8.初めての口付け
朱雀の住む集落のある山は、大黒熊の生息地なので、あまり魔物は出ない。大黒熊は動物の中でもかなり凶暴で縄張り意識が強いので、自分の縄張りに魔物が入ってくるのを嫌うのだ。魔物が入ってくるときには、大黒熊以上の強さを持ったものとなるので、そうなると集落の猟師では太刀打ちができない。
集落には猟師が四人いて、仕掛けた罠で兎を捕まえたり、弓矢で山鳥や鹿を打ったりしている。漁師たちも大黒熊に出会うと猟はできなくなってしまうので、そういうときのために青慈と紫音の助けが必要だった。魔物が出たときにも処理できるのは青慈と紫音だけだ。
「紫音ちゃんが旅の劇団になるのか」
「そうなると心細いな」
「俺は残るよ?」
「青慈くんに頼ることになるな」
迎えに来た猟師たちと青慈と紫音は山の見回りに出かけて行った。見回りに青慈と紫音を使う代わりに猟師たちは自分たちの取った獲物の一部を分けてくれる。それを捌くのは青慈の仕事なのだが、そのおかげで朱雀の家の食卓が豊かになっているのは否めなかった。
「危なくないのかな」
「紫音と青慈だったら、危ないのは襲ってきた方よ」
明るく二人を送り出した藍に、朱雀が心配していると、藍はからからと笑っていた。庭の薬草を収穫して調合に入った朱雀に、藍が居間を片付けながら話しかけてくる。
「青慈とは正直、どんな感じなの?」
「どんなって……今まで通り普通だよ」
朱雀が答えると藍は微妙な顔をしているようだ。
「青慈はもう17歳なのよ? 何か色っぽいことはないの? 口付けたり、抱き合ったり」
「く、口付け!?」
「朱雀さん、誰かと口付けたことあるの?」
真剣に藍に問いかけられて、朱雀は考え込んでしまった。一時期朱雀は妖精種として整っている容姿から、麓の街に降りるたびに見知らぬ男女に声をかけられてはいた。そういうことに興味がなかったので全く取り合わず、そのうちに青慈という天使を得て、紫音も来て、すっかりと「お父さん」が定着してしまったので、朱雀は恋愛というものをしたことがない。
「私には恋とか縁がなかったからなぁ」
「朱雀さんのことを狙ってたひとはいっぱいいたのよ?」
「え?」
「山の賢者様で、妖精種だから無理だろうとみんな諦めちゃっただけで」
藍が麓の街に暮らしていた頃も、朱雀を狙っていたひとはたくさんいたが、相手にされないことが分かってみんな諦めて自分の相応の相手と結ばれたと藍は話している。
「私は妖精種の中でも若い方で、村では子ども扱いされてて、相手にされなかったし……」
魔法の才能を重視する妖精種の中では、朱雀は魔力が低く、移転の魔法すら使えなかったので、落ちこぼれとみなされていた。そんな場所で恋愛ができるわけがない。妖精種の村を出てからこの山に住み付いてからも、人間と妖精種では寿命が違うことは分かり切っていたので、恋愛など考えたこともなかった。
「口付け、したことない……抱き締めるのは、青慈をこの前抱き締めたよ?」
「それはどういう場面だったの?」
「えっと、青慈が私のそばに来て、私が壁際まで追い詰められて、青慈が私の顔の横にドンッて手を突いたから……」
「青慈! やるじゃない!」
「紫音と藍さんがもうすぐ旅に出るから寂しくなったのかと思って、抱き締めてあげたよ? 抱っこして欲しいのかなって」
「ちがーう!」
青慈もそのとき違うと言っていた気がしていたが、朱雀は気にしていなかった。天使のように可愛い青慈は抱っこを求めてきているだけだと朱雀は信じ込んでいたからだ。
「青慈は口付けをしようとしたのよ!」
「ま、まさか、そんなはずはないよ」
「そんなはずはないって、どうして言えるのよ? 青慈はもう17歳よ? 18歳になったら、朱雀さんと結婚するって言っているのよ。結婚の意味が分かる?」
ものすごい勢いで問いかけてくる藍に、朱雀はたじたじになっていた。
「結婚って、二人で死ぬまで一緒に暮らすことじゃないのか?」
「それだけ?」
「それだけって?」
顔を歪めている藍に、朱雀は首を傾げる。結婚にそれ以上の意味があっただろうか。結婚しても青慈と朱雀はこれからもずっと一緒に、この山で平和に暮らしていく。それ以外考えられることはなかった。
沈痛な面持ちで藍が額に手をやって食卓の椅子に座った。
「座りなさい」
「え、はい」
促されて朱雀も椅子に座る。
「結婚は愛し合うことが入っているのよ? 分かる?」
「私は青慈のことを天使のように大事に思っているよ」
「天使じゃなくて、青慈は一人の男性なの。性的なことがしたいのよ!」
「ふぁー!?」
山の中で大黒熊に襲われそうになって、赤ん坊用の籠の中に入っていた青慈を拾ったとき、朱雀は天使だと思った。あの日から朱雀の青慈への感情は全く変わっていない。
可愛い可愛い天使の青慈。
その青慈に性欲があると告げられると、戸惑って叫んでしまう。
「青慈に、そ、そんな欲望……」
「ないわけないでしょう!」
「それなら、藍さんは紫音とそういう関係になることも想定して、大きくなったら結婚すると答えたのか?」
朱雀の問いかけに、藍が長く息を吐く。ため息を吐かれているのだと理解して、朱雀は居心地が悪くなる。
「想定してないわけがないでしょう?」
「紫音だぞ?」
「そうよ、紫音よ。私は結婚していたことがあるから、男性とは経験があるわ。女性の紫音とはどうするのかはっきり分かってない部分もあるけれど、紫音にそういう欲望があってもおかしくはないってはっきり分かっている。それも含めて、紫音の愛情を受け止めるつもりよ」
朱雀さんは?
問いかけられて、朱雀は初めて青慈の欲望について考え始めた。
可愛い天使のような青慈にそんな欲望があるのだろうか。
確かに強引に抱かれて流されてしまえば、抵抗はできないと考えていた時期もあったが、妖精種の村で青慈が不老長寿の妙薬を飲んでからすっかりと落ち着いてしまったので、あれは一時期の気の迷いだったのだろうと朱雀は考えるようになっていた。
「私は男で、青慈も男だよ?」
「私は女で、紫音も女だわ。それって、大事なこと?」
「いや……」
「銀さんと玄武さんも男同士で愛し合っているのよ」
「そ、そうだけど……」
具体的に人物を上げられると朱雀は戸惑ってしまう。
「お父さん、ただいまー!」
「お腹空いたー! お昼ご飯は何?」
元気に青慈と紫音が帰って来たことで話は中断された。しかし、朱雀の胸の中には藍の話したことがはっきりと残っていた。
夜寝るときに、朱雀と青慈の部屋は二階で隣り同士である。藍は離れの部屋を使っていて、紫音の部屋は一階にある。紫音は藍の部屋に入り浸っているようで、離れにはお手洗いも簡易な風呂場も台所もあるので、暮らすには困らない。
今頃紫音と藍は同じ部屋で過ごしているのだろうか。二人が口付けをする場面など想像もできないが、そういうこともあるのかもしれない。
考えながら朱雀は青慈の部屋の扉を叩いた。書き物をしていた様子の青慈が、机の上に帳面を広げたままで扉を開けてくれる。
「こんな夜にどうしたの?」
もう風呂にも入り終えて、解いている青慈の真っすぐな髪が、さらさらと肩を滑り落ちていくのがとても美しい。見惚れていると、青慈が苦笑していた。
「お父さんは……朱雀は、隙だらけだから、俺に食べられちゃうよ?」
「食べられちゃうって……?」
どきりと朱雀の心臓が跳ねた。いつもいい子にしてくれているが、青慈の中には朱雀をどうにかしたい欲望が渦巻いている。かつてはそれに流されることも考えていたくせに、実際に青慈と生きる時間がどれだけでもあると分かってからは、朱雀はそこから目を反らし続けていた。
青慈の手が朱雀の頬を撫でる。ぞくりと体が熱くなって、朱雀は喉がカラカラで声を出すことができなかった。
「愛してるよ、朱雀」
僅かにかすれた声が囁いて、青慈の顔が近付いてくる。怖くなってぎゅっと目を瞑った朱雀の唇に、渇いて柔らかなものが触れた気がした。
「ほら、危ないよ」
「せ、いじ……」
「お休み、お父さん」
とんっと胸を突かれて、朱雀は部屋の外に押し出される。目の前で扉が閉まって、朱雀は廊下に立ち尽くした。
唇に触れたのは何だったのか。
朱雀は自分の唇を押さえたまま、しばらくその場から動けなかった。




