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ミントグリーンの始まり

 セレナと街を歩く中、怜は周囲の視線や女の子としての装いに戸惑い、自分の身体と心の変化に向き合うことになった。トイレでの経験や服屋での試着を通じて、怜は自らの『今』の姿を少しずつ受け入れていく。そして初めて、自分のために服を選び、自分を『可愛い』と認めてしまう瞬間を迎えた。まだ戸惑いながらも、怜は「女の子として生きる」一歩を確かに踏み出した。

 服屋を後にした二人は、セレナの先導で街角を歩いていた。


 怜の足取りは重い。これから行く先を告げられてからずっと、視線が地面を這っていた。心の中のもやもやを吐き出すようにして、怜がつぶやく。


「セレナさん。その、下着屋さんで買わないとだめなんですか? もっとこう、入りやすいお店とか……。下に着るんだから、最悪男物でも……」


 女の子しか用がないお店に向かうのは、気が進まなかった。量販店に売っている、数枚セットでいくらとかそういうので良いのに。怜はそう文句を言ったのだが、セレナは聞き入れなかった。


「専門店の方が、質も良いし品ぞろえも豊富だよ。下着は肌に直接触れるから、お金を出して買うだけの価値はある」


 怜が渋っていると、セレナが更に付け加えた。


「それに、レイ、まだブラしてないでしょ?」

「……っ!」


 その一言で、怜は反射的にセレナから顔を背けた。まるで、いたずらがバレた子供のようだった。違うのは、色々と言い訳が立つこと。男だったんだから、あれは女の子の下着だから。怜の口の中でそんな言葉が生まれては消えていった。


「直接見なくても分かるよ。レイが動くたびに、ふよふよ揺れてるんだから」

「そ、そんなに分かりやすいですか……?」

「一瞬見ただけじゃ流石に分からないだろうけど、じっくり見ればね。付けないからって体に良くない大きさではないけど、視線、気になるでしょ?」

「それはまぁ、そうですけど……」


 怜は、通りを歩いているときに向けられた、男の人からの視線を思い出した。もしかすると、ブラを着けていないことが、彼らにもバレていたかもしれない。そう思うと、途端に恥ずかしいことをしていたような気がした。


「下着ってね、体を守ってくれる大切なものなんだ。だから、今のレイが付けたってなにもおかしくないよ。もちろん、選ぶのはレイ。まずはどんなものなのかを知って欲しいんだ」


 セレナの真剣なまなざしに、怜は逆らえなかった。下着を見るだけ見るのは求められても、最終的に付けるかどうかを決める自由は残してくれているのが、唯一の救いだった。


 ──◇──◇──◇──


 セレナが怜を連れて向かったのは、街の外れにある小さな下着店だった。石畳の道を少し外れた細い路地、その奥に佇む目立たない店は、看板も控えめで、通りすがりの人の視線を避けるような場所にあった。


 ショーウィンドウには可愛らしいレースの下着から、シンプルなデザインのスポーティなものまで整然と並び、ほんのり甘い香りが店外まで漂っている。色とりどりの布地が並ぶだけのはずなのに、それだけで空気が何だか柔らかくなっている気がした。


 街中を歩くとき、たまに視界に入って気まずくなり、そっと視線を逸らす類のお店。そこにこれから入るのだと思うと、怜は足がすくんだ。


「ここ……なんですね」


 服屋さんに入るのですら緊張したのに、明らかに男子禁制な雰囲気の漂う下着店の扉を開くのには、服屋さんとは比べ物にならない勇気が必要だった。自分が女の子だということは、服屋さんで着替えた時に実感した。それでも、心はまだ追いついていない。


「うん。静かで、人通りも少ないから。こういうお店のほうが、初めてにはちょうどいいと思って」


 セレナの声は今まで通りに優しい。怜を急かすことなく、ただ待っている。緊張で高鳴る胸元を押さえた手には、自分の胸元の柔らかさが伝わってくる。きっと、今の自分がブラを着けたって、誰も文句は言わないだろう。それでも。


「……やっぱり、まだ、恥ずかしいです」

「それじゃあ、まずは見るだけにしようか。ブラは買いたくなったら買えばいいし。パンツとキャミソールは必要だと思うけどね」


 セレナはそれ以上言わなかった。黙って、怜の背中にそっと手を添えるだけ。強く押すでもなく、引くでもなく、ただ隣にいてくれた。


 ──◇──◇──◇──


 扉を開けると、店内は思いのほか明るく、柔らかな香りが漂っていた。レースやリボンで飾られた下着が整然と並び、乳白色のランプシェードが天井に吊られた中で、色とりどりの布が淡く輝いている。


 怜は息をのんだ。正面の棚には、派手な色や透け感のある下着が並んでいる。赤、黒、紺、紫。どれも艶やかで、女性の身体を美しく『演出する』ことを目的にしたような品ばかりだった。


 怜はそれらに思わず目が引き寄せられたが、すぐに逸らした。見とれたのが、女性としての憧れなのか、かつての男としての好奇心なのか、怜は自分でも分からなかった。逸らした理由は、見慣れてなくて恥ずかしいのがひとつ。そしてもう一つは──。


(……ああいうのは、『大人の女性』が着けるものだよね)


 自分には、まだ遠い世界のものだと思ったから。嫌な感じはしなかった。むしろ、一瞬、自分がそれを身につけている姿を想像してしまった。似合わないはずなのに、どこか自然に思えた。その『似合ってしまう』感覚が、少しだけ怖かった。


 今はまだ子供を抜け出していない体だけれど、いずれ成長して大人の女性の体になったら、その時には着けたくなっているのだろうか。怜は、自分の体の行く先が不安になった。


 視線を落とすと、壁際の一角に、装飾の少ない下着がまとめられていた。淡いグレーやベージュ。スポーツブラのような、機能性に特化したものばかりが並んでいる。怜は、そこに自然と足を向けていた。


 落ち着いた色。女の子っぽさは随分薄いが、少し年配向けにも見えて、惹かれない。怜は一つずつ、自分にとっての『ちょうどいい』を探していた。そして、やがて一つのブラが目に留まる。


「……これなら、まぁ、まだマシかな」


 手に取ったのは、シンプルなミントグリーンのブラだった。レースも光沢もない、まるで『見せること』を目的としていないような下着。


 ワンポイントのリボンは付いているものの、ただ、体を支え、形を整えることに徹したデザインだ。その機能美に似たフォルムは、うっすら感じていた自分の身体への必要性を、過不足なく満たしてくれそうだった。


「初めてのブラだよね。それ、ちょうどよさそう。……試してみる?」


 怜のお気に召したブラが見つかったのにセレナが気づくと、そっと横から声を掛けた。つい今まで、自分を放っておいてくれたんだと、ここでようやく気が付いた。やっぱり、セレナは気配り上手な人だと、怜は改めて感謝した。


「えっと、試すって……」

「試着用のやつで、試しに付けてみるんだよ。ちょっと待ってて」


 セレナはふわっと笑って見せてから、近くにいた店員のところに向かった。


「こんにちは。試着、良いかな」

「はーい。あれ、セレナさん。最近、頻度高めじゃないですか?」

「あはは、そうかもね。でも、今日は私じゃなくて、あの子。初めてのブラを選びに来たんだ。試着できるかな?」

「あぁ、あれですね。できますよ」


 ここもやはりセレナの馴染みの店なのか、店員と慣れた様子で言葉を交わし、店員を連れて怜の元に戻ってきた。店員は怜に軽く微笑み、怜は会釈をかえした。


 店員は怜が手に取ったブラの並んでいた陳列棚の下から、色もデザインも同じな、試着用のサンプルを引っ張り出して怜に差し出した。


「これで試してください、なんですけど……初めてなら付け方を説明しましょうか?」


 店員さんに話しかけられ、どう答えればいいか怜は分からず、セレナに助けてくれと視線を向けた。セレナは予想できていたのだろう、すぐに助け舟を出す。


「そうだね、プロにお任せするのが間違いないよ。お願いするね」

「分かりました。それじゃあ、試着室にどうぞ」


 店員さんに先導され、試着室の中へ。言われるままパーカーを脱ぎ、キャミソール一枚になった。思ったよりも空気が冷たくて、鳥肌が立った。キャミソールは薄く、胸の形がはっきりと浮かび上がっていて心細い。今となっては同性の、女性の店員さんと狭い試着室に入っているのは、それだけでも緊張した。


「このまま、キャミソールの上からで大丈夫ですからね」


 言われるがままにブラの肩紐へ腕を通し、胸元にブラのカップをあてがう。背中のホックは店員さんが付けてくれた。胸元を優しく締め付けるブラの感触が、女の子の下着をつけている実感となって気恥ずかしい。


 妙に体の形と合わない感覚が落ち着かず、ブラの端を摘まんで動かしては、戻すのを繰り返した。それをみた店員さんは、怜に優しく声を掛ける。


「カップに胸を入れるのにはちょっとコツが必要なんですよね。触って良いですか?」


 頷いた怜の様子を確認してから、店員さんが怜のすぐ横に立つ。


「じゃあ、脇の方から少し寄せますね」

「……お願いします」


 店員さんの指が、怜のキャミソール越しに、そっと胸を整えていく。体を這う指には、いやらしさの欠片もなく、むしろ気遣いが感じられた。徐々にブラが胸の上で収まり、終わったころには妙にしっくりくる安心感があった。膝を曲げて軽く体を上下に揺すってみると、胸が体の動きについてくる。


 揺れる胸を支えてくれているだけでこんなに違うのかと、怜は自分の体のつくりにちょっとした驚きを覚えた。それと同時に、自分が『守られる身体』になったのだとも。男の頃のように、雑に扱ってはいけないのだと知った。


「どうかな。苦しくないですか?」

「あ、はい。大丈夫そうです」


 怜の答えを聞いて、店員さんはもう一度ブラの付け方をチェックし、問題ないことを確認すると、満足げに頷いた。


「うん、このサイズで合ってそうですね。いくつか、雰囲気の違うものをお持ちしますね」


 店員さんはそう言って、一度試着室を出た。試着室の中で一人になった怜。鏡の中には、ブラを着けた自分の姿。女の子の服は何着も試してきた。それなのに、今さら胸に一枚、布を当てただけで──こんなにも女の子になった気がするなんて。


(意外と、悪くない。それに……ちょっと、可愛いし)


 今はキャミソールの上からブラを着けているから微妙だけど、キャミソールがない姿を想像すると、白く眩しい肌の上にミントグリーンのブラが映えているに違いない。恥ずかしげに頬を染めた表情も、悪くなかった。


(ちょっと、良いかも……?)


 怜が鏡の中の自分をじっくりと眺めていると、外からセレナの声がかかる。


「レイ、入ってもいい?」

「あ、はい! どうぞ」


 唐突に現実世界へ引き戻された怜は、慌てて返事をした。ほどなくして試着室のカーテンが少しだけ捲られ、セレナが入ってくる。鏡越しに見た彼女の表情は、怜を気遣う優しいものだった。


「お疲れ様。初めてブラを着けるのって大変だよね。つけてみて、どう?」

「なんというか、確かに、守ってくれてる安心感はあるなって。でも……その、僕が付けても良いのかな、って。僕の体が女の子なのは分かってるんですけど……」

「つけて良いんだよ、って言うのは簡単だけど、そういう事じゃないよね」


 セレナは怜の肩をそっと手で包む。むき出しになった肩の素肌から、セレナの手の温もりが伝わってくる。緊張で凍った体が、ゆっくりと解かされていくようだった。


「大丈夫。付けても良いし、付けなくてもいいよ。自分が安心できる方を選べばいい。買うだけ買って付けなくても良いし、付けて帰っても全然おかしくないから」


 それは怜に対して優しい言葉のようで、実のところ突き放している面もあった。ここでセレナが強く勧めれば怜は『セレナが言ったから』と人のせいにできる。判断を他人に委ねることができる。しかし、セレナはそれを許さず、あくまで『自分で決めろ』と言っているのだ。


(もし、セレナさんが居なかったら。獅音と二人でここに来ていたら……)


 想像もつかなかった。獅音にからかわれるのが嫌で、ブラを着けずに過ごし続けていたとしてもおかしくない。服だって、もっと適当に買って済ませていただろう。そう考えると、同性の、女の子としての船頭役を担ってくれているセレナの存在が、心の底から嬉しかった。


「ゆっくり選べばいいさ。好きなデザインが見つかるかもしれないよ」

「……ありがとうございます」


 やがて店員さんが戻ってくると、怜にいくつかデザイン違いのブラを渡した。怜はそれを胸に当て、自分が着けたいと思うものがあるかを探っていった。


 その後は意外なほどにすんなりと、答えが決まった。怜は試着室の中からセレナを呼び、最初に付けたブラと、それからいくつかをまとめて渡した。


「その、これ、お願いします。これはつけていきたいから……タグを切ってもらいたくて」

「うん。店員さんに伝えるね。……レイ、ちゃんと自分で選べたね」


 セレナの視線は、愛おしいわが子を見つめる母のようだった。怜はそれがくすぐったくて、胸の奥がじわりと熱くなった。


 ──◇──◇──◇──


 レジを通した商品は袋に詰められ、最後の一つは試着室で待つ怜の元へ届けられた。怜は店員さんに習ったことを思い出し、キャミソールを一度脱いで、素肌にブラを着けた。


 身体にピッタリと添い、優しく支えてくれる女の子の下着。その機能性だけではなく、自分の身体をミントグリーンのブラが彩って、素直に『可愛い』と感じた。


(これで僕も、女の子の仲間入りをした、のかな)


 まだ不安はぬぐい切れないけれど、この世界に来たときよりはずっと、顔を上げて歩ける気がした。

TS娘が初めて下着をつけるの、かわいいね。


Fanboxにて、今後の投稿スケジュールやキャラクター裏話などをまとめています(無料)。

▶ https://sfon.fanbox.cc/


※小説の先行公開などは、そちらでひっそりやってます

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