15 偽ヒロインの好感度上げ
ジュリアは薄いピンクの髪を揺らして、走りに走った。
お昼休みを返上して、売店に風邪薬を買いに行き、漸く辿り着いた化学実験室。
もう一人のヒロインであるジュリアが、実験室の扉を開いた時には、そこには誰も居なかった。
それもそのはず。
既にハンカチイベントはもう終わっている。
「ぐぬぬぬ、どうして? どうして誰も居ないの? イベントはどうしたのよ!!」
しかし、ここで考えていても時間が勿体ない。
ジュリアは次の行動に移った。
兎に角、攻略対象であるルーカスは乳母と母の仲違いのせいで、寂しい幼少期を送っていた筈。
またルーカスは、母の愛情を独り占めして我が儘に育った妹に手を焼いていた。
その妹のレベッカは、屋敷の使用人を人間扱いせず傲慢に振るまい、気に入らなければ折檻する。
実の兄にも、自分よりも劣る癖に次期公爵と呼ばれているのが疎ましく、事あるごとに対立するのだ。
きっとルーカスは、母やレベッカの事で心身ともに苦しんでいる。
そこをヒロインが優しい言葉を掛けて支えてあげると、ルーカスはいとも簡単に好感度が暴上がりし、落とせるといったシナリオである。
ジュリアは、生徒会室まで風邪薬を持って走った。
息を整え扉をノックしようとしたら、ルーカスの声が聞こえてきた。
「ああ、レベッカには参ったよ」
緑のどろどろの風邪薬が入った瓶をアルナウトに見せる。
百倍苦味を増した薬だ。
「今回も大変だったな。ルーカスには毎回、同情するよ」
ついさっき、激しく咳き込んでいた友人を、気の毒に思いながらも、少しばかり羨ましくもある。
その会話から、ジュリアはレベッカとルーカスの兄妹関係は、ゲームのままだと確信した。
そして、意気揚々とノックをして生徒会室に入った。
「アルナウト王太子殿下、ルーカス・バルケネンテ様、初めてお目にかかります。私は一年生のボスマン男爵の娘、ジュリアと申します。ルーカス様に聞いて頂きたい事があって、ここに参りました」
「何の用かな?」
ルーカスは相手を注意しながらも、他人には全く気付かれない優しい笑顔で、ジュリアを迎えいれる。
その笑顔に安心したジュリアは、ゲーム通りの台詞を言う。
「ルーカス様のご心労をお察ししますわ。妹のレベッカ様の事でお悩みなんですよね?」
まさに、破天荒過ぎる妹に困っているところだったルーカスは、警戒しながらも頷いた。
それを見たジュリアの声に力が入る。
「お母様の事もお寂しいですわよね? 乳母の方との板挟み・・お辛いでしょう?」
ルーカスが首を傾げ「は?」となったので、ジュリアは戸惑った。
ーーあれ? もしかして、母と乳母の件は解決しちゃったの?
それならば・・と話題を変える。
「で、でも・・人を人とも思わない傍若無人な妹に、心を痛めていらっしゃるルーカス様のお気持ちは良く分かっています。どんなに心を尽くしても、レベッカ様はルーカス様を排除しようと動かれます。もう、楽になさって下さい。仲の悪い兄弟、姉妹は沢山います。是非ルーカス様も・・・頑張らずに・・レベッカ様を諦めても致し方ないことだと思いますわ」
言い切ったジュリアは、ルーカスが心を打たれ、潤んだ瞳でジュリアに歩み寄るのを待っていた。
しかし、全くもってルーカスは微動だにしない。
歩み寄るどころか仁王立ちになってジュリアを見ている。
あれ?
何か台詞を間違ったかしら?
焦るジュリアが助けを求めるように、隣のアルナウトに視線を移したが、彼もまた・・、いや、彼はルーカスよりも恐ろしい鬼のような顔でジュリアを睨んでいる。
ルーカスが口を開く。
ゲームでは愛おしさを隠しきれないといった熱のこもった声だったが、同じ人物とは思えぬ程に、冷たく低い重低音。
「君は我が妹を侮辱しにきたのか?」
「ひっっ!!」
「それに、レベッカが私を排除しようとしているだと? 我が家族を、策略によって引き裂こうとしているのか?」
「ち・・ちが・・」
ジュリアは逃げようとするが、行く手をアルナウトに遮られた。
「バルケネンテ公爵家は、我が王家にとっても大事な家だ。誰に頼まれた?」
手首を捕まれ捻られたジュリアは、痛さで泣き出す。
「泣いても許されるものではないぞ」
さらに力をいれるアルナウト。
その時、呑気に現れたレベッカが、生徒会室の扉を開いてその状況を見てしまった。
泣く女子生徒を押し倒そうとしている?
「まさか・・殿下にそんなご趣味が?」
アルナウトはすぐにジュリアの腕から手を離し、首を横に振る。
「違う!!断じて違う!!」
その僅かな隙をついて、ジュリアは逃走した。
追いかけようとしたルーカスを、レベッカが止めた。
「レベッカ、放せ。あの女の後ろにいる黒幕を吐かせねばならん!!」
「そんなことより、もっと大事な事がありますの」
「「なんだ?」」
ルーカスとアルナウトが二人揃って問う。
「それは、お兄様のお薬の時間です。さあ、お飲みになってください。今度は通常の苦さです。安心してくださいね」
極上の笑みを浮かべる妹は、常に兄の健康を気遣っている。
ここで、飲まずにジュリアを追うのは無理だ。
判断したルーカスは力が抜ける。
素直に先程とは色の違う、薄い黄緑色の液体の入った瓶を受けとり、一気に飲んだ。
それを満足そうに見た後、「あの女子生徒は私にお任せください。お兄様は病み上がり。ですので、絶対にご無理は・・・」
ここまで言ってアルナウトに顔を向ける。
「無理はさせないで下さいね!!!」
最後の念押しは、アルナウトに刺さった。
そして、レベッカは静かに扉を閉めて去っていった。
「お前の妹は、俺をお前の護衛だと思っているのではないか?」
確かに・・・いつもレベッカが、ルーカスに言うことがある。
『危ない事は全部、殿下に任せておけばいいのです』
これが、他の貴族に聞かれれば、不敬で処刑台に一直線だ。
彼女なら、王子・・否陛下ですらルーカスの駒として扱うかも知れない。
レベッカの頭の中を見られてしまったら、13段の処刑階段を、何度上ったり下がったりしなければならないのだろうか。
「流石に我が妹でも、王太子殿下を護衛のように扱うなど・・・思っていないと・・おもい・・ます・・」
人の気持ちを読む事に長けているアルナウトを前に、嘘をつくのは忍びない。
「・・まあいい。それよりも、あのジュリアと言う女を調べて見よう。調べるのは・・・私の仕事のようだ」
「バルケネンテ家が動かず、王家に動いてもらうなど、出来ません」
ルーカスは慌てるが、アルナウトが自嘲気味に笑う。
「ふふふ。もし、君が動いて怪我などしたら、レベッカが俺にどんな仕打ちをするか・・・考えただけでも恐ろしいのだ。こっちに任せろ」
ルーカスもそれについては反論出来ない。
妹の『兄好き』に、歯止めがないことを知っているからである。
これほどの兄想いの妹を、追いやろうとしたジュリアは何を企んでいるのか、思い出しただけでも腹立たしくなる。
しかも、妹の何をどう調べてきたのか、屋敷の者にレベッカが非道な扱いをしているなどと、嘘をつく事も許せなかった。
確かにレベッカは、ルーカス以外には激しい執着は見せないが、屋敷の使用人一人一人を良く見ている。
ある日、洗濯していた侍女の体調が悪い事を見抜いたレベッカは、魔法でさっさと洗濯を終わらせ、部屋で休みをとるように、命令していた。
言い方はきついが、それも彼女の優しさだ。
レベッカが無限の魔力で、侍女の仕事を手伝えば、侍女達の仕事がなくなることを知っている。
侍女が部屋で休んでいれば、先輩などにいやがらせを受けるかもしれない。
それを言わせないために、皆の前で冷たく命令口調で、休みをとらせたのだ。
ルーカスは、この他人から分かりにくい妹が大好きだった。
だから、ジュリアが妹を貶めようと、自分にすり寄ってきたのが、堪らなくイラついた。
あのような嘘を、自分なら騙されると思われた事も情けなかった。
「ジュリア・ボスマン男爵令嬢・・このまま許すわけにはいかないな」
本来、このシナリオでヒロインは、ルーカスに強烈な印象を残すのだが、ジュリアは悪い方向に印象を焼き付けた。
そして、もう一人。
アルナウト王太子殿下にも・・。