エピソード2 遠雷
しばらくして説教部屋を出た。まだ残っていた野次馬たちの視線が俺に集まる。その中の一人、ヤカン信者が真っ直ぐ俺に向かってきた。息がかかるほどの距離まで近づくと、髪をかき上げ間を作ってから彼女は言った。
「負け犬」
クスクスと取り巻きたちが笑う。ド直球じゃん、と男子の声が混じる。
舐めるように俺の顔面を見終えると、彼女はくるりと踵を返し、ランウェイを歩くモデルばりに堂々と仲間の元へ戻っていった。キラキラと金色に輝く長髪が様になる。
若田部マイカ。
同じクラスで女子のリーダー格。大手電力会社の社長の娘。読書モデルもしていて、フォロワーは一万を超えるらしい。
マイカの後ろ姿に思わず見惚れていると突然、何かの破裂音が。間髪入れず、右のこめかみに激痛が走る。パッと床に血が舞い、うずくまる。
こめかみを押さえる腕に半分隠れた視界から見上げると、長身には不釣り合いの小さな頭。そして、そいつはチェシャ猫よろしく不気味に歯を覗かせ笑っていた。
辻村イッキ。
ユースチームのエースストライカーで、スポーツ推薦で有名私大への進学も狙えるという。学校一モテるイッキは、最近マイカと付き合い始めるまで、実に十二股していたとまわりに自ら吹聴していた。
「ざまあー」
抑揚をつけて言いながら、イッキはマイカを追いかけて走り去った。
取り巻き数名がそれに続く。その中にスキンヘッドの高校生レスラー、最上サナダマルの巨体も見えた。チェシャ猫にアリス、それからハンプティ・ダンプティ。
思いついた俺は、片膝をついたままクスリと笑う。
「キモっ。頭までおかしくなったの?」
声は上方から。思わぬ方向からの声に驚く。
振り仰ぐとそこにはアリサがいた。
俺の目は目一杯開かれた。なぜって、まるでスパイダーマンのように、アリサが天井から宙吊りになっていたからだ。
両手両足を蜘蛛のように伸ばし、手の指先を欄間のわずかな縁に器用に這わせている。
スカートははだけ、逞しい太ももとレギンスがむき出しだ。
高頭アリサ。
クライミングとパルクールの心得がある彼女は、暇さえあれば校内のいたる所を「登って」いる。誰もが奇異な目でアリサを見る。どうかしているけれども、本人はそんなこと一切気にしない。
「リベンジしなさいよ、男らしくない。舐められっぱなしでいいわけ?
ていうかアンタまた泣いたふりしてたでしょ? 見てるこっちが恥ずかしいんだけど。ダサい。悔しくないの? ヤカンごときに侮られてさ。信じらんない。サイテー」
矢継ぎ早に悪口が出ることには感心さえしてしまう。
「合理的に判断した結果だ。あれが一番早くて後腐れない」
「言い訳もダサい」
「うるさい」
「要するに事なかれ主義。身に染み付いたものは簡単に落ちないのよ」
言い終わるとアリサはストンと小気味良い音を立てて廊下に着地した。
「ご愁傷様」
憎たらしい笑顔を見せ、手をぷらぷらと力なく水平に振ると、アリサもまた去っていった。
まるで忘れてでもいたように、身体から汗が滲んできた。すると、遠雷のように蝉の声も耳元に押し寄せてきた。
チャイムが鳴り、一斉に椅子を引く音が響く。
一人佇む俺は、誰に見られるでもないのに考えるふりをして空を見た。うんざりするほど澄んだ、気持ちの良い青色が広がっていた。