29 レベッカ消滅(2)
あの事故の日から、ずっとレベッカは眠り続けている。
もう一週間だ。
目を覚まさない妹を、学校から帰るとすぐに見舞うルーカスの顔は、憔悴しきっている。
「ただいま、レベッカ。今日の学食は君の大好きなカスタードクリームつきのプリンがデザートだったんだよ」
妹の豊かで美しい金髪を撫でた。
だが、恥ずかしそうに身動ぎする事もない。
話し掛けても、キラキラした黒い瞳を向けてはくれない。
「きっと、この世の誰よりもレベッカは、私の事を愛してくれていたよね」
本当にそうだった。
レベッカは生まれた直後から、自分を愛してくれていた。
彼女は、海よりも深い愛、火山よりも熱い情熱の全てを自分の向けてくれた。
公爵と公爵夫人である両親は忙しい。
お茶会やパーティーなど、社交界で生きるために、子供を置いて出席しなければならない。
しかし、レベッカの鬱陶しすぎる愛のお陰で、寂しいと感じたことはなかった。
自分を敬愛して止まなかったレベッカが、真っ白な無表情で眠っている。
こんなにも、真っ黒で虚無な毎日が来るなんて、想像すらしていなかった。
それほど、レベッカがいなくなるなんて思いもしなかったのだ。
「また、話しに来るよ・・」
いつものように、おでこにキスをした。
ピクリと瞼が動く。
次に左手の中指が僅かに伸びた。
ルーカスはその変化を見逃さない。
「レベッカ? 聞こえる? レベッカ?」
側に控えていた侍女が、その異変に気が付き、はしたなくもドアをバーンと押し開いて「おおお奥さまぁアあ、だだだ旦那さまああ」と走って駆けていく。
すぐにレベッカのベッドの回りに駆け付けた両親とルーカスが見守っている。
主だった使用人は、ドアの外で固唾を飲んでレベッカが目覚めるようにひたすら祈っていた。
レベッカの瞼が、ふるふると震えたかと思うと、固く閉ざされていた瞼が上がっていく。
「レベッカ!! ああ、あなた・・・レベッカが目を・・・漸く目を!!」
シャーロットがレベッカの痩せた手を握りしめる。
「ああ、ああ見ているよ・・レベッカ・・よかった・・」
イーサンは崩れ落ちそうな妻の体を支えながら、喜びの涙を拭った。
「ーーーッッッ!!」
感極まったルーカスは、言葉にならない。
しっかりと開かれたレベッカの瞳は集まった顔を、ぼんやり見ている。
そして、ゆっくりと覚醒した頭でもう一度見た。
「レベッカ・・。何か言って頂戴。欲しいものはある?」
シャーロットが涙を拭おうともせず、娘の第一声を待っている。
「・・・あなた・・だれ?」
娘から、戸惑い緊張した声が弱々しく漏れる。
「わ・・わたしは・・あなたの母よ? 私が分からないの?」
シャーロットは愛しい娘の発した言葉にショックを受けていた。
「なんて事だ。誰か医者を連れてこい」
イーサンがドアに張り付いている使用人に叫ぶ。
すぐにバルケネンテ公爵家のかかりつけ医が呼ばれた。
彼は、イーサンが子供の頃から診察を任されている医者だ。
当然、レベッカも子供の頃から診察を受けている。
しかしながら、その医者の顔も分からないレベッカ。
医者は困惑しながらイーサン達に説明を始めた。
「大きな怪我をした場合に、記憶の混濁症状が診られる場合がありますが、レベッカ嬢はそれとは違うでしょう。これは、記憶喪失です」
「では、私達の事も自分の事も分からないままなのですか? いつ治りますか? どうしたら治りますか? 薬は? 治療法は?」
医者に詰め寄るシャーロットをイーサンが抱き締めて落ち着かせようとする。
「この場合、いつ記憶が戻るのかは全く分かりません。明日に治る場合もありますが、10年経ってもそのままという患者もいます」
再び重い沈黙が流れた。
ここで、ルーカスの顔を見せれば、記憶も戻るのではないかと、イーサンは考えた。
慌ててルーカスの顔がよく見えるようにレベッカの枕の側に座らせた。
しかし、ルーカスの顔を見ても、レベッカの顔から不安な色は消えない。
疲れたレベッカは、怯えた表情のまま再び眠りに就いた。
侍女一人を残し、イーサンは傷心の妻を抱き抱えながら、レベッカの部屋をでた。
ルーカスは、自分の顔を見ても何の喜びの色を表さない妹を初めて見た。
そして、そのショックのままシッティングルームに向かったのだった。
両親と息子は、集まった部屋で言葉を失ったまま黙って座り込んでいた。
「私はレベッカの愛に応えることなく今日まで来ました」
ルーカスが強い決意の表情で、両親に語る。
「レベッカの大きな愛を、受けるだけだったように思います。しかし、これからはレベッカが我々を分からなくても、不安にならないくらい沢山の愛情を注いで、支えていこうと思います」
ルーカスの言葉を聞き終わると、シャーロットも『うん』と頷き手を握りしめる。
「そうよね。あんな重体だったのに、生きて私を見てくれた。もう十分よ。もうあの子が一瞬でも悲しんだりすることのないようにするわ」
イーサンは、そんな二人の肩を抱き寄せ、目の回りを赤くさせて、うんうんと頷くだけで精一杯だった。
その夜中、レベッカは再び目を覚ました。
「お腹すいたな・・肉じゃが食べたい・・・」
だが、ここには和食はなさそうだ。
豪華な天蓋カーテンが付いたベッド。
レースのカーテンは細かな刺繍が施されて、いかにも高級だと分かる。
部屋もホテルのロイヤルスイートよりも広いだろう。
泊まった事はないけれど。
明らかに自分の部屋ではないと、戸惑っているのは、竹脇莉菜だ。
しかも彼女の記憶は、まだゲームの『光る海をあなたと』と出会う前の高校2年生しかない。
さっき起きた時、とっても綺麗な女性が私のお母さんだと言っていた・・・。絶対にあの人、間違えているわ。だって、私のお母さんは・・・。
竹脇莉菜の母は、金にも男にもだらしなく、莉菜が幼い頃に父は家を出ていった。
莉菜は近所の人の通報で、何度も児童相談所の施設に行くが、その度に母は迎えにきた。
そして、高校生になると一人暮らしをするが、度々バイトのお金を強引にむしり取っていく。
そのせいで、高校の教科書はいつも先輩のお下がりだ。そして、修学旅行にも行けなかった。
大人しくて誰にも相談できなかった。ずっと一人で生きてきた。
それが、急に父と母と兄という人が現れたのだ。
これは夢なのだろう。なんて素敵な夢・・・。
折角の夢を終わらせたくない。
この素敵な部屋も、もっとよく見たい。
莉菜は身体を少し起こした。
身体中が痛む。だが、半身を起こし辺りを見た。
すると、向こうにとても美しい女性がこちらをじっと見つめている。
他にも人がいたんだ!!と驚き小さく首を下げた。
彼女も同時に挨拶をしてくれる。
人見知りな莉菜だったが、勇気を振り絞って声をかける。
「私は竹脇・・・」
聞き馴染みのない声が、莉菜の口を通して出る。
しかも、莉菜が動いた事で、映っているのは鏡の中の自分だと気が付いた。
この夢は見た目も変えてくれているのね。
莉菜は嬉しくなる。
そうだ、喉が乾いていたんだ。
ベッド脇にベルがあるが、それを鳴らせば侍女がきてくれる・・・など莉菜が知る訳がない。
ベッドから立ち上がろうとしたが、全く足に力が入らずドサッと倒れてしまった。
その物音に、すぐにドア前で待機していたミランがノックとともに入室する。そして、驚くほどの速さで莉菜を抱き上げ、尋ねる。
「どうされましたか?」
地味で大人しく人見知りな莉菜が、この状況でまともに答えられるはずがない。
美男子に抱えられて、今にも気を失いそうだが、耐えた。
「申し訳ございません・・・。私・・・お水が飲みたくて・・」
途端にミランの体がプルプルと震え出す。
そして、横を向いたまま素早く莉菜をソファーの下ろし膝掛けをかけると、「水ですね。すぐにお持ちします」と風のように部屋から出ていった。
「私、初めて会った人に頼むなんて・・・失礼な子だと怒ったのかしら・・」
莉菜がしょんぼりしているその頃。
ミランは普段走らない廊下を、爆走していた。
「記憶がないと聞いていたが、あのギャップはなんだ!! 可愛すぎるだろぉぉぉぉ」
夜の食堂に、男が一人吠えていた。




