着たい服を自分で選ぶ
セレナに導かれ、怜は初めて下着専門店を訪れる。戸惑いながらも、自分の体と向き合い、試着を通じて『守られる存在』としての自覚を得ていく。鏡に映るブラ姿の自分に、少しだけ『可愛い』と思えたその瞬間、怜は一歩、女の子としての現実を受け入れた。そして、自ら選んだ下着を身につけ、ほんの少しだけ胸を張って歩き出す。
下着店を後にした怜とセレナ。怜の手には、出てきたお店のロゴが入った紙袋が下がっている。何となく人に見せるのが恥ずかしくて、ロゴを隠すようにして、怜はその紙袋を胸元に抱いた。
服屋さんで買ったものが入っている大きな紙袋二つは、どちらもセレナが持ってくれた。試着室を出た時、彼女が既に両手に抱えており、一つ持とうかと声を掛けても、優しく断られた。その心遣いは少しくすぐったかったが、嬉しかった。
セレナは荷物持ちをしているのに、不満どころか、満足気な顔で、隣を歩いている怜を眺めている。けれどその笑みの裏に、ほんのわずかに翳りが混じったような気がして、怜は視線を合わせられなかった。『ちゃんと選べたね』と褒めてくれたのにどうしたのだろう。怜には心当たりがなかった。
「お疲れ様。疲れてない?」
「服屋さんの時と比べれば、よっぽど。……その、ありがとうございました。いっぱい待たせちゃって、すみません」
陽はすっかり傾き、もうじき空は茜色に染まるだろう。午後全てを怜の買い物に使ったセレナだったが、怜をサポートできたのを満足に感じていた。
「いいんだよ。私がここに居るのは、レイを助けるためなんだから。それに、今日できなかったこともまだあるから、また今度お出かけしようね」
「まだ、あるんですか?」
「うん。お化粧、一度はしてみて欲しいんだ」
「化粧、か……」
忌避感はなかった。ただ、未知の領域に踏み込む不安があるだけ。女の子がすることだと頭ごなしに否定するような考えは、今の怜の頭には、これっぽっちも浮かばなかった。
「まぁ、今日は時間がないから、また今度ね。いっぱい買っちゃったし、一度宿に戻ろう」
「僕、まだ宿なんて取ってないですけど……?」
「リンキシアがみんな泊まる宿があるんだ。集会場の隣にあって、こだわりがなければいいところだよ。窓口で転居手続きをしない限り、ずっとタダで泊まれるんだよね」
「福利厚生、整いすぎじゃないですか? リンキシアって」
「そうだね。その分、この国のために働かなきゃいけないんだけど。リンキシアはいろんな力を持っている人がいるから、囲われてるって言い方もできるね」
少しだけ低くなったセレナの声。その言い方には、どこか影があった。まるで、リンキシアが国に使われているような口ぶりだ。少し遠くなった視線は、誰かを──あるいは自分自身を思い出しているように見えた。
(セレナさんは、何を知っているんだろう)
そんなこと、直接聞けなかった。
──◇──◇──◇──
リンキシアの宿は、四階建ての大きな寮のようだった。すべての部屋は一人住まいを想定したワンルームで、その代わりに仲間内で集まれるラウンジスペースが一階に用意されていた。二人は荷物を置くことを優先して、まずは怜の部屋に向かった。
長い廊下に並んだ、沢山の木の扉。その一つにセレナがカギを差し込んで回すと、ガチャリと鈍い音がした。彼女がカギを持っていたのが不思議だったが、指導役だからだろうと納得した。そのままセレナがドアを開け、中に怜を呼び込む。
「ここが、今日からレイが過ごす部屋だよ」
「思ったよりも、ずっといい部屋ですね」
一人で住むには十分な、クローゼットに鏡台、セミダブルのベッド。むしろ豪華と言ってもいい。簡単なキッチンやトイレはあるものの、お風呂や洗濯場所のような水回りはない。それらは宿に共用のものがあるらしく、まさに寮のようだった。
怜は今日買った服を丁寧にクローゼットにしまい、扉を閉める前に一度眺めた。ワンピースにカーディガン、そして部屋着のセットアップ。どれもセレナと一緒に選んだものだ。
(これ、全部僕の服なんだよな)
引き出しの中には、ブラやショーツも収まっている。どこからどう見ても、女の子の部屋。そこに、男だったころの怜の面影は、ひとかけらも残っていない。まるで、この世界から『朝霧怜』が消えて、『レイ=アサギリ』が生まれたような感覚。
(でも、ちゃんと残ってる。僕の中に、朝霧怜だった時の記憶)
怜はもう、怖くなかった。周りから女の子として見られても、自分が変わるわけでは無い、そう思うことができるようになっていた。ゆっくりとクローゼットの扉を閉めた。朝霧怜としての人生に、そっと幕が下りたようだった。
「お疲れ様。今日はよく頑張ったね」
セレナの優しい声。今日、何度救われただろう。怜は肩の力を抜いて、セレナに向かい合った。感謝の表れか、作り物ではない、自然な笑みがこぼれた。
「まだちょっと、落ち着かないですけど。ありがとうございました」
怜の笑みに答えるように、セレナも優しく笑いかけてくれた。言葉以上のやり取りに、怜の胸を暖かいものが満たした。
──◇──◇──◇──
「せっかくだから、もうちょっとお話していこうよ。ラウンジにいこう?」
セレナに誘われて、怜は宿の一階へ向かった。ラウンジはまるでカフェのようで、ゆったりとしたソファが並び、低めのテーブルが静かに空間を仕切っている。壁際にはドリンクサーバーも設置されており、天井から下がった裸電球が部屋を暖かく照らしていた。
「紅茶でいいかな。温かいやつ」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
セレナは二つのマグカップにティーパックを入れ、それぞれにお湯を注ぎ、片方を怜に渡した。思ったよりもマグカップが重く、怜はこんなところで己の非力さを思い出した。
ソファにセレナが座ると、隣の席をポンポンと軽く叩いた。隣に座ってと言われては、断るわけにもいかない。その距離感を少し気恥ずかしく思いながらも、怜はそっとセレナの隣に腰を下ろした。思ったよりも近くて、セレナの体温が伝わってくる気がした。
胸の前で、暖かいマグカップを抱える。視界には今日買ったラベンダー色のパーカーと、デニムのショートパンツ。パーカーの下には女の子の下着の感触。ショートパンツからは白い素肌を晒しながら伸びる太もも。足を広げて座るのがどこか恥ずかしくて、膝をピッタリとくっつける。
「──その服、似合ってるね」
セレナがそう言ったのは、怜が紅茶に口をつけたタイミングだった。
「え? あ、ありがとうございます」
思わず、カップを持つ手が止まった。どう返せばいいか分からず、テンプレートの返事でごまかした。
「レイの雰囲気によく合ってるよ。いいチョイスだったんじゃないかな」
「そうですか? ただ、渡されたものの中から選んだだけですけど……。こんなに短いの、着たこともなかったし」
怜の視線が太ももに落ちる。長ズボン以外を外ではいたのは、いつぶりだろうか。少なくとも、社会に出てからは、ジーンズにスラックス、ずっと長ズボンだった。
「それでも、レイが自分で『この服を着て過ごそう』って思ったんでしょ? なら、自分で選んだってことだよ」
そのセレナの言葉は、怜の胸にすっと染み込んだ。少なくとも今着ている服は、『自分で選んだ』と胸を張って言える。この世界に来て初めて、自分で行動を起こした瞬間がそれだった。
(僕も、自分の好きなようにして、良いのかな)
良さそうな服の候補を貰って、少しだけ手伝ってもらったけれど。それでも、最後に決めたのは自分。その事実が、怜の心を支える柱となった。
しかし、まだ怜は理解しきれていないところがある。どうしてそこまで、自分で選ぶことをセレナが求めているのか。別に、人の期待に応えるのだって立派な生き方に思えた。けれど、きっと違うのだろう、そんな予想もつく。
「その……セレナさんって、『自分で選ぶ』ってことにこだわりますよね。やっぱり、大事なんですか?」
セレナは怜の言葉に目を細め、言葉を選ぶように逡巡してから答えた。
「誰かの指示だけで動いてたら、自分の形がどんどん曖昧になっていくよ。選ぶってことは、『自分がここにいる』って証明みたいなものなんだ」
「ここに、居る」
「そう。今のレイは、確かにこの世界に『居る』んだ」
セレナの言葉に、怜はしばらく返事ができなかった。この世界に来たとき、いや、そのずっと前から、自分には居場所がないと思っていた。誰かに求められ、誰かに自分を見てもらうことで、ようやく存在している実感が湧いた。でも、『他人は関係ない。自分が自分を作る』と、セレナはそう言っているように聞こえた。
「ちゃんと、ここに居ますか、僕」
「うん、居るよ」
とてもシンプルな返事だった。それでも、怜にとってはこれ以上ない言葉だった。怜もセレナも喋らず、静かに紅茶の入ったマグカップを傾ける。会話が続かなくても、心地よい空気が流れていた。
──◇──◇──◇──
宿の入り口のドアが開き、その音につられて怜が顔を上げた。入ってきたのは、全身汗まみれになっている獅音と、比較的余裕がありそうなガイトだった。
よほど暑いのだろう、獅音が着ていたはずのパーカーは小脇に抱えられ、下着のシャツが体に張り付いている。ジーンズは砂と潮水で汚れていた。ふんわりと熱気すら伝わってくる。
「はぁ……着いた……」
「お疲れ様。よく頑張ったじゃないか」
「いや、余裕っすよ……」
獅音が吐いたセリフは立派なものだが、声には疲れがありありと浮かんでいる。シャツで顔に滲む汗を拭う仕草さえ、重たく見えた。それに比べてまだまだ元気なガイトは、ラウンジに見知った顔を見つけると、声を掛けた。
「よう、セレナ。帰ってたんだな」
気張らずに、セレナへ声を掛けるガイト。その姿を見て、ほんの微かにだが、セレナは顔を輝かせたように見えた。その笑顔は、怜に見せていたものとは違う種類のものだった。怜には見せない、対等な誰かと過ごすときのそれ。
(なんだか、別人みたいだ)
ほんの一瞬、目だけで何かを伝え合ったようにも見えた。怜には入り込めないやりとりがそこにある気がして、少しだけ胸がざわついた。セレナにとってのガイトは、どんな存在なんだろう。自分にとっての獅音とはどう違うんだろう。思わず比較してしまう。
一方でその獅音は、ラウンジのソファに座っている怜を見つけると、その場で立ち止まった。視線が怜の頭の先からつま先まで、素早く、しかし確実になぞる。まるで、『お前、なんでそんな格好を?』とでも言っているかのように。
怜は、その表情に気付いた。でも、言葉にするのは恥ずかしくて、ふんわり微笑んで誤魔化した。セレナとガイトが会話してくれているから、その場はそれでなんとか保っていた。
「お疲れ様。初日の仕事はどうだった?」
「なかなか根性のあるやつだ。測定結果だけじゃ分からないこともあるって、我ながら実感したよ」
「それは良かった。レイが呼んだんだから、私は心配してなかったけどね」
「後出しならいくらでも言えるだろうさ。風呂にでも入ってくる。終わったら四人で飯でもどうだい?」
「いいね。歓迎会といこうか。お店はいつものとこ、予約しておいてくれる? レイ、シオン、来てくれるかな?」
怜はちらりと獅音の様子をうかがった。獅音は何も答える様子がない。まるで、怜が決めろと言っているようだった。怜は悩むまでもなく、軽く微笑んで答えた。
「もちろん、ご一緒させてください。獅音くんも来るでしょ?」
「──え? あ、ああ、行くよ」
妙な間があった。なにか他のことを考えていたのだろうか。もしかして、女の子になった自分に見惚れているんじゃないか、なんて冗談を自分の胸の中で言った。ガイトは、怜の柔らかい雰囲気に目を見張り、セレナを小突いた。
「お前、何か吹き込んだんじゃないだろうな。昼とは別人じゃないか。油断してると、どっかの男が惚れちまうな」
「何も吹き込んでないさ。ただ、レイが自分で自分の在り方を探している途中なんだよ」
「そうか。……じゃ、俺たちは風呂に行ってくるわ。おいシオン、着替えを持って、風呂だ、風呂」
カラカラと笑うセレナは、今までに見たことのない雰囲気をしていた。ガイトと旧知の中のようで、何となく、お似合いだと思った。一方、獅音はどこか地に足ついていない様子で、受け答えもはっきりしない。ガイトに連れられて部屋に向かう姿も、なんだか頼りなかった。
──◇──◇──◇──
ガイトたちを見送ったセレナは、飲み終わったマグカップを片手に、ソファから立ち上がった。
「さ、私たちもお風呂に行こうか。街を歩き回って、汗もかいたろう」
「えっと……一緒に、ですか?」
「もちろん。女の子レッスン、お風呂編だよ。宿にはないけど、宿の裏に公衆浴場があるんだ」
怜はおずおずと質問し、セレナはあっけらかんと答えた。公衆浴場。つまり、人前で裸になるということだ。しかも、今日一日を一緒に過ごしたセレナの前で。まだ、自分ですら自分の身体をちゃんと見たことがないのに。
森の家で目覚めた時、紅白の服に着替えた時、服屋さんの試着室で、下着屋さんの試着室で。鏡は何度も見たけれど、裸の姿は見ないように避けてきた。でも、お風呂に入って自分の体を見ないなんて、無理に決まってる。ちゃんと見ずに適当に洗ったら、きっとセレナに怒られるだろう、そう思った。しかし、それでも。
(自分の、女の子になった身体を、裸を──)
嫌ではない。興味もある。新しい体がどうなっているのか。人に見られて恥ずかしくない形をしているのか。しかし、見てしまえば、もう後戻りはできない気がした。男だった頃の自分を、二度と重ねられなくなってしまうような──そんな怖さがあった。
それでも、自分の体にきちんと向き合いたい。今の自分の身体を、自分の身体だって胸を張って言えるようになりたい。今の怜には、そう思えた。
立ち上がったセレナを追い、一度自分の部屋に戻って着替えを用意する。確か、お風呂の痕にはご飯に行くと言っていた。それなりにまともな服を探す。
クローゼットの中には、今日買った女の子の服が並んでいる。どれも、最終的には自分で選んだもの。その中から、この後獅音に見てもらう服を一つ、選ばないといけない。ブラウスだと地味だろうか。でも、あんまり可愛いものだと緊張しそう。ご飯に行くんだから、それに合う服は──。服選びに悩むなんて、男の頃にはなかった経験だった。
怜はたっぷり時間をかけて悩み、最終的にはシンプルなワンピースに決めて、シワにならないように畳んでから、紙袋に詰めなおした。
──◇──◇──◇──
怜が部屋の前で待っていると、すぐ隣のドアが開いた。中から出てきたのはセレナ。自分のすぐ隣の部屋に住んでいたことを、怜はここで初めて知った。着替えが入っているだろう布袋と、もう一つ小さな籠を持っていた。中にはシャンプーらしきボトルと、他にもいくつか小物が入っている。
セレナは怜が持っている紙袋を見て、少しだけ驚くように頭を揺らした。
「おまたせ。……そっか、今日来たばかりだもんね。ちょっと私の部屋に来てくれる? 使ってない袋をあげるから」
「えっと、何に使うんですか?」
「ほら、こういう袋で下着見えてたら、ちょっと……ドキドキするでしょ?」
「あっ……それは、はい……セレナさんも?」
「もちろん、私だって女の子なんだから」
気にしたことがなかった。けれど言われれば分かる。それに、セレナも他人に見られるのは恥ずかしいのだと思うと、自分の気持ちを肯定された気分だった。女の子の下着を見られる恥ずかしさに、少し向き合えた気がした。
「ちょっと時間かかるかも。部屋に入って待ってくれる?」
セレナに中から呼ばれて、部屋の中に入る。パステルカラーのカーテンに、ふんわりしたベッドカバー。女の子らしいけれど、どこか落ち着いた空間。使い道の分からない道具もいくつか置かれていて、セレナの見た目にぴったりだった。彼女の内面に感じる大人っぽい女性というより、見た目から感じる可愛らしい女の子の雰囲気の方が近かった。
(セレナさんも、見た目が変わったって言ってたよね)
性別が変わったほどでは無いものの、きっと変わった姿に思うところがあっただろう。その向き合い方が、この部屋に現れている気がした。まるで昔の身体と決別し、新しい体と新しい人生を歩んでいるように見えた。
「あ、あった。とりあえずこれを使ってくれる?」
セレナが部屋の片隅から引っ張り出してきたのは、ブルーのトートバッグだった。キャンバス生地で、端までしっかりとチャックが付いている。これなら中身が見えてしまう心配もない。怜は一言感謝を述べ、その場で中身を詰め替えた。その様子を、セレナは優しく眺めた。
「着替え、ワンピースにしたんだ」
「はい。……おかしいですかね? 食事をして、後は寝るだけですけど」
「おかしくなんて無いよ」
迷っている怜に、セレナはキッパリと答えた。
「自分が着たいって思ったなら、着て良いんだよ。私に聞く必要なんて無いんだ。ただ、あえて言うなら……」
そこまででセレナは一度言葉を区切り、怜の姿とワンピースを見比べた。
「ワンピースを着たレイ、とっても可愛かったから楽しみだなって。シオンくんとかガイトに見せるのがもったいないくらい」
「……やめてくださいよ、もう」
頬を赤く染めた怜の表情は、嫌がる口調とは裏腹に、期待が滲んでいた。
自分を選ぶということ
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