選ばれた服、呼ばれた理由
都市にたどり着いた怜と獅音は、リンキシアの登録手続きを受けた。そこで怜は、見慣れない自分の姿を写真に撮られ、名前を改めて記入し、「レイ=アサギリ」として異世界での一歩を踏み出す。その中で目にした住民証の色の違いや、獅音の態度に、怜は言葉にできない不安を覚えた。そんな中で現れたのが、怜の指導役・セレナ。年若く見えるその少女は、怜の秘密に気づいているような素振りを見せ、怜の中身が男であることを見抜いた。
セレナは職員に声を掛け、フロアの片隅にある『職員専用』と書かれた小さな扉を開き、細い廊下へと進んだ。怜は『一体、何をされるんだろう』とおびえ、あたりを控えめに見まわしながら、セレナについて行く。木製の床を低いヒールの靴でコトン、コトンと進むたびに、どこか遠い場所へ連れ去られているような気がした。
セレナは怜が付いてきているか振り返り、そこに肩を丸めた彼女が居るのをみて、苦笑した。
「大丈夫。別に何かするわけじゃない。ただ、人前じゃ話しづらいだろうからってだけだよ」
見た人を安心させるようなその笑みは、セレナが仕事で使っていた武器の一つなのだろうか。怜は少しだけ肩が軽くなるのを感じつつ、どこか古い記憶とつながる感覚を覚えていた。フロアの喧騒が徐々に遠のき、足音が空間を満たしていく。俗世と隔離されていくようなそれは、小学生の頃のジメジメとした記憶を呼び起こした。
(なんか……学校の先生といじめ相談をしたとき、体育準備室で話したの、思い出すな……)
別に自分が何か悪いことをしたわけでは無いのに、襟を正して自分より目上の人と話すという行為は、それだけで緊張したのを思い出す。あれは結局、ただ自分の周りで起きていることをヒアリングされただけだった。セレナがこれからしようとしている会話も、きっとその類に違いない。
(女の子になっちゃったけど心配しないでねとか、『リンキシアにはこういう秘密があって』とか、そういう感じなのかな)
不安は和らいだが、それでもこれから話されることが何なのか、怜は緊張のあまり、胸が詰まりそうだった。
──◇──◇──◇──
細い廊下の途中、セレナが開いた片開の扉の先は、応接セットが置いてあるだけの小さな部屋だった。革張りの椅子、陽の光が差し込む窓のそばには小さな鉢植え。置いてあるものは柔らかい印象があるが、四人入れば満員になる小さな部屋は取調室を連想させ、怜の足がすくんだ。
奥の席にセレナが座り、続いて扉近くの席に怜が座った。なにかあったらすぐに飛び出せるよう、怜は扉の位置を何度も確認した。セレナが何かするとは思いたくなかったが、それくらい、怜はすること全部に不安を抱いていた。
怜は城門の詰め所でしてしまった痴態を思い出し、スカートを手で体に這わせ、そっと腰かけた。怜が座った椅子の座面はとても柔らかく、お尻が深く沈み込む。
つい背中が丸まってしまいそうになるが、お腹に力を入れて、背筋を伸ばした。セレナと面と向かうのは、まるで面接を受けるような緊張感があった。これから始まるのはタダの世間話じゃないことくらい、怜にも分かる。
目の前のセレナは柔和な笑みを浮かべ、怜の受け入れ態勢が整ったのを見て、ゆっくり話を切り出した。
「ここまでしたのには理由があってね。早速なんだけど──レイ、その服はここに来た時、元々着てたのかい?」
「いえ。元々は、その、スーツを着てました。男の頃の」
「ふむ。じゃあ、どこで見つけたのかな」
「森の中の家で起きたんですけど、そこにあったクローゼットに入ってて。選んだ理由は、正直、よくわからないです」
「森の中の、家?」
セレナは、その単語を聞いた瞬間、ふっと表情を引き締めた。信じられないような、しかし合点がいったような、不思議な表情だった。怜は何かマズいことを言ったのかと表情を硬くしたが、セレナは『大丈夫だから、続けて』と柔らかく言い、怜は視線を落としつつも話を続けた。
「はい。結構深い森の中にあって……中にはちゃんと家具があって、ドレッサーも、クローゼットもありました」
言いながら、怜はゆっくりとセレナの顔を見上げた。彼女の眉が、ほんのわずかに動いたのが見えた。セレナの反応一つ一つを敏感に感じ取りながら、頭の中に思い浮かんだことを、少しずつ口から伝える。
「誰かが住んでたんじゃないかってくらい、きちんと整ってました。生活感っていうか、妙に『人の気配』がして。あ、でも、獅音くんは落ち着かないって言ってたかな。……僕は結構安心感のある家だと思ったんですけど」
その言葉に、セレナは少しだけ、深く息を吸ったのが聞こえた。視線は地面に落ちたままで、何かを懐かしむような、それでいて決して口にできない秘密を抱えるような、静けさが瞳に宿っていた。
(……セレナさん、何か知ってる?)
怜はそう思ったが、問いかけることはできなかった。沈黙が重くのしかかる。手の中にある住民証を、ギュッと強く握りこんだ。
セレナの視線は依然として一点を見据え、まるで過去の記憶か、解けない謎に繋がる糸を手繰っているようだった。その眼差しに込められた意味を、怜は問いかけることができなかった。いや、正確には——問いかけてはいけないような気がしたのだ。
「それで、家の中で、何か変わったことは起きなかった?」
その言葉を聞いて、怜はすぐにいくつか思い当たる節があった。しかし、それを正直に口にするべきかどうか迷い、口が思うように動かなくなる。
話したくないわけじゃない。むしろ、知っていることは何でも話すべきだと分かっている。けれど、それをそのまま話して、おかしな子だと眉を顰められたらどうしよう。そんな、掛けられてもいない声に怯えた。
セレナは更に声を掛けるわけでもなく、怜が再び話し出すのをじっと待った。不安が腹の底で黒いモヤとなり、渦巻くのを感じた。深く息を吸い、ゆっくり瞬きして、覚悟を決めた。
「……ありました。自分じゃない、自分の記憶、みたいなのが見えたり。この服も、いつの間にか選んでて。まるで、誰かに選ばされてる、みたいな」
「そうか……。やっぱりそうなんだね」
そのセリフは、セレナが何かの確信を得たように聞こえた。自分を見つめるセレナの瞳が、光を受けて輝いたように見えた。久しぶりに、セレナがまともに口を開いた。
「――その服は、とても特別な服でね。限られた人しか着れないんだ」
思わず、スカートの裾をギュッと握った。つばを飲み込み、セレナの続く言葉を待った。
「大丈夫、キミは、レイは着て良いんだよ。むしろ、今は君しか着れないんだ」
怜は手元を見つめたまま、ひざの上で強張った指を絡めた。
「やっぱり──キミは呼ばれたんだよ。この世界に」
セレナは静かに頷き、それから、怜の目をまっすぐ見つめて直して、続けた。
「キミは、この世界が必要として、ここに呼び出された。そういう存在を──『巫女』って呼ぶんだよ」
二人の間の沈黙が、空気を張りつめさせた。
「巫女──」
怜の呟きが、静かな部屋の中を波紋のように包んだ。セレナは言葉を選ぶように一拍置いてから、少し視線を落とし、言った。
「巫女は、この世界を保つための存在なんだ」
その目元には、かすかな影が宿っていた。その声音には、慎重さが混じっていた。怜はセレナの言葉を咀嚼しきれずに、ただ俯いた。
さっきまで自分の服の話をしていたはずなのに、急に『世界』なんてスケールの大きな話がされて、胸の奥がざわつく。だれか、話す相手を間違えているのではないかと疑う。『僕が、そんなわけ……』と否定したくて、でもできなかった。だが、セレナはその沈黙を責めることなく、優しい声で続けた。
「詳しくは、まだ話せない。でも、レイには知っておいてほしい。巫女っていうのは、職業じゃない。『祈る』ことでこの世界と響き合い、それが少しずつ世界に影響を与える。キミの中には、その力が眠っているんだ」
祈る、響く──怜の胸が、キュッと締まった。
「……もしかして」
「心当たりがあるのかい?」
「はい。この街に来る途中、村に寄ったんです。そこで『祈って欲しい』って言われて。それで、言われた通りに祈ったら、不思議な感じがして。……身体がこう、フワッと浮くような」
セレナが少しだけ、前のめりになったのが分かった。言ってはいけないことを口に出してしまったような、まるで禁忌に触れたような、胸のざわめきが起きた。
「それは、何を祈ったの?」
「村の安寧をと言われたので、そう祈りました」
「──そっか。なら、ひとまずは大丈夫そうかな」
そこまでを怜から聞くと、セレナは肩の力を抜き、どっかりと椅子に体を預けた。まるで受験を終えた学生のようだった。それまでの、どこか神秘的な雰囲気はすっかり霧散していた。ふーっと大きく息を吐き、小柄な体が椅子の上に広がっていた。怜が感じているのと同じくらい、セレナも緊張していたのかもしれない。
それからセレナは改めて怜に向き合い、仕切りなおすようにひと呼吸をおいてから、ゆっくりと告げた。
「君の姿が変わった理由、森の家で起きたこと、それに──その服を選んだこと。すべては偶然じゃない。レイ、キミはこの世界に『選ばれた』んだよ」
怜はハッと息を飲んだ。
(選ばれた、か)
その響きは、どこか耳障りだった。自分が選ばれるような人間だったことなんて、一度もなかったから。努力して、誰かの期待に応えて、ようやくそこに存在することを許されてきた。だからこそ、『選ばれた』いう言葉には、信じるより先に、否定したくなる自分がいた。
それでも、セレナの目はまっすぐだった。怜のどんな嘘も、不安も、言い訳も、すべてを包み込むような深さがあった。
「信じられないかもしれない。でも、少しずつ、君の歩く道が答えをくれるはず。焦らなくてもいいよ。まずは、生活すること。今の『レイ=アサギリ』としてね」
「……はい」
セレナの言う『今のレイ=アサギリ』は、何を指しているんだろう。自問して返ってきた答えは、鏡の中で見た自分の姿だった。少し気弱そうな表情をした、淡い藤色の髪の女の子。中身は男の、歪な存在。
(結局、この人も、僕に『女の子』を求めるのか──)
そう、早とちりとして、気付いた。
セレナは『女の子のレイ』だなんて、一言も言っていない。性別は押し付けられていない。それはつまり、男の自分を捨てなくてもいいと言ってくれているのと同じだった。それに気づいたとき、自分の在り方を肯定された感覚がした。飾らない自分で居て良い、勇気づけられている。そう感じた。
「気になることがあったら、何でも聞いてくれていい。答えられないこともあるけれど、出来るだけレイを支えたいと思ってる」
セレナの言葉は、怜の胸を熱くした。それに背中を押され、怜は逡巡してから、意を決して顔を上げた。目の前のセレナは、何でも受け止めてくれそうな安心感があった。だからこそ、怜は聞くことができた。
「じゃあ、セレナさん。なんでセレナさんはこんなに詳しいんですか?」
セレナは唇をギュッと結んでから、何度か口を開こうとして、ようやく声に出した。
「私も、かつてはその服を着ていたことがあるんだ。でも、あの時の私は、受け止めきれなかった」
「それって……」
「あのときの私は、ただ逃げてしまった。でも、君はきっと、私とは違う道を選べると思う。──ちょっと話し過ぎたね。また別の機会に話すよ。今はレイが主役だからね」
セレナの声は穏やかだったが、どこか懐かしむような色が混じっていた。視線はどこか遠くに向かい、過去を振り返っているようだった。それでいて、まるで誰かに口止めされているような、もどかしさもあった。そんな表情を見せられては、追及することなんて怜にできなかった。
(今は、ってことは……きっと、セレナさんも)
怜は膝の上で手を握った。じっとりと汗が滲んでいた。
──◇──◇──◇──
すこし湿っぽくなった空気を吹き飛ばすように、セレナがパンと拍子を打って立ち上がった。
「さて。それじゃあ、レイには今から、『女の子の基本』を知ってもらうよ」
「女の子の、基本」
怜には、その言葉が重く背中にのしかかってきた。
「勘違いしないで欲しいのは、キミに『心から女の子になって欲しい』とは思ってないってこと。私は、キミはキミらしく生きてくれればいいと思ってる」
怜を安心させるように、ゆっくりと、落ち着いた声色で言葉を紡ぐセレナ。
「でもね。『自分がどう生きたいか』って、本当はすごく難しいことなんだ。何も知らなければ、選びようがないから。だから私は、キミに『選べる自由』を渡したい。女の子としての暮らしも、その逆も。誰かになろうとすることも、誰でもない自分を貫くことも──全部知った上で、君がどう在りたいかを、キミ自身に決めてほしい」
自分がどうありたいか、そんなこと、決められる気がしなかった。誰かに自分の在り方を決めて欲しかった。今まで、ずっとそうやって暮らしてきたから。しかし、セレナはそれじゃダメだという。それは海底に沈みそうなくらい重い課題のようで、同時に、同じくらい大きな期待も孕んでいるように思えた。
(僕に、そんなことができるのかな……)
不安で、思わずつぶやいた。
「……良いんですか? それで」
「うん、良いよ」
単純で、でも明確な答えが返ってきた。
「これから服を見に行くけれど、着たい服があればどれでもいい。ただ、そのままって言うのはダメだよ。その服は、ちょっと深い意味があるから」
「僕にしか着れないって、さっき……」
「うん。あの服は、巫女と世界を強く結びつけるためのもの。今のレイが着るには、ちょっと強すぎるんだ」
セレナは怜の服を、少し熱のこもった目で眺めた。そこには憧れが混じっていた。怜はその視線がくすぐったくて、椅子の上で体をよじった。
──◇──◇──◇──
部屋を出ようとするセレナの後を追いながら、怜はそういえばと話を切り出した。服と言われて、思い出したのだ。
「あの、服ならこれ以外にもたくさんあるんです。取りに行ってもいいですか?」
セレナは自分に服を買ってくれるつもりなのかもしれない。そのメンツを潰したいとは思っていないが、無駄にお金を使わせるのも心が痛かった。セレナは思わぬ話の展開に少し驚きながらも、悩まず首を縦に振った。
「あれ、そうなんだ。もちろん良いよ。もうどこかで買ってきたのかい?」
「いえ、こっちに来たとき、森の中の家で目覚めて。その家の中に、服がたくさんあって……」
「あぁ、そうか。──ゴメンね、森の家には、しばらく行かないほうが良い。自分の力に向き合ってから、改めて行こう」
この世界に来た時目を覚ました場所。そこに近づくなと言われ、怜の心はざわついた。親を悪く言われたような気分だった。しかし、セレナもそう思われることを理解しているはず。そのうえで言ってくれている。
「その時はきっと、全部話すから」
「……分かりました」
「よし。それじゃあ、街に行こうか」
──◇──◇──◇──
怜とセレナが窓口のカウンター前に戻ると、ちょうど獅音とガイトが集会場から出ていこうとしていた。おそらく、リンキシアとしての説明を一通り受け終わり、これから、ここでの生活を過ごすための準備をしに行くのだろう。
「獅音くん!」
「……怜か。なんか話してたのか?」
まさか、何を話したかを洗いざらい話すわけにもいくまい。自分が『巫女』だなんて。そこまで考えて、ふと思った。
(どうして、話せないんだろう)
獅音は自分の秘密を知っている。元々男だったこと、あの村で不思議な力を使ったこと。今更、隠すまでもないだろう。それなのに、なぜか獅音にバラしてはいけない気がした。
獅音からの問いにどう返そうかと悩んでいた怜を見て、セレナが割って入った。彼女は人当たりの良い笑みを浮かべ、獅音を見上げた。
「レイくんとは少し、『女の子の秘密話』をしていてね。詮索しないでもらえると助かる。シオンくんはこれから?」
「仕事だよ。船の荷物の積み下ろしだと。異世界初日には『ちょうどいい』仕事で助かるよ」
ちょっと皮肉っぽい良い方だった。獅音はもっと、不思議なファンタジー世界然とした、胸躍る仕事を期待していたのだろう。まだ前を向ききれていない怜は、獅音の前に進みたいという意欲が、ただ凄いと思った。
「こいつはまだなんも知らんからな。初めての仕事には『ちょうどいい』んだよ。ま、それなりに稼げるさ」
ガイトは獅音の方を叩き、豪快に笑って見せた。不満げな獅音も、その勢いの前には抵抗をあきらめていた。二人は会話の区切りがついたとみると、集会場の玄関に足先を向けた。
「夕方には宿につくはずだ。セレナ、デートはほどほどにしてくれよ?」
「分かってるさ。レイだって、この街の初心者なんだから、節度は持つよ」
ガイトとセレナ、多くは語っていなかったが、二人の間ではそれで十分なのだろう。それで話が終わると、獅音とガイトは集会場を出た。セレナは手を振って二人を見送り、怜は獅音が見えなくなるまで、ただそこに立って、彼の背中を眺めた。
怜はこれから、セレナと街へ買い物に行く。それは、この世界で暮らすために必要なものがあるから。しかし、獅音はそれもせずに、仕事へ行った。
(その違いは、どこから来るんだろう。僕が女で、獅音が男だから? 僕が選ばれた存在で、獅音は選ばれてないから?)
自分で考えていても、答えが出てくるわけは無い。それでも、考えないといけない気がした。
「私たちも行こう。いつも通ってるお店があるんだ」
セレナの声で、怜は自分が俯き考えに耽っていたことに気付いた。顔を上げてセレナと目を合わせれば、彼女は優しく微笑んでいた。
新しい世界に一歩を踏み出したような、物語の歯車がかみ合ったような、確かな変化を感じた。