【1-3.狂気の夜】
アドリアナはあの晩のことを思い出していた。
毎年、ある時期になると窓辺に飾られる古い鏡があった。
鏡は、酸化した銀の黒い腐食で覆いつくされてしまっていて、もうよく映らない。
「何で置いてるの?」と母に聞くと、「愛していると伝えられない人に思いが届くように」と母は答えた。
「魔法?」と聞くと、母は可笑しそうに笑って「おまじないよ」と答えた。
アドリアナはその時はおまじない程度のことを本気に取り扱う気にもならないので、「へー」としか思っていなかった。
その日だけは夢見がちな目をしている母の真意など、まるで気が付いてはいなかった。
しかし今年のその日は、いつもの光景が少し違ったのだ。
母は腐食した鏡を 古い骨董品のような水差しの中にちゃぽんと浸けて窓辺に置いたのだった。
何となく不思議に思って、アドリアナが「何これ? 今年は違うのね?」と母に聞くと、「ええ。これで霊魂を呼び寄せられるかもしれないの」と母は微笑んで答えた。
アドリアナはぎょっとした。
「霊魂!? それは死者の?」
「そうよアドリアナ。あなたのお父さんはもう死んでいるもの」
母はたいへん落ち着いていた。
それが余計に気味が悪くて、アドリアナは聞き返した。
「呼ぶの!? 死んだ人を!?」
「できるわよ。昔同級生だったポルスキーさんがやっていたもの。彼女は見事に教室で死者の霊を呼んだんだわ。彼女が自分で作った呪文らしいけど。私にもできるはず」
母は妙な自信で肯いたのだった。
「待って。死者を呼ぶの? 本気? それで、それは、そのポルスキーさんの魔法?」
アドリアナはだいぶ戸惑っていたと思う。
「ええ。ポルスキーさんの呪文よ。あのとき何て言っていたか忘れてしまっていたから、思い出したいと思っていたのよ。それでやっと思い出せたの、やっと……」
「やめて、お母さん。そんなのうまくいくわけない! 死者だなんて怖い!」
「だいじょうぶよ、ポルスキーさんは……」
「ポルスキーさんって誰よ!? 死者の霊魂を呼ぶなんて言って、詐欺師じゃないの!?」
しかし母はそれには返事をせず、火照った顔に奇妙な薄笑いを浮かべ、水差しに指先の光を──光としか言いようがない──を突っ込んだのだった。
水差しが激しくガチャンと割れて、爆発したかのように光が部屋中に飛び散った。
「きゃっ」とアドリアナは身を屈めて叫んだ。
「デ……」
母はアドリアナを顧みることもなく、恍惚とした表情で呪文を唱えようとする。
「やめてっ!」
アドリアナは背筋が冷えるような恐ろしさを感じ、母を止めようと突き飛ばした。
「!!!」
母は態勢を崩してよろめき、驚いたような怒ったような顔でアドリアナを見た。
母は激昂してアドリアナに向けて何か叫ぼうとした。そして──。
──ぎゃっ!!!
声が上がったような気がするが、幻聴だったかもしれない。
母はアドリアナに拘束の魔法を使おうとし、アドリアナはそれに独学の防衛の魔法で応戦したのだった。
不幸だったのは、ほぼ未経験で加減を知らないアドリアの魔法は、母を必要以上に締め付け、母はそのまま息の根を止めてしまった事だった。
剥がれた壁の漆喰。かさっと音を立てて落ちた薄い毛布。
傾いた染みだらけのテーブル。欠けた白い皿。
窓から差し込む青白い月の光に半分だけ照らされている、横たわった女の遺体──。
物音に驚いて隣人がアドリアナの家を覗いた。
そして、家の中の異様な光景にすぐ魔法協会に連絡がいった。
アドリアナは、目を見開いたまま、母の遺体から後退りした。
これは現実? 本当に母は死んでしまったのか?
ぞっとした。
逃げなきゃ、ここに居てはいけない。
行かなきゃ──でも、どこへ?
どこ? ……ああそうだ、ポルスキーさんって言った?
そう、そうだ、ポルスキーさんのところへ。
狂信的な母の様子。
確かめなければならない。母が信じたものは確かに信じるに値するものだったのかどうか。
ポルスキーさんは、いったい母に何を魅せたというのか。