第五章⑬
目を開けると、視界に違和感があった。いつもより世界が歪んで見える。耳もそうだ。機械の駆動音やら結露が滴る音やらがはっきりと聞こえる。しかし、耳障りな感覚ではない。みんなが目の前で驚いた顔をしている。驚愕?驚嘆?目と口をまん丸に開いて、言葉も出ない様子だった。
「僕、どうなったんだろ。みんな」
そう言いながら僕も手足を見てみようと首を動かした。ら、腹を真上に見上げていた。首の可動域が――尋常じゃない。それどころか、明らかに体の構造が人間のそれじゃない。手足も動してみる。四つん這いの手足がバキバキと床を踏み鳴らした。爪が金属の床に食い込んでいて、まるでウエハースを踏みつけ砕いているようだった。
僕は、本当にドラゴンの体になっていた。しかし、想定外なのは――
「色が、白い……?それに、やけに小さい……」
赤黒く年季の入ったグレンの鱗と、他に類を見ない巨躯とは大きく異なる、白く神々しい小柄な身体だったのだ。大きさもベルより一回り大きいくらいで、人間とも大差ない程度の大きさだ。
『ワシらの契約に、お主の中の何か別の力が干渉したようだ。小さいながら侮れん魔力だぞ――』
グレンが念話でコンタクトを取ってくれた。僕はグレンと一体になったけど、それぞれの意識は独立して残っているようだ。
「……私の水と風魔法で飛べるように準備してたのに、不要みたいだね。私と同じように翼で飛べそう」
ベルがそう言うので、試しに翼を動かしてみた。両翼を上下に動かし、また片側だけ動かしてみる。そして、両翼で空を掻くよう羽ばたかせると、宙に維持することができた。体を空中で上下させることはもちろん、旋回にも重々しい感覚はなく、綿毛が舞うような軽さで飛行できた。移動は何の障害もなさそうだ。
『うん、行けそうです』
『動作は問題なさそうだな。時間がなかろう。さあ、ザブの体を追うのだ』
僕は今一度床に降りて、出発することを皆に伝えようとしたら、アリシアが近づいてきて、手にした何かを僕へ差し出してくれた。
「……役に立つかわからないけど、この魔導石を持っていって下さいーー水と風の魔導石です。人間としてはレベル10の最上級のものですが、ドラゴンとの戦いで活躍するかどうかは……ですが、御守として、そして、あわよくば使ってください」
「ありがとう。アリシア。とても心強いよ」
アリシアが、二つの魔導石が入った小さな袋を首にぶら下げてくれた。御守代わりとは言うけど、心強いと感じたのは本心だった。
「さて、それじゃあみんな、行くね」
「私は二人と一緒に跡を追うよ〜。先に行っててね」
ベルがそう言うと、僕は頷き、破壊されたエレベーターシャフトへと向かった。
『グレン。行こうか』
『もちろんだ。ハルよ』
後ろを振り返ると、三人が手を突き上げていた。改めて、期待を背負ったんだと実感する。
この戦いは、負けられない。いや、負けるわけにはいかないんだ。
僕は、心の内に再度決心すると、地上を目指して飛び上がった。
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研究所の外は、例えでもなく、まさに大嵐が通り過ぎた後の様子だった。木々は根からなぎ倒され、できたばかりの小川が至るところに流れている。その原因を見つけようと遠くの空を眺めたら、真っ黒に塗りつぶされたような雲の一角が見えた。この地を通過した大嵐が、その方角に存在しているようだった。
『クルエスが魔法で嵐を起こしたのか』
『そのようだ。これほどの魔力量は初めてだ。飛行するため、そして力を試すために唱えたのだろうな。目に見える分、追うのは容易だが』
『この速度だと、王都へすぐ到着しそうですね。間違いなく、誰にも止められないと思っているんでしょうね』
『それは奴の油断に違いない。鼻っ柱をへし折ってやるぞ』
僕は真っ黒な空の方角を見定めた。そして、泥濘んだ地面を二、三走って、そのまま踏み切る。重力に負けて、体がそのまま落下する――ということはなかった。全身が空を切り浮かび上がる。体は軽く、どこまでも飛んでいけそうだった。力強く羽ばたくと、ぐんぐんと上昇していき、地面があっという間に離れていく。地上よりも冷たい風が鱗を撫でているものの、寒いと感じるわけではなかった。すべての地平線も見えている。日の出は近づいているらしく、地平線の一辺からは仄かに光が漏れ出していた。ブレアの指定したタイムリミットが刻一刻と近づいていることも理解しているが、それでもこの儚くて、美しい一瞬に胸が熱くなってしまっていた。
『人間は欲に負けると何をしでかすか分からん。今回の件でよく理解できた』
突然グレンが念話を始めた。彼もこの景色に思うところがあったのだろうか。
『しかし、それはごく一部の人間だけだ。お主たちのように、他者に命を賭けられる人間もいる。そして、ワシは幸運にもそんな人間に巡り会うことができた』
『僕も、ドラゴンと気持ちを一つにできるとは思いませんでました』
『生憎、今は体も一つだがな。ガッハッハ』
グレンと冗談交じりの会話をしていると、嵐雲に近づいてきた。穏やかだった気候は、忘れていたかのように風が吹き、雨も降り出した。そして、真っ黒な雲の下を通る頃には、ついぞや雨風共に横殴りするほどの激しさで吹き荒れるようになった。本来なら目も霞んでしまうほどの暴風。だがドラゴンの瞳はそれすら防ぎ、あくまで視界は良好だった。
『奴は近いはずだ。心してかかるのだ』
グレンがそう言う頃には、見慣れた城壁が視界に映り込んでいた。飛んでいると改めて分かる、王都の大きさ。以前は住んでいるか往来しているかで数万程度の人間が生活しているのかと思っていたが、それどころでは済まなさそうだった。ざっと見積もって数十万。それを思いつきで破壊し尽くそうとは、クルエスはとっくに人の心を捨ててしまっているのだと確信した。
「……この景色を破壊しようとしているあなたは、もう人に戻れませんよ」
僕は、眼前に滞空するドラゴンの黒い影に叫んだ。その巨体は、身体をこちらに向き直ると驚いた表情を見せた。
「君は……そうか、ハル君か」
そのドラゴンは、大きな両翼で、空を扇ぐように飛んでいた。真っ黒な鱗は、悪天候のため唯でさえ少ない光を受け止めると、闇に飲み込んでしまう程だった。まさに、"漆黒"の単語が適当だと直感的に思ってしまうほどだ。体の大きさも、それだけを見ると、改めて僕の二周りも三周りも大きくて、思わず尻込みしたくなるほどの威圧感を抱いてしまう。
そんな僕の感情を察したのか、クルエスが先に口を開いた
「見給え。この王都には五十万もの人間が暮らしている。正確な数は知らんが、それでも膨大な人口だ。壮観だと思わないか?」
「何が言いたいんです?」
「君も同じかと思ってな。『自分にしか興味のない他者が、自分を振り回してくる。そんな奴らを黙らせられたらいいな』と」
「そんなこと……思うはずが――」
「ではなぜ君は今ここにいる?君の中の正義感か?"仲間"と謳っていた者たちに無理やり背中を押されたんじゃないのか?"仲間"が君を担ぎ上げた。君は"仲間"の理想を叶えるための、単なる"道具"だ。君は、君にとって必要のない犠牲を強いられているんだよ」
「……確かに、色々なものが僕を振り回してくる。この世界に来たのだって、何で僕だったのか分からないし、旅ではドラゴンと半一方的に契約することになるし、指名手配で追われる身にもなるし……たった十日程で、数え切れないほど振り回されました。確かに、『僕が何をしたんだ。もう辞めてくれ』と思いましたよ……でも、だからこそ今の僕があるんです。たったの十日で、僕は今までの何十倍も成長できたんです。だから――あなたにも感謝したいのです」
「私にも?」
「はい。確かにあなたは良くないことをしてきたし、これからしようともしている。でも、不謹慎だけど、そのおかげで僕は仲間たちに会えた。そんな仲間とかけがえのない経験ができました――僕の仲間は、僕を世界平和の"道具"として背中を押したんじゃない。こんな僕を"信頼"して背中を押してくれたんです。だから僕は――こうしてあなたに対峙できています。あなたを敵として見たくはありません。ここで王都の攻撃を止めたら、僕はあなたに感謝します。"攻撃をせずにありがとう"と」
そこまで言うと、クルエスの表情が曇った。ドラゴンの表情は分かりづらいけど、瞳が細まり、口元が震えているようだ。しかし、突如瞳孔が開き、両翼を開いた。
「お前は……私をコケにしているのか……誰が私を決められる!?私を制御しようとするな!他の虫けらよりひと足早く絶望を味わって死ね!」
クルエスは、怒りの籠もる言葉で叫んだ。その声は叫び声として、王都中に聞こえたのであろう。地上を見ると、建物から屋外へ、人影が飛び出してくる様子が見えた。
『お主のことばは、どうあれど奴には届かん。覚悟を決めよ』
グレンも同じことを考えていたようだ。僕も説得できるとは思っていなかったけど、その余地は欠片もなかったのだと理解した。彼にはもう自分のことしか見えていない。会話での解決は、不可能だった。
「グルルゥゥゥ」
「人に戻ろうとしないあなたは理性のないただの猛獣だ。ここで、倒す」




