか。」
「福岡から遠かったでしょ?」
「まぁ…近くはない。でも、イギリスほどじゃないから。」
「嫌味ぃ~。」
「ははは。で…、どうよ。なつきは大学どうするの?」
「うん、三年前とは違って、目標は出来たよ。」
「なら良かった。」
「ただ、現役で合格できるかは分からないけどね。やるだけ、やってみるよ。」
「で、なつきの目標って?」
「親父が基礎研究の人だったでしょ?それを困っている人たちに届けられるようにするには、応用研究をやらなきゃいけないんだよ。基礎研究から応用研究へつなげる人になりたいと思って…。」
「へぇ、すごいじゃん!」
「悠太に言われてさ、“私なんか”って嘆く前に、努力しなきゃって思ったの。理系科目を学び直したりしてさ。ま~あ、大変だったわよ!そしたらね、意外と生物が得意だったとか、数学もまあまあ行けるって気付いて、理系科目も楽しいって思えるようになった。化学は相変わらず苦手だけど、センター試験受けるくらいにはなんとかね。だからね、公衆衛生学を専攻しようと思って。」
悠太は私の顔をじっと見てる。明らかに困っている。いや、困っているというか、想定外ですって顔が言っている。
「出たよ、悠太の困惑顔。」
「いや…。意外だなって思ってさ…。」
「ふん。やっぱり、“こいつ、大学も行くのやめた~って言うんじゃないか”なんて考えてたんでしょ?」
「そうじゃないよ。なんていうか、勝手なイメージだけど、なつきって芸術系に行くイメージがあったからさ。」
「えっ、なんで?」
「なつきは表現力が豊かだなって、昔っから思ってたから。表現者になるのかなって…。」
「へ~。そんなの初めて聞いた。」
「その目標って、親父さんには言ったの?」
「うん。言ったよ。」
「喜んでただろ?親父さん。」
「そうだね。イギリス行かせた甲斐があったって。」
「で、悠太はどうなの?」
「俺も専攻が変わった。」
「人工衛星の設計者じゃなくて?」
「うん、医者になろうと思って。」
「やっぱり!」
「え?」
「何となく、そうかなって思ってた。」
「なんで?」
「なんででも!」
久々に言ってしまった。ロジカルじゃないやつ。でも、こんな会話、久々でとても楽しい。それに、悠太が何度も困惑顔になるのも、面白かった。こういう会話が出来るのが、私たち。
「なんで、医者になるって思ったの?」
「悠太のおじいちゃん、お医者様なんでしょ?それにね、ウチの親父が言ってたんだよ。悠太は医者になるんじゃないか?ってね。」
「へぇ~。」
ウチの親父は悠太が大好きだったから、時々親父自身と重ね合わせていた気がしなくもなかった。母さんはともかく、ちゃーちゃんも私も性格も言葉もきついから、冷静にかつ論理的に話の出来る悠太と気が合っていた。悠太のお父さんの時は間に合わなかったけど、ウチの親父の臨終に悠太が間に合ってくれたことは…正確には生きているうちに会話が出来たことは、本当に良かった。
知らぬ間にマジックアワー。ぽつぽつ団地にも蛍光灯の灯りが増え始めた。この瞬間は、昔も今も変わらない。悠太も私も、しばらくこの夕間暮れに、思いを馳せていた。
「なつき…。訊いてもいい?」
「何?改まって。」
「…今さ、なつきは彼氏とかいるの?」
「急に何よ?」
「いや…。」
こんなこと訊く悠太なんて、珍し。
「いないよ。」
「そっか。」
「そっか、って何よ!そういう悠太はどうなの?」
「いねぇよ。」
「ふ~ん。」
今度は、マジで気まずい間。なんなのよ、一体。急に変なこと訊いてきて。
「なつきはさ、俺のこと…どう思ってる?」
「は??」
「どう?なつき…。」
一体何があったんだ。私はいつものようにアホ面をさらしている気がする。開いた口が塞がっていない。
「突然、どうって言われても…。」
「幼馴染以上でも以下でもない…か?」
むかつく!何を言わせようとしてるんだ!もし、私が気になっていることを言わせたいんなら、そういうのは言い出しっぺが先に言うんだよ!バカじゃないの??
「あのさ、さっきから何が言いたいの?」
「何がって…。」
「何かを私に言わせたいなら、言い出しっぺが先に言いなよ!」
悠太は黙り込んでしまった。三年前、悠太は有耶無耶にしたくないって、勇気出してライン送ってきたじゃん!あの時の“あの勇気”を今こそ出さなきゃじゃないのかなぁ?
「なつきは、俺のこと好き?」
“あ、言った”
「…。」
「それとも、やっぱり幼馴染か?」
「悠太は…私にとって大切な幼馴染だよ。」
「うん。」
私は、ここで大きく息を吐いた。落ち着け、落ち着け、私!
「でも、それ以上の存在だってこと、イギリスに行ってやっとわかった。」
「それ以上の存在?」
「私は、悠太が好き。」
悠太が私をまっすぐに見ている。驚いている?それともホッとした顔?
「…俺も。」
「うん。」
「俺も、なつきが好きだよ。」
今度は、お互い直視できずに下を向いてしまった。親父が悠太に言わせたのかな。でも、親父はそんなこと強制しないだろうから。なんでこんなことを悠太は口にしたんだろう。“好きだよ”って言われてメチャクチャ嬉しかったんだけど、親父が亡くなったすぐ後だったから、色々と勘ぐってしまった。まさか、悠太ががんとか大変な病気になったなんて言わないよね?死ぬ前に告っとこう…とか。
ふたりとも、大きく息を吐いた。そして、顔を見合わせて吹き出してしまった。らしくないね、お互いにさ、悠太。
「実はね、同じクラスの女子に告られてさ。彼女はいないけど、大切な存在の幼馴染はいるからって…。まぁ、要は断ったんだよ。そしたら、思いっきり言われたんだ…。」
「何て?」
「バカやないと!って。その子のこと、好きなんでしょ、なんで気付かないの?って。」
「アハハハハ!そうなんだ。」
「その子が言うには、なつきも俺のこと好きだよって。」
「はぁ?」
「だから、ちゃんと気持ちを聞いてみろってさ…。」
「それで、こんな話になったの?」
「それだけじゃないよ。確かに、その子に言われたことはきっかけのひとつにはなったけどね。その子に言われて思い出したんだ。“悠太は自分の頭の中で色々考えすぎて、結局相手に言わずに解決してしまう”って、なつきに言われたこと。それじゃ、相手に自分の気持ちを伝えられずに終わっちゃって、結局それを後悔してしまうってこと、親父の死で学んだからさ。」
「あぁ…。」
「なつきに、自分の気持ちを伝えなきゃ、何も始まらないだろ。幼馴染から一歩先に行くなら。」
「私も、イギリスの叔母に言われたんだ。好きなんじゃないの?その男の子のことって。幼馴染って、面倒くさいわねって。」
「確かに、面倒くさいな。」
「でも、幼馴染じゃなかったら、悠太との濃ゆい関係は築けなかったよ。悠太は、ただの幼馴染じゃないから。」
「うん。俺も。」
「だから、もし自分の本当の気持ちを言ってしまって、この関係が壊れたらどうしようって、どこかで思ってた。」
「うん。」
「同じ気持ちでいてくれて…良かった。」
悠太は、私の頬を両手で優しく触れてきた。
「しばらく会わない間に、素敵になったね。」
「…。やだ、恥ずかしいよ。」
「なつき…。キスしていい?」
無言で頷いた。私にとっては初めてのキスだ。多分、悠太も。お互いぎこちなくて、唇に軽く触れるのが精いっぱいだった。でも、これで十分だった。
きっと親父が…私たちに勇気をくれたんだね。ありがとう、親父。
ー第七章 遅れてきた春ー
僕は現役で合格出来て、今も福岡にいる。じいちゃんやなつきの親父さんと同窓生にはなれなかったけど、親父の好きな“地元の有名大学”へ医学部現役合格なんだから、よく自分でも頑張ったと思う。で、なつきはというと、現役合格はダメだったのだけど、なんと今日は一緒に合格発表を見に行くことになっている。
「同じ大学に行けるとよかね、悠太。」
じいちゃんは嬉しそうだ。“百々さんのお嬢さんが福岡の大学だと?”と最初はびっくりしていたけど、同時に喜んでもいた。ばあちゃんに至っては、
「やっぱり、悠太の初恋の人なんでしょ?」
なんて言っちゃって。年頃の女子が身近にいる生活なんてなかったから、じいちゃんとは別の意味で楽しんでいるように見えた。なつきはというと、じいちゃんが泊っていけばと言ってくれたのに、やはり子供の頃のようにはいかなくて、柄にもなく恥じらって、大学に近いビジネスホテルにいる。
さて、そろそろ迎えに行くか。本当に、同じ大学に行けるといいけど。今回は浪人生活の努力が報われて、既に東京の大学は合格している。だから、大学生にはなれる。問題は、本命と言ってくれたこっちの大学に合格できるかどうか、だ。
それにしても、なつきのお母さんもよく福岡行きを許してくれたものだ。合格すれば…のハナシだけど。一人娘と離れての生活、寂しくないのかな。なんて心配していたら、
「私はこの団地で、お父さんとふたりでいるから、なーんにも心配しなくて大丈夫よ!それに、大学が休みの時は、なっちゃんも悠ちゃんも帰ってくるでしょ?」
とのこと。なつきのお母さんはすごいんだ。なつきの親父さんの躰はなくなっても、魂はずっと一緒にいると信じている。だから、いつまでも生き続けるという。死生観というのか。達観していて、いつも圧倒される。
「悠太、お待たせ。」
心なしか、なつきが柄にもなく緊張した面持ちをしている。柄にもなく、なんて言ったら殴られそうだ。だから、余計なことは言わないに限る。
「今年は合格してるといいな。」
「あ~、やだ。もうドキドキする!」
高校受験の、ひとりで掲示板を見に行った日のことを思い出した。あの時は、まだ福岡に越してきて間もなくて、親父の言う“地元の進学校”に合格できるか不安でたまらなかった。やはり大学の合格発表だけあって、あの時以上にすごい人だかりだ。こういう時は親子で見に行くもんなんだな。さしずめ、僕はなつきの親父さんの代わり、というところか。
「受験票、見せろよ。一緒に探そう。」
「うん。」
あちこちで、歓喜の声。落胆の溜息。合格発表のよくある場面だ。二三二三七、二三二三七…。
「悠太!」
「あったな、なつき!」
「あった、あったぁぁぁ!」
ホッとしたのか、なつきが崩れるようにして大泣きした。周りの高校生らしき一群が、びっくりして振り返っていた。高校生より浪人生が感情むき出しで喜んでいる。それもちょっと恥ずかしいから、この場から離れよう。
「よかったな、なつき。」
「うん…。うん…。」
なつきは、僕の中で大泣きしていた。理由は分かる。親父さんとの約束を果たせたんだな。そうだよな、なつき。よく、頑張ったよ、本当に。
「親父さん、きっと喜んでるよ。」
「うん、そうだといいな。」
「絶対喜んでるって!おばさんにも、早く報告してあげなよ。」
当のなつきは、おばさんの存在をすっかり忘れていて、ひどい奴だ。少し遠巻きになつきを見ていたが、あの様子だとふたりで合格を大喜びして大泣きみたいだ。これで、なつきの福岡生活が決まった。僕としては大はしゃぎしたいくらい嬉しいのだが、そんなことがばバレたら、じいちゃんばあちゃんにどれだけいじられることか。なつきがおばさんと話している間に、僕の方はばあちゃんに連絡を入れておいた。ばあちゃんは料理上手で、いつかの高校合格のお祝いのように、豪華な料理でお祝いしくれるという。そういえば、じいちゃんも、なつきと話したいと言っていたっけ。“あの百々さんのお嬢さんだろ?”と、とても気になっていたようだった。
「これで、悠太の後輩だね。」
「同じ医学部に行けるなんてな。」
「私は、親父の研究を日本中に届けたい。」
「俺は親父の代わりに、じいちゃんを超えたい!」
「お互いに、幼馴染でいいライバルだね。」
「…それだけじゃないだろ?」
「…彼氏だね。」
やっと受験勉強から解放されて、一年遅れの春がやってくる。僕たちに。
祝いの宴は、やはり「博多祝い歌」で盛り上がった。なつきも、大喜びでじいちゃんにつきあってくれた。珍しくばあちゃんがお酒を嗜み、なつきを“可愛い、可愛い”と歓迎してくれた。家の中が、パッと華やかになった感じだ。そう、いつか紺野さんがくれた、大輪の向日葵が来たみたいだった。なつきは表現力が豊かだから、身振り手振りで話してくれて、それがじいちゃんやばあちゃんにはとても楽しかったんだと思う。本当に、大輪の向日葵だ。そして、これは想定外だったのだが、ほろ酔いのばあちゃんが、なつきに泊って行けと引き留めていた。なつきは“どうしよう”とはじめは困った顔をしていたが、結局、ばあちゃんに負けて泊ってくれることになった。良かった。
「悠太、なつきさんはいいお嬢しゃんばい。」
「じいちゃんもそう思う?」
「あぁ。もちろんだ。百々さんも、よかお嬢しゃんに恵まれて良かったな。」
「百々さんとうちの親父が幼馴染で、良かった。」
「それにしたっちゃ、ふたりとも早うに逝ってしもうたな。」
「大丈夫だよ。きっとあっちでも一緒だから。」
「そりゃそうばい。」
「ばあちゃんがとても嬉しそうで、それもよかった。これまで、ずっと野郎ばかりで、年頃の女の子が身近にいるなんてことなかったもんね。」
「ばあちゃんな東京ん人やけん。仲間が増えてよかったな。」
これから、幼馴染からちょっと進化した生活が始まりそうだ。まさか、なつきが福岡に来ることになるとは夢にも思わなかったが、それもこれも、お互いの親父たちのお蔭かも知れない。目に見えないパワーを送ってくれているのかも知れないし。なんて言うと、なつきにからかわれそうだから、黙っとく。親父たちのあのアホな賭け“夏木なつき”になる、というのはまだ分からない。そこはなつきを縛りたくないし、自分自身もこの先のことは分からない。ただ、やっぱり。僕にとって“なつき”はなつきしかいないから。なつきにとっても“夏木”は僕しかいないって思ってくれたら…と思っている。これも、なつきには内緒にしておく。そうそう。これだけはあいつに釘を刺しておこう。
「なつきさぁ。」
「何?」
「大学で“なつき”って呼ばれて、同時に振り向くんじゃねぇよ!」
了




