14.二人きりの夜
朱雀の家の二階で青慈と朱雀の部屋は隣り同士である。最初は二階の一番奥の部屋を青慈と一緒に寝室として使っていたが、そのうちに紫音がやってきて三人で寝室として使うようになった。成長に伴って青慈は隣りの部屋を自分の部屋として作ったのだがしばらくは朱雀の布団に潜り込んで来ていて、朱雀もそれを許していたが、完全に別々に寝るようになったのはいつ頃からだろう。
青慈が10歳くらいになった頃かもしれない。その頃には紫音も一階に自分の部屋をもらっていて、紫音は大人しく自分の部屋で眠っていた。
「お父さん、俺、そろそろ一人で寝ようと思うんだ」
あれは青慈が10歳になる誕生日の直前だった。
涙目で寝間着の裾をぎゅっと握り締めて、青慈が俯いていた。長めに伸びて来た黒髪がさらさらと青慈の肩を滑り落ちて行った。
「もう青慈も10歳になるからな」
「う、うん……」
「お休み、青慈」
声をかけると青慈は寝室の入口から動かない。青慈と一緒に寝るために買った寝台は広くて、10歳の青慈とならばまだまだ寝られそうだったが、こうして子どもは大人になっていくのだと朱雀は自分を納得させていた。
「お、お父さん、ぎゅってして」
「抱っこするか?」
「ううん、抱き締めるだけでいい」
抱き締めて欲しいと強請る青慈を朱雀は抱き締めた。屈んでしっかりと抱き締めると、青慈が朱雀の肩口に顔を埋めてくる。すんすんと洟を啜って、涙で朱雀の寝間着の肩が濡れるのが分かった。
「お休みなさい」
それが青慈が朱雀と寝なくなった日の記憶。
まだ10歳なんて小さいのだからもっと一緒に寝てやればよかったという後悔がないわけではないけれど、青慈の成長のために朱雀はぐっと我慢した。もっと一緒に寝ていていいんだぞと声をかけることをやめた。
あの日以来、青慈は朱雀の寝室を訪ねることはあっても、ベッドに入って来たり、一緒に寝ようとしたりはしなかった。
何度かあれから「抱き締めて欲しい」と言われて、寝る前に抱き締めた日々が懐かしく思い出される。
寝室で寝る準備をしながら青慈の小さな頃を朱雀が思い出していると、寝室の扉が叩かれた。
「青慈?」
「お父さん、ちょっといい?」
声をかけた青慈は、朱雀が扉を開けるまで自分から扉を開けるようなことはなかった。話があるのだったら部屋の中に招こうとしたが、居間に降りて来てくれるようにお願いされる。
居間の明かりを点けて長椅子に座ると、青慈が紅茶を淹れてくれた。紅茶に牛乳を入れていると、青慈がふっと微笑む。
「紫音ちゃんならもっと入れてるよ」
「紫音は牛乳が好きだからな」
「旅先では牛乳が気軽に飲めないだろうからなぁ。お父さん、転移の箱で送ってあげたら?」
「そうだな。魔法の小瓶に入れて送ってやるか」
牛乳好きの紫音の話になると、場が和やかになる。紅茶を飲みながら、青慈が見せて来たのはびっしりと字と図が書かれた帳面だった。
「新しい演目の、蕪姫の婚約破棄から始まる物語を書いてみたんだ」
「出来上がったのか?」
「まだ細かなところは見直してないけど、第一稿は出来上がった感じかな」
帳面を渡してもらって朱雀が見ていくと、青慈らしい丁寧で几帳面な字で物語が書かれている。何度も書き直した跡があって、青慈の努力に思いを馳せながら、朱雀はそれを呼んだ。
国王の娘の蕪姫は異国のサツマイモ王子と婚約しているが、急にそれを破棄されてしまった。国同士の決まり事である婚約を破棄するとはそれだけの理由があるのだろうと、蕪姫はかつて恋心を抱いていた勇者大根とその妹の聖女人参に頼んで、異国を探らせる。
サツマイモ王子の国は魔王に支配されていて、魔王を一度倒して退けた大根勇者と聖女人参のいる蕪姫の国との和平を魔王は許さなかったのだ。サツマイモ王子は捕らわれていて、蕪姫との結婚を望んでいるのに、婚約を破棄されたことに悲しみと苦しみを抱いていた。
一念発起した蕪姫は、勇者大根と聖女人参に手助けしてもらって、国王の兵を異国に忍び込ませる。魔王軍との戦いの末に、蕪姫に助けられたサツマイモ王子は、蕪姫に愛を告げて、二人は結婚にこぎつけるのだった。
「これは、次の演目はサツマイモマンドラゴラがいるってことかな?」
「お父さん、育ててなかったっけ?」
「サツマイモは収穫が秋だから、まだ育ってなかったんだよな。よし、明日にでも畑を見てみよう」
「ありがとう、お父さん」
新しい演目に必要なサツマイモの確保を考えていた朱雀は、隣りに座る青慈に帳面を返すときになってやっとその距離の近さに気付いた。肩が触れるほど近くに青慈は座っている。
「お父さん? どうしたの?」
「い、いや、なんでもない。なんでもないんだ」
そっと体を離そうとして、朱雀は帳面を持った手を青慈に握られた。青い澄んだ双眸が朱雀を映している。真剣に朱雀を見詰めたままで、青慈はじっと動かない。
「せ、せいじ……」
「お父さん……いや、朱雀」
「あ、の……」
腕を引き寄せられて、朱雀は青慈の胸に抱き寄せられていた。手から滑り落ちた帳面が床の上でばさりと音を立てる。まだ成長途中で薄い胸だが、朱雀を閉じ込めてしまう青慈の腕に、朱雀は内心狼狽えていた。
「あ……せ、いじ……」
喉がカラカラで言葉が上手く紡げない。何を言っていいのかも分からず、青慈の名前を繰り返すことしかできない。抱き締めている青慈の方は、じっと朱雀の赤い目を至近距離から見つめていた。後少し動けば、青慈の唇が朱雀の唇に触れる。
「朱雀、俺のこと少しも警戒してないよね?」
「け、いかい?」
「俺はこんなに朱雀に触れたいのを我慢してるのに」
切羽詰まった声が聞こえて、朱雀はなんと答えていいか分からない。青慈の筋張った男の手が朱雀の頬を撫でる。決して強引ではない触れ方に、朱雀は不思議と嫌悪感も恐怖もなかった。
このまま青慈に流されてしまいたい。
青慈のものになってしまえば、これからもずっと青慈を独り占めにできる。
「青慈、私は……」
「朱雀、何も言わないで」
「でも……」
「俺、おかしくなりそうになる。理性がもたないよ」
もたなくてもいい。
青慈の思うままにしてほしい。
目を閉じて口付けを待つような顔になった朱雀に、青慈は必死に耐えているようだった。
「朱雀は狡い……俺は、朱雀を求めて、求められたいのに」
流されることで青慈のものになって、青慈を手に入れようとしている自分が狡い自覚は朱雀にもあった。はっきりと青慈に自分の気持ちを告げないままに、成り行きで体の関係を作ってしまおうという大人の狡さだ。
『お父さん! 牛乳が飲みたい!』
緊迫した空気を壊したのは、朱雀の付けていた首飾りの通信具から流れてきた紫音の声だった。紫音は魔法を使えるわけではないが、歌には魔力が宿っているし、通信具程度ならば使える才能があったのだろう。
『あれ? 通じた? 立体映像は出てないのかな?』
立体映像を出すまでの能力が紫音になかったことを、朱雀は心から感謝した。弾かれたように青慈の腕から抜け出して、紫音に対応する。
「牛乳は明日魔法の小瓶に入れて送ろうと青慈と話していたよ。公演はどうだった?」
『ものすごく喜ばれたわ! 報酬もいっぱいもらった! でも、疲れて帰って宿に行ったら、お茶に入れる牛乳がないって言うのよ!』
酪農農家と契約をして転移の箱に新鮮な牛乳が届くようにしている朱雀の家で育った紫音にとっては、疲れて帰って来たのにお茶に牛乳が入っていないなどあり得なかったのだろう。
「今から送るよ。転移の箱で受け取って」
『ありがとう、お父さん!』
元気に答えた紫音からの通信が切れて、朱雀が魔法の小瓶に氷室から出した牛乳を移し替えているところで、青慈が床に落ちた帳面を拾って立ち上がったのが見えた。
「これ、明日銀先生に送ってくれる?」
「う、うん」
「お休み、お父さん」
どこか素っ気ないような素振りの青慈が階段を上がって行くのを、朱雀は引き留めることができなかった。
青慈の気分を害してしまったのではないだろうか。朱雀のせいではなかったけれど、青慈はその気になっていて、それを朱雀が紫音に対応したために台無しにしてしまった。
「青慈、ごめん……」
流されようとした狡さも、紫音に邪魔されて青慈に想いを遂げさせてやれなかった申し訳なさもあって、寝台に倒れ込んでも朱雀はなかなか眠りにつけなかった。




