継母と妹に虐げられた令嬢と結婚した辺境伯は、嫁の実家を許さない。
侯爵令嬢リズ。それが私。
でも、それは幼い頃に失った遠い記憶の欠片のようなもの。
母は私が三歳の時に亡くなった。病弱だった母は、白いリネンに包まれて、まるで眠っているかのように穏やかだった。けれど、その頬に触れると、ひどく冷たかった。私は、それが永遠の別れだと幼心に理解することができず、ただただ母の枕元で声を上げて泣いた。
父が再婚したのは、それからすぐのことだった。
凛とした天然美人だった母とは正反対の、派手で華やかな男爵令嬢。継母は、まるで季節が一瞬で変わったかのように、屋敷に新しい風を吹き込んだ。
たしか、最初は優しかった記憶がある。
まだ幼かった私を「リズは可愛いわね」と抱きしめてくれたこともあった。その腕は、母とは違う健康的な温かさだった。私はその腕の中で、少しずつ母を失った悲しみを癒していった。
けれど、それは長くは続かなかった。
一年後、継母にそっくりな、派手な顔立ちの妹が生まれた。
リーサと名付けられたその子は、継母の溺愛を一身に受けて育った。リーサが生まれてから継母の態度は一変した。私への優しい言葉は消え、その代わりに冷たい視線が向けられるようになった。血の繋がっていない前妻の子供より、自分の子供がかわいいのは幼いながらも理解はできた。それでも、ここまで態度が変わってしまうのか、と思っていた。
父は、いつも忙しい人だった。
領地経営が上手くいっていないこともあり、毎日朝早くから夜遅くまで仕事に奔走していた。父が屋敷にいない間、私は継母と妹の専属のメイドになった。
「リズ、リーサの部屋を掃除しておいて。部屋が汚いと、リーサが可哀想だわ」
「リズ、リーサの食事の給仕はあなたがしなさい。あなたはリーサの食べ残しを後で食べなさい」
母譲りだろう。妹も私の扱いがひどかった。
父の見ていないところで、私に用事を押し付け、命令し、そして……時には暴力も振るった。
継母も事あるごとに私を殴った。私が前妻にそっくりで、自分と似ていないことが憎かったのだろう。ある日、頬を腫らした私に父が気づいた。
「リズ、その顔はどうした?」
父の優しい声に、私は胸がいっぱいになった。
今ならすべてを話せる。継母にひどいことをされていると、父に言いつけてやろうと思い、口を開いた。その瞬間、私の隣に座る継母が、父の言葉を遮った。
「屋敷内を走り回って顔をぶつけてしまったの……この子ったら本当に落ち着きがなくて」
「違っ……」
否定しようとしたら、テーブルの下で太ももを思いっきりつねられた。あまりの痛みに声が出ず、私はただ黙り込むことしかできなかった。父は、信じ切った顔で「気をつけなさい」と私に言った。その言葉は私の心を深く抉った。
◇
そんな幼少時代を経て、私は二十歳になった。
侯爵令嬢とは名ばかり。私の部屋は屋根裏の物置部屋で、着ているのはメイド服だけ。食事は使用人用の食堂で、残飯を食べることも多かった。父は、もはや何も言わない。妹のことを溺愛し、私を見て見ぬふりをする。
冬の冷たい空気が肌を刺す。私は硬いタワシを握りしめ、屋敷のダイニングの床を磨いていた。冷たい石の床は、私の心と同じように冷え切っている。
その時、激しい痛みが脇腹を襲った。思わず「あっ……!」と小さな悲鳴を上げて、床にうずくまる。息が詰まるほどの激痛だ。
顔を上げると、そこに立っていたのは妹のリーサだった。高級なシルクのドレスをまとい、優雅なティーカップを片手に、私を冷ややかに見下ろしている。
「邪魔なんだけど、お姉様。いまからお母様とアフタヌーンティーなの。食欲が失せるから、早く消えて」
リーサの言葉は、まるでゴミを見るかのような侮蔑に満ちていた。脇腹を押さえながら、なんとか立ち上がろうとする私を、リーサは鼻で笑い優雅な足取りで去っていった。
どうして、私がこんな仕打ちを……。
悲しみと屈辱で胸がいっぱいになった私は、その場に座り込み、ただただ涙を流した。
屋根裏の自室に戻ると、私はジュエリーボックスから母の形見のネックレスを取り出した。美しく輝くエメラルドの宝石。このネックレスは、母が亡くなる直前に私にくれたものだ。屋敷に飾ってある父と母の肖像画にも、このネックレスが描かれている。
これを手に取ると、まるで母がそばにいてくれるような気がして心が落ち着いた。このネックレスだけが、私の心を支える唯一の希望だった。
ある日、リーサと辺境伯との婚約の話が出た。
隣国との国境を治める辺境伯は格上の貴族。父の領地経営にも多大な支援があるのだろう。そして、私にも話が持ち上がった。格下貴族、男爵令息との婚約だ。
「ふーん、お姉様には男爵夫人がお似合いね。私は辺境伯夫人。やっぱり格の違いかしら」
リーサは、私を嘲笑うように言った。でも、私はこの話を聞いて、心から安堵した。やっとこの屋敷から出られる。やっと、自由になれる。
辺境伯には悪い噂があった。隣国と常に緊張状態にある中、常に常勝している軍を指揮する辺境伯は、『野蛮な悪魔』と呼ばれていた。
数日後、男爵令息との顔合わせの日がやってきた。
私は、久しぶりにメイド服ではない、ちゃんとした令嬢のような服を着ることが許された。妹の着なくなったドレスではあったけれど、私は嬉しかった。
屋敷を訪れた男爵令息は、まるで神話に出てくる英雄のような端正な顔立ちをしていた。長身でスタイルも良く、優しそうな人だった。私は彼の顔を見て、少しだけ胸が高鳴った。
その時、リーサが私よりもずっと上質で高級なドレスをまとい、現れた。その胸元には、キラキラと輝くエメラルドのネックレスが光っていた。
私の母の形見だ。
「ちょ……リーサ、それは私の……」
思わず立ち上がり、ネックレスを取り戻そうとリーサに近づく。すると、リーサは私を睨みつけて言う。
「これは私のよ。お姉様っていつも私のものを欲しがるのね」
「違う! それはお母様の形見なの!」
私たちは揉み合いになり、父と継母に制止された。
「リズ! お前はもういい、出ていきなさい!」
父の怒声に、私は呆然と立ち尽くした。
いつも悪いのは私ということになる。父からの愛情が微塵もないことを再認識した。
部屋を出ていこうとする私を、リーサが呼び止めた。
「お姉様。忘れ物よ」
リーサは、そう言ってネックレスを雑に掴み、鎖をちぎって私に投げつけた。床に転がったネックレスは、鈍い音を立てて光を失っていた。壊れてしまったネックレスを、私は震える手で拾い上げた。
その夜、私は一晩中泣いた。
母の形見を壊された悲しみと、父に見捨てられた絶望で胸が張り裂けそうだった。
後日、父に呼び出された。
「リズ、男爵令息とリーサの婚約が決まった」
「え……」
「リーサの代わりに、お前は辺境伯に嫁ぐことになった」
「野蛮な悪魔」と呼ばれる辺境伯のもとへ嫁げという事?
侯爵家より格上の貴族である辺境伯への挨拶は、こちらから伺うことになる。さらに、見初められれば、そのまま辺境伯の屋敷で暮らすことになる。
私は一人、馬車に乗り、隣国との国境にある辺境伯の屋敷へ向かった。馬車に揺られながら、私は壊れたネックレスを握りしめていた。もう、この屋敷には戻らない。戻りたくない。
でも、「野蛮な悪魔」のところで、私は行きていけるのだろうか……
実家の四倍はある広大な敷地と、その中心にそびえ立つ屋敷に圧倒された。まるでお城だ。
私は、執務室へと案内された。
そこには、軍服を着た、まるで絶世の美女のような綺麗な顔立ちの男がいた。黒い髪は夜空のように深く、白い肌は陶器のようになめらか。瞳は、夜明けの空のように透き通った青色。その顔立ちは美しすぎる。この世のものとは思えなかった。
(この人が……辺境伯? 野蛮な悪魔どころか、まるで女神みたい)
彼は、私を一瞥すると、冷たい声で言った。
「キミが、私の婚約者……リュート侯爵令嬢か?」
「は、はい。リズ・リュートです」
「そうか。私はエドワード。エドワード・フェニクシアだ」
そう言うと、彼は再び書類に目を落とした。長い時間が流れる。秒針の音だけが部屋に響く。
「なんだ、まだなにか用か?」
「え?」
「用がないなら、もう下がってくれないか。忙しいのだ。部屋は用意してある、そこにいる執事に案内してもらえ」
私に興味がまったくないようだ。一応、婚約者……なのに。顔はきれいでも、心はやっぱり『野蛮な悪魔』なのかしら。私はそう思った。
その日の夜、用意された部屋のベッドに座って読書をしていると、ノックの音が聞こえた。
「は、はい」
部屋に入ってきたのは、エドワード様だった。
昼間の凛とした姿とは一変して、随分と疲れた様子だ。眉間に深い皺を刻み、肩を落としている。
私がベッドから立ち上がろうとすると、「そのままでいい」とエドワード様は言った。
そして、信じられない言葉が続いた。
「リズ、膝枕……してもらっていいか」
私は耳を疑った。昼間のあのそっけない態度からは信じられない言葉だ。
「は、はい」
私は呆気に取られて承諾してしまった。
エドワード様が私の膝に頭を乗せ、寝転ぶ。
「あぁぁっ疲れたー。書類多すぎだろーーッッ」
「リズ、頭を撫でてくれーッ」
昼間のクールなキャラはどこへ行ったのだろう。
あまりのギャップに、私は思わず笑ってしまいそうになった。彼の頭を撫でていると、十分ほどでスースーと寝息を立て始めた。
その日は、そのまま夜を明かした。
次の日、私が起きるとエドワード様はもう部屋にいなかった。
執事に案内されてダイニングに向かうと、書類を見ながら朝食を取るエドワード様がいた。
「おはようございます」
私の挨拶は無視された。
「あの……」と声を掛けるが、「何か用があるのか? あとにしてくれ」と、そっけない態度。
ギャップがすごい。もしかして、昨日だけ甘えてきたのだろうか。
そう思っていたのだが、その夜もエドワード様は私の部屋に来て膝枕を要求した。
それから一ヶ月、毎日のようにやってくるエドワード様。
どうやら、彼は仕事モードと甘えモードのギャップが激しいらしい。
甘えモードの時は、色んな話をした。
戦争の話、領地の話、そして、彼の過去の話。彼は、軍を率いるという重圧と、常に死と隣り合わせの生活に疲れていたのだろう。
私は、そんな彼の話を聞くのが好きだった。
ある日、私は自分の生い立ち、継母や妹に受けた仕打ちの話をした。その時だった。
「なんだと? その話は本当か」
急に仕事モードの顔になるエドワード様。冷たい表情に戻り、私を鋭い眼差しで見つめる。
「え? ええ」
「そうか。継母や妹が嫌いか?」
「それは、まあ、好きではないです」
「父親も嫌いか?」
「はい……私のことはメイドだと思っているし」
「そうか……では……没落させるか」
私は耳を疑った。冗談だと思った。
しかし、次の日、エドワード様は軍を率いて屋敷を出ていった。
「エドワード様、まさか私の実家に?」
「当たり前だろ、俺の婚約者を虐げた報いを受けてもらう。帰ったらご褒美に膝枕してくれ」
そう言うと、エドワード様は意気揚々と馬を走らせた。
その横顔は、まるで『野蛮な悪魔』のようだった。
私は、彼の背中を見送る。
◇
数日後、エドワード様が帰ってきた。
「戻ったぞ、リズ」
いつもと変わらない、優しい声。
でも、その手には、父と継母、リーサの顔が描かれた肖像画が握られていた。
「これ、どうしたんですか?」
「リュート侯爵家から、もぎ取ってきた。キミの家族はもう侯爵家ではない」
エドワード様はそう言うと、肖像画を床に放り投げた。そしてその肖像画をゴミのように踏みつけた。
「さて、リズ。約束通り膝枕をしてくれるか?」
エドワード様は、そう言って私に手を差し伸べた。
私は、その手を握り返事をする。
「はい、喜んで」




