エピソード1 ヤカン
その日は火曜日だった。
午前にP.E.と数Ⅱ、午後も振替で数Ⅱと、俺にとっては最悪の一日だった。いや、毎日がそうだった。
その始まりは1年次の文理選択。SGH指定の進学校に進んだまでは良かったが、クラスメートの英語力の高さにビビってすっかり自信を失った。
少しでも英語を減らそう、驚くほど浅はかな考えで理系に進んだ。そんな俺に物理、数学のダブルパンチは重過ぎだ。
学年順位はみるみる下がり、止むに止まれず意識の上では文転。私大に舵を切ったのがごく最近。とはいえモチベーションもさほど上がらず、ぼんやりと毎日をやり過ごしていた。
「おれの授業が不満か?」
校舎三階角、多目的室D。通称説教部屋。そこで今、俺を睨んでいるのは担任の上田。すぐカッカするツルピカ野郎だからあだ名はヤカン。教科は数学。
俺の座る席の机上にはiPad。画面上では有名塾のカリスマ英語教師がフサフサの髪を揺らしながら激しく黒板を叩いている。
「こんなせせこましいことしてるやつが、東工に受かるわけがねぇだろうがあ!」
上田はタップリの唾を飛沫にして俺の顔面に飛ばしながら、そうがなり立てた。
ちょうどカリスマ英語教師も彼の決め台詞、「Excellent」を、机を叩きながら叫んでいる。ヘアスタイルも含め、そのコントラストが面白い。
「俺はお前のことが心から心配なんだ。だから厳しく接する。お前なら分かってくれるだろう?」
「ヤカンの沸騰音」と揶揄される怒声をうんざりするほど俺に浴びせ続けた後、上田は急に猫撫で声に変えてこう言った。こんな馬鹿げた会話術にも引っかかるヤカン信者が一定数いるのだから嫌になる。
東工大を志望していたのは高一の終わりまで。意識の上での文転は二年になってからだ。上田は一年次から俺の担任だが、生徒を進学実績のコマとしか見ないものだから面談でも自分の薄っぺらな受験譚を話すだけ。人の話になど耳を貸さないから察しも悪い。
「すいません、先生。魔が、差したんです」
俺は嗚咽を漏らしながらそう言った。
板についた演技。鏡の前で何万回繰り返しただろう。
鏡に映る虚ろな自分の顔。思い出すだけで反吐が出る。
グラウンドから「上がれ、上がれ」という甲高い声とボールを蹴り上げる音が聞こえる。
高く舞い上がったボールの落下音に合わせ、俺は鼻をすすった。
上田は満足げにいやらしい笑みを浮かべながら、俺の肩にそっと手を乗せた。そして俺の耳元でボソボソ露骨な同情を述べた。上田の声に同調し、大きく首肯を繰り返す。時折しゃくり上げるのも忘れない。
憔悴した人間に差し伸べる救いの手は誰の目にも美しい。
その美しさを狡猾に利用し、甘美に酔いしれる上田の悪趣味には虫唾が走る。
もちろん、それを誘う自分にも。
熱湯を注ぎ終えたヤカンは一仕事終えて満足げに去って行った。廊下からは野次馬を散らす上田の声がした。