方丈の花露
序
これは一回り離れた看護師の姉の遺稿を元に、弟である私が大幅な加筆修正を加えて作成した短編となります。姉は看護学生であった時分に体験した内容を何としても忘れまいと、出来事の仔細をA4ノートに書き連ねておりましたが、看護師として仕事をしていた間は激務が続いて時間を捻出できず、やっと病室で閑暇を得た頃には思いの外死期が近づいてもう筆を握れぬ状態になっておりました。そして、余命幾ばくも無いと悟ると、今生の願いとして当時文学部生として自堕落な生活を送っていた私にそのA4ノートを渡して「あんた文学部なんだら、これをやるから短編の一つでも完成させてみろ。」と言い放ち、花瓶に挿したガーベラが色褪せる間もなく颯爽と冥府へと下っていきました。文学部といっても僕の在籍していた科は地理学科で、当然文学の妙などは全く分からず、姉が満足するような出来になったとは到底思えないのですが。
「方丈の花露」
今から20年近くも前の早春のこと、ノストラダムスの大予言が世の中を賑やかしていた頃の話です。当時、看護学生であった私は京都の病院に長期実習に出ておりましたが、その時に医者から担当を任された患者というのが抱月という名の好々爺でした。病歴も殆ど白紙であり、特段重篤な症状を抱えている訳でもないため、研修が終わるころには何の問題もなく退院するだろうと考えておりました。
抱月さんは地元で一、二を競う地銀の役員でありましたから、病院側も気を遣って実習生であれ若い娘を充てて、銀行側のご機嫌を取ろうという腹積もりであったと見えます。
しかしながら一点妙なことがありました。というのもカルテには右腕左足の骨折とあるだけで、入院の経緯が記されていなかったのです。簡潔すぎる記載に何となく引っ掛かりを覚え、足浴の折にそのことを尋ねてみると、抱月さんは不思議な話を語り始めました。曰く、残業を終えて階段の踊り場で休んでいた時、鏡を振り向くと黒い仮面が徐々に抱月さんの元へと近づいているのが見え、走って逃げたが足が縺れてしまって階段を転げ落ち、気づいたらこの病院へ搬送されたのだと。そして、この病院でもその幻覚は続いており、時折他人の顔が黒い仮面に映ると言います。
ひと月ほどが経った頃でしょうか。散歩をしていた際、黒い仮面が近寄ってくるといって、ひどくおびえた様子で私の肩に縋りつきました。いつもの抱月さんの落ち着いた様子とはまるで違っていたので、業後報告で担当医にその旨を話しましたが、良い御身分だと真面目に掛け合ってもらえませんでした。その三日後くらいから徐々に奇矯な振る舞いが増えていったように思います。終日自分の皮膚をずっと触っていて、看護師が来るたびに皮膚を隠そうとするようになり、また裸足で外を出歩いたからか足裏を擦りむいたと言って、足浴を拒むようになりました。しかしながら、皮膚にも足裏にも異常はなく、見舞いに来るご息女にも何度も身体に変わりはないか確認を乞うていましたが、ご息女の方でも何も症状のようなものは見つけられなかったようです。
事態が変わったのはその一週間後の深夜のこと。実習記録を書き終えてひと眠りつこうとしていた矢先、抱月さんが心臓発作で亡くなったとの一報が入りました。つい数日前まで足浴を担当していた患者が急逝したというのは私にとってもかなりの衝撃でありました。バイタルチェックも異常値が出ていたという記録はなく、食事に問題があったとも思えませんでした。
翌日、私は繁く見舞いに通っていたご息女の清香さんを病院の庭園へと誘いました。実習の都合上、どうしても業後にしか時間を取れなかったのですが、清香さんは唯々諾々といった様子で応じました。待ち合わせの刻には空はすっかり黄昏色になっており、冬の終わりの糸のような寒風の中、庭園の東屋に座っている清香さんの元へと駆け、実習生ながらこのような結果となり申し訳ないと詫びると、清香さん(以降は、抱月さんと呼びます。)も今回は突然死であるからどうか自身を責めないでほしいと抱月さんの方から頭を下げられました。
「カルテには載っていませんでしたが、私にはどうにも等閑にできないことがありまして。」
庭園の椿に似つかわしい抱月さんの淑やかな雰囲気に溺れたか、意図せず私の口から言葉が漏れ出ました。
「なんでしょう。」
「えーと、何と申し上げたらよいか分からないのですが、お父様は度々黒い仮面に追われている幻覚に囚われていたようです。」
一瞬、抱月さんの瞳孔が開いたように見えました。
「その、実は私もこの前からその黒い仮面が見えるようになってしまいまして。」
「それは。」
それはあまりに突然かつ鮮烈な告白であり、夕飯を食べている時も風呂に入っている時も絶えずその衝撃が脳内を巡り続けました。父子二代に渡って、同じような幻覚を見ることなど到底信じがたい話です。カルテにも見捨てられたこの重要な情報を実習記録に書き残すべきか、深夜にコーヒーを啜りながら書き直しを命じられる可能性を勘定した結果、已む得ず記載を見送りましたが、その黒仮面というのが抱月さんの父上を死へと追いやったということは明らかであると思われてなりませんでした。
それからも告白の衝撃が消えることはなく、ついに実習の休みに大学図書館の人文科学の一角を渉猟して、閉館間際にようやく式三番の黒色尉面というものに行き当たりました。後日、抱月さんに黒色尉面を見せると、確かにこの面によく似ているという反応を得られました。
また、父子だけに見えて母には見えていないといったことから、生まれに関係があるのではないかという話になり、抱月という苗字に探りを入れることになりました。抱月姓は全国的にも珍しい苗字で、私が学生であった1998年においても全国に3世帯しか存在しておりませんでした。北陸の山間集落を起源に持つようで、抱月さんにそのことを尋ねると、今では廃村となった江賀集落というのが北陸の山間にあり、現在居を構える京都からの距離もそこまで離れていないことから、その集落の出と見て間違いないという答えでした。桜を見ず急逝した父のように、いつ実害が及ぶか分からない抱月さんをどうしても捨て置けなかった私は、実習の終わる二週間後に彼女と生家を訪ねるという約束を結びました。
旅に出る前に付け焼刃でも知識をつけておこうと急いで借りてきた市史によると、江賀集落は1974年に市と合併してまもなく廃村となったとあります。豪雪地域のさらに山奥にありながら、村中を走る今立川の浸食により比較的なだらかな平地が形成されたおかげで、稲を実らせる環境が整っており、他村が旱魃や虫害に見舞われる中でも、江賀だけは凶作を免れたという逸話も残ります。この記述だけ見ると、炭売りや養蚕等でしか生計を立てる手段が無かった他の集落に比べ遥かに定住に適した土地といえますが、その行末は市史が語る通りです。
抱月家で所有しているという軽トラに乗って、未明の京都を発ちました。抱月さんは当時二十七、八ぐらいの外貌で、車の免許も取得して7年程経つとのことでしたが、教習所を出てから車を運転したことが片手ほどしかないようで、道幅が狭くなって両側が杉林に覆われるようになると、対向車が来てはだらだらと汗を垂らし、石の礫を跳ねては急ブレーキを踏むという様子で、往路復路の交代制という約束は早くも反故となり、代わって私が運転役を買うこととなりました。
山間の狭い県道を進むにつれ、道路脇の谷の底を走っていた川は徐々に幅を増し、水面を盛り上げて今や訪う人もない一僻村江賀の臍下に草臥れます。川側には不均一に草の生えた平らな土地が並んでおりました。かつては黄金の稲穂を垂らしたことでしょう。今や夥しい葦が並び、秋が来たれば蒲が寂しく穂を吹くだけであろうと思います。
集落の入口に車を停めて村の中心部に向かって歩くと、商店舗のような廃屋が二、三件立ち並んでいて、家壁のトタンは吹き曝しとなっていました。中心部から離れるにつれて石畳が目立つようになり、勾配も厳しくなって新緑の楓の葉が髪を撫でるようになりました。
その坂の終点には鳥居が座しており、江賀神社という碑が横に立っておりました。本殿横には奥の院へと通ずる山道がありましたが、蒼然となった案内板には30分程度の登山を要するとの記載があり、私も抱月さんも険阻な道を越えてきて疲れが溜まっていたことから、とにかく奥の院への登山は廃村の麓を探し終えてからにしようという話で落ち着きました。
摂社の稲荷社を訪ねた帰途のこと、どこからともなく湧き出したまくなぎを払っていたところ、幸いにして稲荷社の普請にやってきたという隣集落の元村民と鉢合わせました。三番叟面について何か知っていることはないかと尋ねると、五艘というかつて江賀に住んだという村民は親切にも記憶を思い起こそうとしましたが、辛うじて記憶に残っていることといえば、式三番自体が半世紀前に廃絶となったということだけのようでした。しかし、廃村で出会った唯一の元村民を手放すわけにもいかず、抱月さんが苗字を明かして出自を語ると、他所者の垣根を越えたように一層親身となって、家に村史があるから来ないかとの誘いを受けました。
1930年に江賀集落へ赴任した新人教師の手記によれば、この雪深い集落には100名ほどの住人が住んでいたが、表札は五艘、杉、抱月の三つしかなく、五艘姓が一番多く抱月姓が一番少なかったとあります。五艘さんはこの手記の執筆者であった教師の教え子であり、彼が徴兵で村を離れた際に忘れ形見として譲り受けたようです。
結局、五艘さんから泊りを慫慂され二人して夕餉を御馳走になった後、寝ぼけ眼で村史の年表を眺めていたところ、合併の衝撃に埋もれるようにして、巻末の跋文の数ページ前にひっそりと江賀集落の式三番についての綾が認められていたことに気が付きました。
そしてその文章中に、相次ぐ離村と後継不足によって式三番の存続が危ぶまれるようになった折、集落全体で寄り合いが開かれ、幾度も詮議を繰り返した結果、1944年に正式に廃絶が決定され、江賀神社の奥の院に祭具と白尉面を納めたという記載を見つけました。そのときの画竜に点睛が加わったような感覚は今でも忘れ得ません。
既に夜は更けていましたが、せっかちの私は辛抱がならず、五艘さんと共にナイターを観ていた抱月さんを引き連れて、颯爽と虫の音一つせぬ江賀の社へと発ったのです。崩れ折れた廃屋の破風板が軽トラのライトに照らされ、かつて火伏を願って記された水の字が虚しく掠れている様は、何より離村の寂しさを克明に物語っておりました。
神さびた無住の社を指して枯れ草を分ける音は、東風に濡れそぼつ春の夜に時ならぬ騒めきを送りました。そして二十分ほど参道を駆けて奥の院へと辿り着き、磐座を背負った荘厳な神社の格子戸を開いて懐中電灯を掲げた時、暗闇からぼうっと浮かび上がるかのように長髭の白尉面が姿を現わしたのです。二人は息をあげながらも、「おお。」と美嘆の一声を発し、畏怖の念に包まれてしばらく格子戸の前に立ち尽くしました。面の収まっていた厨子の左右には巫女鈴と扇とが奉じられており、近くに瓶子が供えてあることから、廃村から四半世紀を経た今でも丁寧に管理されていることが窺えます。一礼して戸を閉めようとした時、長髭の白尉面の後ろにもう一つ戸があることに気が付きました。
腹を括って後ろ戸を開くと一際古い面箱が安置されており、箱を貫こうとする禍々しい視線を感じました。つま先を立て後ろから私の顔を覗き込む抱月さんに手招きし、これがお目当てだろうと合図を送ると、抱月さんが拳を固く引き締めつつ歩み寄りました。
「今日はもう戻りませんか、どんな危害が及ぶか知れたものではありませんよ。」
この時になって後悔を覚えた私を横目に抱月さんが返します。
「でも今この時を逃せば次はない気がするのです。」
面箱の紐を解いた瞬間、磐座を取り巻く社の周囲が妖しい雰囲気で満たされました。抱月さんが顔を強張らせながら面箱を開けると、長髭を蓄えた顎切りの黒面が禍々しい気魄を放ちつつその顔を覗かせました。
「この面です。」
面箱の中身は言わずもがな、抱月さんの父を死へと追いやり、それだけでなく彼女に対しても呪いの鉄鎖を括りつけようとしている黒式尉その面でした。
抱月さんの双眸は涙で煌めいていました。私も部外者ながら黒式尉と見えた手前、顛末を見届けなくてはという念を抱かざるを得ませんでした。「能にして能にあらず。」と能曲の中でも別格のものとして扱われる翁の最後を飾る三番叟は、前二つとは違い、異形の黒尉面を着けて舞うことからも神聖さだけではない、ある種のおどろおどろしいような両義的な存在であり、その種の類のものに鈍感な私でさえ畏怖の念に打たれて、三番叟面を前にしばらく蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くしてしまったくらいですから。
紐を結び直して元あった場所に安置してから、麓まで降りて来た道を戻っていた時になってようやく、何も状況が改善していないということに気づきました。というのも、二人して三番叟面との面会をすっかり事の終極に据えていたため、呪いを解く方法が別にあるとは考えもつかなかったのです。
私も抱月さんも蒼白な面を引っ提げて五艘さんの家に帰ると、余程の大事に映ったか五艘さんが助け舟を出してくれました。集落内に最後の千歳役を務めた杉東陽氏という方がおり、我々が焦心に駆られて何も手が付かなくなっていた間に、知人の伝手を辿って明日にその方との面会の予約を取り結んだようです。私も抱月氏も五艘さんの献身さにいたく心を打たれました。三番叟舞の廃絶が呪いの原因であるなら、同様にして千歳や翁にも災厄が降りかかっていると考えて異存はない。兎に角藁にも縋る思いで、明日の面会を待ち望みました。
就寝直前、私が髪を乾かそうと洗面台に向かうと、抱月さんが自身の足を上げてじっと見つめていました。
「どうされました。」
「どうも足の裏が擦れたような感覚がして、見てみるとやっぱり腫れて膿が出ているみたいです。」
「それは大変ですね。一度見せていただけますか。」
抱月さんの足裏を見てみましたが、膿はおろか全く腫れてもいませんでした。
「抱月さん、それ幻覚です。」
この時、私が付いていなければ抱月さんは父同様、あっという間に冥府に連れられるのではないかという懸念が一気に真実味を増していきました。
翌日、五艘さんの運転で、式三番の廃絶となる昭和二十一年に千歳を担っていた杉氏の家まで向かいました。家長の杉東陽氏は今や廃絶となった舞の演目を知る貴重な生き証人であり、露払いとして最後の三番叟役へ面を渡した張本人でもあります。そして東陽氏が言うには、長らく二氏で式三番を続けてきたが、翁、千歳と三番叟では起源が異なり、翁と千歳は我々杉氏が代々継いできたものの、それは大和四座の近い位置にあった先祖が応仁の大乱を避けてこの地へと逃げ延びた時からであって、抱月家で古くから続いている三番叟に比べると長い歴史がある訳ではない。他方、三番叟は式三番として混淆されるずっと前から続いていたものであると。その上、翁と千歳は江戸初期に舞の亡失があり、三百年前に再興されたという歴史があるため、千歳や翁が再び廃絶されたとて呪いなど生じるはずもないと。
「とはいえ、三番叟の祟り、呪いで身内を亡くされており、抱月さんにもそれが及んでいるのであれば、最後の千歳として出来る限りのことはいたします。」
「ありがとうございます。」
代々三番叟を担っていたのが抱月家であったことは、抱月さんにとっても寝耳の水であり、状況整理に頭が追い付かないといった様子でした。
対談の一部始終を聞いていた五艘さんが、はっと思い出したように会話の糸を繋ぎました。
「そういや、私の息子が生まれて三つになった時、健康長寿の呪いとして三番叟面に頬ずりをしてもらったっけね。」
東陽氏が堰を切ったように口を開きます。
「中世のフランス国王が患者に手を当てて病を治したという逸話があるように、江賀集落の三番叟面には、健康長寿の象徴として新生児や乳幼児に頬擦りをする習慣がありました。そして、病に罹った他氏族の子を軽重に関わらず抱月家が養子として引き取ったと言います。」
「それはなぜでしょう。」
「さあ、私にも分かりかねます。ただ、長らく秘匿とされていたことなのですが、三番叟の舞手は代々祭日以外に顔を出すことがなかったようです。病の子らは命も長くないとて、次々に抱月家に引き取られていきましたが、その子たちを三番叟役として育てていたのかもしれません。」
生家にそのような過去があったとは露も知らないといった顔を浮かべる抱月さんは、身に走る困惑を伝えようとその場に居合わせていた三者の顔を覗きました。
「あ、私が千歳として黒尉面を渡した時、三番叟の演目は彼誰時と決まっておりましたからよくは見えなかったのですが、三番叟役の顔はひどく膨れ上がって首筋は紅斑で埋め尽くされていた記憶があります。恐らく勘違いだとは思うのですが。」
最後の千歳の独り言を最後に、我々は杉氏の家を去りました。
さて、杉氏の家を発つ頃には昼も下がって、五艘さんにお暇を告げようと荷物の整理を始めた時、五艘さんがモノクロの写真が収まったアルバムを別室から居間に持ち出してきて、引き出しの奥底に眠る記憶を開けようと被写体の子息をじっと見つめました。私も抱月さんも五艘さんのことが気になって仕方がなくなり、荷物の整理を一旦止めにして、お茶を飲んで一息つくことにしました。すると程なくして、五艘さんは何かを思い出したように「ああ。」と声を上げました。
「長女がまだ一つの頃、戦後二年ころだったかに突然警邏が家に来よって、子供の皮膚を見せろと言われたことがあってな。」
「ああ、三番叟の顔について杉さんが話されていたことでしょうか。」
「ある程度成長した長男次男は疎開先におったで、家にはおらんかったんけどな。あの時、抱月の家から一人だけ警邏に連れてかれたのがあったような。」
これまでの五艘さんや杉さんの話に加え、幻覚とはいえどこか浮腫性紅斑や足底穿孔症を彷彿とさせる抱月父子の症状には覚えがありました。それが当時在籍していた看護学科で、飽かず聞かされていたハンセン病患者の症例であるということに気づくまで時間を要しませんでした。それもそのはず、らい予防法が廃止されて僅か1年という時節柄、医学科や看護学科を中心として偏見や差別を助長してきた負の歴史を繰り返すまいと、人権尊重の理念と共に、癩病もといハンセン病の症状に対する教育などがカリキュラムに盛り込まれた世代に学生時代を送りましたから、終日机で眠りこけ、成績表には可ばかりが並んでいた私でさえ忘れ得ぬほどの大事であり、その症状と三番叟を巡る話とは私の脳内で恐ろしいほど滑らかに結びついていきました。
さて国家賠償請求訴訟を境に、先天的で感染力が非常に強い業病という非科学的な俗信は根強く否定されましたが、免疫力の未熟な乳児や小児とハンセン病の患者が接触した場合、ハンセン病に感染する可能性があることは厚労省が設けた症状の解説ページの記載のとおりで、それが事実だとするならば、抱月家の呪いはハンセン病に由来するという仮説が私の中で俄かに沸き起こりました。
とにもかくにも、行方知れずとなった抱月さんの足跡を辿る術は他にありませんでした。無らい県運動が盛んであった1947年に警邏によって連行されたという五艘さんの話から、抱月家最後の舞手はハンセン病養生所に隔離されたのだろうと当たりをつけました。北陸地方から最も近い養生所は永島愛明園という国立の島園で、1935年に岡山の虫追という離島に創設されたと沿革に記されています。
永島愛明園を始めとして北陸から近い療養所に手当たり次第電話を掛け、抱月という姓の患者は居ないかと尋ねる算段でしたが、数多くの入居者が親族の迷惑になるまいと本来の姓を捨てざるを得なかったことは、理不尽な隔離の歴史を伝えた特集が定期的に伝えているところでありましたから、やはり岡山の離島に実際に足を運ぶのが良いのではないかということで二人の意見がまとまりました。
出発は一日でも早いほうが良いと北陸の山奥から車を飛ばして京都まで舞い戻り、駅近くの駐車場に車を停めた時にはもう日付が変わるか変わらぬかの時分で、岡山行きの列車はとうに終電を過ぎておりましから、東海道を駆けてきたブルートレインに滑り込んで気も安らがぬままに一夜を明かし、彼は誰時の中岡山駅を降り、朝風と列車風に吹かれつつ九州へ向かう寝台特急を見送りました。
岡山からタクシーで南東方向へ移動し、離島と本土の架け橋として1995年に開通したという奥永島大橋を渡っている間、下方にちらりと桟橋が見えましたが、3年前に橋が出来るまで長らくこの島への往来は渡し船のみであったと言います。奥永島大橋が「人間回復の橋」と称され、本土側から橋を渡るというだけでも象徴的な出来事となり得るに至った歴史的経緯については、その桟橋と孤島とを相見るだけで容易に理解せられました。
当時においても園の入居者の平均年齢は七十を越しており、ハンセン病による神経麻痺などの症状を加味すると存命の望みは薄く、事務所で抱月という名の者は居ないかと尋ねるも、入居者名簿には登録がないようで、十坪住宅と呼ばれる島内の狭小な住宅も手当たり次第に訪ね周りましたが、木霊が虚しく返ってくるばかりでした。そもそも別の養生所に在籍している可能性も否定できず、それどころか抱月氏がハンセン病であったというのも推論の域を出ないものでありましたが、抱月さんに降りかかる呪いが日々強まるだろうことは確かであり、このまま先月荼毘に付した父親の後を追って冥府に下るのを待つよりは、この宿業じみた呪いに抗ってみようと動き出したわけで、今更止めようにもありませんでした。
夕されば二影も青竹の如く伸びきって、飛び越えた防波堤の先、綺羅星のような浜の砂、足跡は一つなく、落日の深い金茶を映して静かに漣を迎える様は恣意的な時の流れとは縁を切ったようであり、近代に追いやられた自然の隠れ里と呼んで異存はありませんでした。
二人とも行き場を失ったように堤に腰を下ろして佇んでいると、一艘の船が渚の端にある波止場に停まりました。程なくして一人の漁夫が船から降りて、砂の塵を立たせつつ汀を横切ろうとするので呼び止めて抱月という入居者はいるかと尋ねてみると、「ホウゲツとはどのような字を当てますか。」という、聞きなれぬ木霊が波音と共に返ってきました。その返答を聞くや否や隣の抱月さんが
土埃も払わず堤を飛び降り、漁夫の元へと駆けました。
「抱えるに月です。抱月と申します。」
「豊槻です。読みはホウヅキです。」
漁夫は心の平静に至ったように泰然自若とした様子で、観音菩薩のような柔和な表情を湛えていました。
「つかぬことをお伺いしますが、それは貴方の本姓でしょうか。」
「いいえ。しかし、島で大変お世話になった方の旧姓の音を継いでおります。」
「あの。」
「三番叟の面のことですよね。追々お話しさせていただきますので、ひとまず私の家にお上がりになってください。
1965年晩春、東京五輪の余熱が駘蕩と染み渡り、いざなぎ景気を控えて眩い光の灯ったような社会の背後で、人知れず親に捨てられ離島へと流れついた豊槻氏が、三番叟の末代を務めた抱月氏と初めて逢着したのが今の住処であったと言います。一ヵ月前に抱月氏が世を去ってからは、狭小な十坪の住宅も伽藍としたように感じられ持て余してしまっているようでした。
入居当時七つであった豊槻氏に労働や家事の役を与える訳にもいかず、十坪の屋根を同じくする入居者のうち三十七と最も若かった抱月氏をしばらく親の代わりとして頼るように言われたようです。継母から疎まれ、実父の裏切りにあって一人お召列車に乗った豊槻氏は、次第次第に抱月氏こそ唯一の縁者であり、本当の父親と考えるようになりました。抱月氏の死後、笹本という本姓を捨て、豊槻という苗字に改めたのも育ての父への敬愛からと氏は語ります。
愛明園の入居者は1935年の創設時に連れられた者が大半だったこともあり、豊槻氏が入居した60年代には周囲は既に五十路、還暦のつぼ型構造となっており、戦前戦中の劣悪な生活環境と病状の悪化も相俟って島に骨を埋める者も多くありました。そのため、島内で最も外縁に位置する居住して15年も経つ頃には、十坪の屋根内に残る居住者は抱月氏と豊槻氏の二人となっていました。
そんな豊槻氏も分別がつくようになるにつれ内々に葛藤が巡り始め、突然前触れもなく繋がりを断たれた社会との再接続を図るために、島からの脱走を試みたことがあったようです。妙齢を迎えるにあたり、絶えず膨張する名誉欲や承認欲求を抑えきることはできなくなっておりました。計画前夜、脱走の意思を打ち明けると抱月氏は引き留める訳でなく、ただ悲しそうな顔をして、翌日塀の外に出られた時のために携帯食料と一週間ほどの路用を拵えました。
夜釣りをしていた島民を捕まえ、金を叩いて船に乗り、繊月の下を滑って島外に出たは良いものの
朝まずめの頃には人目が気になり始め、自ら頬を被って皮膚を露出させまいと努めるようになったと語ります。豊槻氏の症状はかなり軽度であり、眉が抜け落ちる程度のものでありましたが、それでも常に蔑視を差し向けられているという念に囚われ、やがてお召列車に乗った日を境に、社会の中での自分の居場所はもはやどこにも存在せぬものとなったということを悟ったようです。
愛明園に戻って力無げに十坪住宅の門を叩くと、抱月氏が出迎えました。その晩のこと、豊槻氏が育ての父にかつて脱走を図ったことはあるかと問うと
「ここに来る前に一度だけある。」
と想定外の答えが返ってきました。曰く、元居た集落で虜の身となっていた折、終戦後の混乱に乗じて月下を彷徨い出た際に、幸か不幸か警邏に捕まってこの島へ連れられたとのこと。それから豊槻氏は、なにゆえ父が虜の身に置かれていたのか暫く尋ねあぐんでいましたが、島の職員から断種手術の勧めを受けた際にその背景を知ることになります。
優生保護法が廃止されたのは1996年のことで、豊槻氏が青年になる頃には大分控えめなものになりましたが、優生思想に基づき断種が勧められており、豊槻氏が丁度十八になる日に、職員が狭小な住宅を訪ねてきました。愛明園の住民同士が結婚する際は、殆ど強制的に断種手術を施されたようですが、終生独り身であった抱月氏は断種手術を断り続けていました。当然ながらその日も、軒先で押し問答が繰り広げられました。
「笹本は受けないと話しております。」
「笹本さんもあなたも病を振りまく可能性があることをご自覚ください。」
その言葉を受け、珍しく抱月氏の返答に怒気が混じりました。
「余計なお世話じゃ。心配せんでも元から種などありはせん。」
「まるで証拠がない、非科学的ですよ。そんな妄言、誰が信じるというのですか。」
「もう一つの業病に罹ればいやでも分かる。とにかく笹本も私も断種は受けん。」
そう言ったっきり、抱月氏は玄関の戸をぴしゃりと閉めてしまいました。
そうして、凍り付いた空気が換気されることもなく夜を迎え、二人で夕飯を食べていた時のこと。寡黙な抱月氏が不意に切り出しました。
「社会への繋がりを求めるというのは、つまり誰かに必要とされたいということですか。」
豊槻氏の箸に挟まった米粒がぽとりと落ちました。
「はい。」
「自分の種を枯らすことになったとしても、他利に尽くしたいですか。」
「…はい。」
「ではこれから毎夜、夕食後に浜に来てください。」
その翌日、豊槻氏が浜に出ると、抱月氏が北極星を頭上に海松を背にして、月光の中を舞っていました。そして、豊槻氏を見るなり
「笹本さん、舞を覚える気はありませんか。」
というので、豊槻氏も何事かと思いつつも二つ返事をしたようです。
毎夜、抱月氏が砂浜に舞うのは一度きりで、後は豊槻氏が舞うのを海松の影から監督する役に徹していたようです。神経麻痺が残り手足も十分に動かせなかった抱月氏でしたが、一度海松の前に立つと、人が変わったように優雅に、かつ飄逸に浜風に舞ったと語ります。
「この舞は何を願ったものなのでしょうか。」
「早い話が寒冷地の五穀豊穣です。」
いつかの晩、豊槻氏が舞を止め砂浜に腰かけると、抱月氏が郷里に伝わる舞の縁起を語りました。曰く、この舞は三番叟の舞といって、郷里の泰平と豊穣を願って舞われるものである。三番叟の舞は各所で散見され、殆どは揉の段と鈴の段の二部構成となっているが、抱月氏の郷里においては揉の段が存在しない。なぜといえ、この舞は厳密には式三番の三番叟とは異なるものであり、応仁の頃に郷里に居ついた家が大和四座に近く、翁千歳の舞をもたらした際に、郷里で継がれてきた古の舞が三番叟として混淆されるようになったのであると。そして郷里に続く古舞は、元は郷里の江賀集落で厳しい寒さのために滞留を余儀なくされ、一冬を越すことになった八尾河内俊徳という田楽法師が、不作であるにもかかわらず丁重に一座を歓待する様を哀れみて、豊穣の舞として田楽を伝えたのが起源である。しかしながら、豊穣の呪力そのものは八尾河内俊徳の抱えた宿業、もとい癩に起因しており、豊穣の代償として癩を継ぐ者のみ舞手になることが許され、舞手の後継となった瞬間に種が枯れる呪いに囚われることになると。
「そのような舞手に仕立て上げ、苦の身代わりとなった挙句、郷里から島を訪れる者もないことに、恨みを覚えたりはしないのですか。」
「私が死ねば祖霊は代償を求めて、末代まで呪いを及ぼすだろう。が、そんなことは私の知ったことではない。」
「それでは…。」
しかしながら、そうは言いつつもどこかで親族に呪いが及ぶのを放っておけなかったのでしょう。ひと月前の臨終の間際、枕元の側で看病をしていた豊槻氏を近くに寄せて
「誰かの為に、という気持ちは今も変わりませんか?」
というので、豊槻氏が静かに頷くと
「本当に申し訳ない。」
と言って、豊槻氏に頬を近づけて頬擦りをしました。そして枕に頭を落とすや否や、抱月氏は不帰の客となったということです。
「それなら抱月家の代わりに、豊槻さんの親族に呪いが及ぶのではないでしょうか。」
語りを聞き終えた抱月さんが、すかさず尋ねました。
「実母は私を産み落として間もなく世を発ちましたし、父も十年ほど前に他界しましたので、血縁の者で存命している者はおりません。」
「そうでしたか。」
「それにしても、私のせいで種が枯れるのは到底忍びないものがあります。お子さんができるまで、せめて五十路の関を越されるまで待たせていただけませんか。」
「大変申し上げにくいのですが、先に出会った時から鈴音が絶えず鳴り響いていることには気づかれておりますか。」
「いいえ。」
「祖霊の近づきというのですかね。ひと月前に後継候補となってから、鈴の音が聞こえるようになりまして、抱月さんが大橋を渡ったというのはすぐに分かりました。」
「どんな音なのでしょうか。」
「簡潔に言えば、死の音です。人間、死が近づくと潮の香りがしますでしょう。その時に響く引き潮の漣のようなものです。だから。」
そういって仏間の遺影を見る豊槻氏の眼は、決意に満ちて炯としていましたが、どこかしら儚さを伴っていたように映りました。そして、私も抱月さんもその潮の香というのには心当たりがあり、また豊槻氏がいずれ子供を設けたとて、その子にまで呪いを継がせるのかという考えも徐々に沸き立ってしばらく黙ってしまいました。が、呵責の念に苛まれる抱月さんを宥めるように豊槻氏は続けました。
「私も父も、長らく抱月さんの訪問を待ち望んでいたような気がいたします。これから別火の儀に入りますから、江賀の地で三番叟の舞を舞うのは早くとも一週間後となります。それまではどうかご無事で。」
祈年の祭りからちょうど二ヵ月後の四月十七日、半世紀の空白を経て遂に三番叟の舞が復活を遂げました。七日に渡る別火を終えた豊槻氏が鏡の間から現れ、黒衣を身に纏い、中啓を携えて橋掛かりを渡ります。篝に焼べた薪の鳴らす木霊だけが能楽堂に響き渡り、僅かに鯨幕を震わす霊妙な空気に包まれつつシテ柱まで差し掛かった時、後座の左奥、鏡板の前で後見役を務める杉氏に瞥見し、影向の松から霊感を得て後、一の演目である烏飛びが始まりました。
私や抱月さんが抱いていた厳かな能舞のイメージとは異なり、それは躍動感に溢れる踊で、神域の区画を定めるのが目的であると言います。片足を跳ね上げつつ前進して本舞台の四柱を巡る、その動と静の間歇的な切り替わりには申楽の遥か古、水張りの田を飛び回った高足に通じる所縁の深さが窺えます。一寸先の闇へ片足立ちで着地する度に田の底の泥を突き刺すような地踏みが反響して、音の波紋が老松へと伝わりました。笛柱を越えて初めて豊槻氏の両足が揃えられた時、魂が抜けたように観衆から長く白い息が漏れ出ました。
烏飛びだけでも相当な緊張があったと思いますが、豊槻氏は間髪を入れる間もなく杉氏の元へ寄りました。そして顔を白い赤熊で覆ってアコーディオンのような形をした編木という楽器を持ち上げ、またしもシテ柱まで滑るように進むと、今度は田を植えるかのように中腰になってサラサラと編木を鳴らしつつ、水底深く刻まれた烏の足跡をなぞっていきます。烏飛びに続き、二の演目である「編木ごこ」も、代々抱月家が担ったといわれております。古くは式三番に至るまでの間に翁・千歳役を
杉氏の側でも祝詞を始め三つほど演目を担っていたようです。しかしながら、今では舞の廃絶に伴い
これらの演目も消失して久しくなっております。そのような経緯から、三番叟を演ずるにあたってこれら二つの演目はどうしても外せないと豊槻さんから願い出があり、三番叟の前に挿し込まれるような形で、急遽ではありましたが同日に演じられることとなりました。
躍動感に満ち満ちた烏飛びとは打って変わって、赤熊を被って身をやつし、地に向かって編木の音を立てながら四方を歩く姿は昼光にあっても非常に奇しく、まして篝火の仄かな灯に照らされただけの漆黒の能舞台においては、例え演者の顔を見知っていたとて、おどろおどろしいという情感を抱かぬ者は無かったでしょう。そのような昏冥の中では、編木の鳴るに重ねて、自ずと地へ籾殻灰が撒かれるような古の影姿が立ち上がってきます。
そうして暁風が吹き初める頃、二つの演目を終えた豊槻氏が千歳役を務める杉氏と共に鏡の間へと吸い込まれるようにして消えていきました。程なくして水干に着替えた豊槻氏が、独り橋掛かりを渡って影向の松の前に座します。北極星のように盤石かつ不動たる佇まいは、恰も背にした松を伝って此岸に降りた神仏のようにも思われました。
それから少しの間があって、錫杖を突いて鳴らしたような響きと共に、鏡の間に納められた面箱が杉氏によって丁重に運び出されました。本来であれば、露払いとして千歳の舞と翁の舞が杉家の演者によって舞われるようですが、一子相伝の秘芸であるに後継は絶え、不測のための祭文さえもはや読み解くに能はずという状況でしたから、やむなく割愛と相なりました。しかしながら、三番叟役を前に土地の泰平や繁栄を寿ぎ、三番叟面と鈴を渡すのは代々千歳の務めであったため、何とか役目を果たそうと別火の七日に必死で半世紀前の記憶を思い起こしたと後に杉氏は語ります。
千歳が松前で面箱を開けた時、能舞台全体が得も言われぬ妖しい空気に満たされました。それは奥の院で初めて三番叟面と見えた時の湿った夜風そのものでした。
「とうとうたらりたらりら、たらりあがりららりとう。」
千歳が解読不能な呪文を唱えると、いよいよ豊槻氏が三番叟面を被ります。須臾にして能舞台は神域へと立ち代わりました。そして、千歳より渡された鈴、中啓を両手に添えて、三番叟の舞が始まった時、浅霧は滔々たる水流となって能舞台を浸します。江賀に伝わる三番叟は、いわゆる翁のような静かで幽玄な舞とも、各所の三番叟に見られるような軽快な舞とも趣を異にしており、四肢を揺らし、床に根を張った長裾を翻して飄逸に、しかしながら決して荘厳さを失わない姿は鬼神のようにも映ります。飛び出るかのような頬骨の膨らみ、紐でつながった顎は長寿を象る翁というよりかは、瘦せ肉を残した骸そのものです。とりわけその双眼はひどく歪であり、皺を引き寄せた波のような造形でもなければ吊目というわけでもなく、弦月を横に臥せて歪ませたような造形でありました。
謡いも小鼓の音も無い夢幻の静寂の中、三番叟が舞う舞台は彼岸の支配する場であり、忘れ去られた厳然たる祈りと象徴の世界へと観衆を連れ去ります。力強い反閇は霧の底の地霊を揺り起こすように、また乾から坤へと振り下ろされ、静寂を薙ぎ払うように扇がれた扇は穂を実らす稲妻とも、早苗を靡かせる慈風とも想起され、地へと翳した三番叟鈴からは、籾種を水鏡へと降り撒く先祖の影が映りました。かつて『新猿楽記』において「腸を断ち頤を解かずということなきなり。」と評された猿楽の芸を色濃く残した三番叟でありましたが、代受苦として豊穣のために黒尉面を着けて舞う光景に、また社会との関わりを代償として未来へ続く種を断ったという豊槻氏の境遇に、そして宿業を背負わせる心の呵責も相俟って、その場に居合わせた誰しもが落涙を禁じ得ませんでした。
三番叟の舞が終わるのと頃合いを同じくして、北極星は姿を晦まし、暁風の吹くに任せて薪の炎は天へと上り、微かな淡香色をかき消して養花天に交じりました。
幾度かの春が過ぎ、今ひとたび三番叟の舞が廃絶の暁を迎えた時、その時は奇しくも抱月さんの第一子が産声を上げた日でありました。相当な難産であったらしく、母体は生死の境を幾度も彷徨ったと言います。抱月さんは意識を取り戻すなり、まず感謝を告げようと豊槻氏に電話を掛けましたがその時豊槻氏の応答はなく、そこで豊槻氏が事切れたことを悟ったそうです。
というのも抱月さんが瀕死の境にあった時、夢枕に黒尉面が立ち、鈴の音を鏗鏘と響かせつつ、黄金に照り映える稲穂に囲まれてかの舞を舞っておりましたが、抱きかかえていた赤子の産声が水面を揺らした時、黒尉面を外し、直面で三番叟を舞う豊槻氏の姿を見たと言います。見る見るうちに稲波は枯れて、赤錆びた折れ茎が地に沈みきったところで豊槻氏の姿は消え、そして抱月氏は長い眠りから眼を覚ましました。
祥月命日に抱月の家と私の家で墓参りをする慣習はいつから根付いたのでしょうか。桜しべ降る中、幼子が無邪気に風に踊るようにして私の目の前を駆けています。きっと母から誕生日の贈り物を貰ったのでしょう。豊槻、抱月両氏の魂は今、江賀集落の共同墓地に休らいます。境内の石段に腰を下ろした時、晴天の紺碧を二羽の烏が鳴きつ彼方へ飛び去りました。遅日の穏やかな陽差しに見守られて、北極星も春昼の午睡の最中と見えます。
最後に、姉の遺稿の末文を飾った箴言のような一文を書き残して終わろうと思います。いつ見ても腰折れな文だという印象を受けるのですが、同時に姉の遺稿の中で最も私が気に入っている一文でもあります。
「光陰の閃きが宿業の烙印を剥がした時、それは落梅のように種のみを地に残して消えてしまう。」
この話は一部フィクションが入っております。




