7.畑からの脱走者
山には鹿や兎や猪などの動物がいる。大黒熊や大蜘蛛や毒蛇などの危険な動物もいる。そういう動物が入らないように、朱雀は家の周りに高い柵を立てていた。柵は庭を一周して入口には門があるので、庭では青慈も紫音も自由に遊ぶことができた。
春の麗らかな日差しの中、藍が青慈と紫音に靴を履かせて庭で遊ばせている。杏は畑の雑草を抜いてくれていて、緑は洗濯物を干してくれている。朱雀はそれを横目に見ながら、薬草を採取して家に戻って調合をするつもりだった。
「とーた! だーこ、にげた!」
「え?」
「だーこ、まてまて!」
ぴょこんと庭の薬草畑から飛び出したのは、異国ではマンドラゴラと呼ばれる魔法生物の大根だった。手足のように根っこが生えて、顔のある大根は、去年の冬前に全部収穫したはずなのに、どこに残っていたのだろうと考えていると、青慈が飛び付いて捕まえた。
豊かに茂った葉っぱまで入れると青慈の身長と変わらないくらいの大根の胴体を抱き締めて、青慈がぽてぽてと朱雀に近寄って来る。
「とーた、だーこ、つかまえた!」
「あ、あぁ、ありがとう」
「びやああああああ!」
暴れて逃げようとする大根を受け取ると、青慈は青いお目目で朱雀を見上げてくる。
「だーこ、ちょーごーすゆの?」
「今のところ使う予定はないけど」
「だーこ、せーがかったら、め?」
大根を飼いたいという青慈の感覚が朱雀にはよく分からなかった。大根というものは飼えるのだろうか。完全に調合の材料としか考えていなかった大根のマンドラゴラを飼いたいと一生懸命青いお目目で見上げてくる青慈を見ていると、朱雀は了承するしかなくなってしまった。
「青慈が育ててみたいなら、育ててみるといい」
「だーこ、なにたべう?」
「成長させるために栄養剤を上げているけれど、それを飲ませてみるかな?」
腰につけた小さな鞄の中から栄養剤の小瓶を取り出すと、大根が両手を上げて必死に足に縋って来る。土がズボンに付きそうだったので、瓶を渡すと、器用に大根は手に当たる部分で瓶の蓋を外して栄養剤を飲んだ。
「びぎゃー!」
飛び跳ねている大根を見て、青慈も飛び跳ねる。
「だーこ、よろこんでう!」
「喜んでるのかな? 青慈には分かるのか?」
「うん、わかう!」
青慈は大根と意思疎通ができるようだ。これも勇者の特徴なのだろうか。青慈が大根と一緒に歩いているのを見た紫音が、衝撃を受けたように立ち尽くしている。じーっと青慈と大根を見た後で、紫音の行動は早かった。
畑に歩み寄ると、長く伸びた葉っぱを一生懸命引っ張っている。青慈と同じく大根が欲しいのだろうが、朱雀はそこに大根を植えた覚えはなかった。そもそも、去年の冬に全部収穫したはずの大根がどうして一本だけ残っていたのだろう。
収穫されるのが嫌で逃げて隠れていたのだろうか。
土から離れるとマンドラゴラは急速に力を失っていく。それを保持するために朱雀は腰の魔法のかかった鞄に入れているのだが、外に放置していると萎れてしまう。
そもそも、マンドラゴラは自分で畑から出てきたりしない。何故こんな妙なマンドラゴラが成長してしまったのか全く分からずに朱雀が悩んでいる間に、紫音はずっと葉っぱを引っ張り続けていた。
「ふんぬー! ふぬー! ふぬー!」
すぽんっといい音がして何か土にまみれたものが抜けた。
「人参!?」
「あー! うー!」
抜けた人参はじたばたと手足のような根っこを動かして、顔を顰めている。顔と手足のある人参と言えば、やはりマンドラゴラしかない。
「なんで、マンドラゴラがこんなに残っているんだ?」
畑を調べ直しても、マンドラゴラはまだ双葉の状態で、育っているものは一本もない。どうして青慈と紫音の分だけマンドラゴラが残っていたのか、全く意味が分からない。
戸惑っている朱雀よりも、藍の方が動きが早かった。土だらけの人参に頬ずりしようとする紫音から素早く人参を取り上げて、水で綺麗に洗ってから返した。人参を取られて即座に綺麗に洗われて返された紫音は、泣く暇もなく、自分の手に戻って来た人参に頬ずりして涎を付けていた。
「その人参……」
「大丈夫よ、朱雀さん、ちゃんと洗ったわ!」
「そういう問題じゃなくて……紫音、飼いたいの?」
「うー!」
もう自分のだとばかりにしっかりと抱き締める紫音の手から、人参を取り上げることはできない。人参のためにも栄養剤を出すと、人参が受け取って瓶の蓋を開けて飲んでいた。
「びょええええー!」
「おっ!」
元気よく鳴いた人参に紫音が喜んでお尻を振って歌い出す。めちゃくちゃな音程の歌詞も分からない歌だが、朱雀はその歌に魔法の気配を感じ取っていた。
「その歌は……?」
「ご機嫌になると歌うのよね。教えてもいないんだけど。私は子守歌の一つも歌えないからね」
「魔力が宿っている。この年で魔力を使いこなすとは、紫音もただの子どもではない?」
青慈が勇者だったように、紫音が普通の子どもではなくても、朱雀はもう驚かなかった。
「勇者がいつまでも見つからないから、国王が聖女をこの国に生まれさせるための儀式を行ったって話は聞きましたね」
お昼ご飯の時間になって、おにぎりと豚汁と鶏肉を焼いたものを準備していると、手伝っている杏がそんなことを口にしていた。勇者と聖女は繋がりが深いので、近い場所に生まれるという。
「青慈と紫音は本当に親戚なのかもしれないわ」
「顔も似ているものね」
「勇者と聖女ならば親戚でもおかしくないわね」
お昼ご飯で家に戻って来た藍は、青慈と紫音に麦茶を飲ませている。青慈は上手に湯呑で飲んで、紫音は哺乳瓶に入れてもらって一生懸命吸っている。哺乳瓶を咥えさせられても紫音は手から人参を離さないし、青慈も大根をすぐそばに立たせていた。
人参はときどきじたばたと暴れるが、嫌がっている様子はなく、大根は逃げることなく青慈のそばに立っていた。
「だーこ、たべちゃ、めっよ?」
「青慈が大事にしてるなら食べないよ。定期的に栄養剤も上げよう」
「しーたんのじんじんも、めっよ?」
「紫音の人参も食べないよ」
一生懸命自分の大根と妹のように思っている紫音の人参を守ろうとする青慈の姿に、朱雀はなんて優しいのだろうと感動してしまう。小さいけれど青慈は妹を思いやっている。
紫音も硬いものは解して、食材を小さく切れば大人と変わらないものを食べられるようになっていた。匙でお口に運ばれて、大きなお口で紫音は藍に食べさせてもらっている。
青慈は箸を使おうと練習しているが、まだまだ上手に使えずに、匙を使うことが多い。箸は刺すようにしか使えない。
「おとーたん、おこめ、おてて、いっぱいちゅいた」
おにぎりを強く握りすぎて潰してしまった青慈が米粒が大量についたお手手を差し出して来るので、朱雀はその手を丁寧に拭ってあげる。まだ嚙み切ることが難しく、喉に引っかかるかもしれないので、青慈と紫音には海苔は小さく千切ったものしか与えていなかった。海苔の部分を持つと米粒が手に付かないのだが、青慈のおにぎりには海苔が小さく千切られているのでどうしても力が入って握り潰してしまうのだ。
それは青慈の握力が3歳児と思えないくらい強いのもあるのだろう。
「もしかすると、顎の力も強いのかな?」
「あご?」
「青慈は噛む力が強いのかなと思ってね」
確かめてみたいような気もするが、どうやって確かめればいいのか分からない朱雀は、子育て自体が初めてなので知らないことが多かった。
「育児本でも買うかな……」
「ああいうのは、あまり信じちゃダメよ」
「参考にならないことばかり書いてあるって言うわよ」
「あくまでも個人の経験みたいよ」
育児本の購入を考える朱雀に、藍と杏と緑は、批判的だった。育児本よりも雑貨屋の店主の母親に聞きに行った方がいいのかもしれない。
ただ、勇者と聖女の育て方を聞かれたところで、誰も答えられないであろうことだけは朱雀にも分かっていた。